「よっと、と。……狭いな」
そんな佐竹さんの声とコートを枠に擦る音が背後から聞こえて来る。
見れば、佐竹さんが次に入ろうとしている紗耶香ちゃんに手を差し出していた。紗耶香ちゃんはいつき先輩と然程(さほど)体格に違いがなさそうなので、苦労することもなく潜る。最後にこの面子(めんつ)で最も背の高い尊先輩が窮屈そうに屈んで扉の下半分を通る。途中で景気良く背中を枠にぶつけて「イテッ」と漏らした。
「意外に綺麗だね。ネットで有名だし、落書きなんかでもっと荒れてると思ってたけど」
佐竹さんが喜色の滲む声で言い、懐中電灯片手に見渡した。
硝子張りの高い天井も、外で伸びっ放しな草木のせいか月明りは差さず、屋内は暗い。
左手に‘夜間受付’と書かれた小さな窓口のある壁に落書きの形跡はない。
有名な廃墟や心霊スポットは大抵落書きやゴミが残っているので珍しかった。
そこから少し進むとやや広い空間に出て、長椅子が整然と並べられていた。椅子の向こうに古びた緑色の公衆電話が複数置かれ、更に奥には売店らしきものが見受けられた。左手には‘STAFF ONLY’と書かれた扉が一つ、右手には受付と薬局。十年前はまだ医薬分業なんてなかったから、病院内に薬局が併設されるのが普通だったっけ。壁際に観葉植物の鉢植えが幾(いく)つか残っていたものの、植物は既に枯れて見当たらない。
「あ、これ案内板かあ」
長椅子の間に背もたれのように立つ柱を見上げた紗耶香ちゃんが案内板に気付く。
見たところ、一階は診察室やリハビリステーション等の治療スペース、二階と三階は病室やナースステーション等の入院患者スペース、四階は屋上と院長室といった感じだ。建物は長方形を横にした形で一階の玄関部分だけは出っ張っていて、例えるなら某チョコレートボール菓子の箱の口を開けた状態に似ている。
僕達が今いるのは一階の玄関を入ってすぐのエントランスホールらしい。
紗耶香ちゃんのメモと案内板を照らし合わせてそれぞれの場所を確認する。
「受付はともかく、手術室は如何(いか)にもな場所だな」
案内板の手術室の文字を見たいつき先輩がそう零した。
「やっぱり手術室って出やすいんですか?」
「人の生き死にに深く関わる場所は得てして出やすいものさ」
僕がいつき先輩と話している脇で、他の三人はさっそく受付を覗き込んでいた。
別の扉が受付に通じていることに気付き、尊先輩がそこから中へ入って窓口を挟んだ向こう側で壁に設置された棚を物色するのが見えた。長年使用されて黄ばんだ半透明のファイルにカルテらしき書類が挟んであり、ある程度受付の中を見た後、カルテの一つをファイルごと持って戻って来る。
「カルテを勝手に持ち出すと看護師の霊が追いかけて来る、だったよね?」
尊先輩が聞き、佐竹さんが頷き返す。
「‘返してください’って言いながらずっとついて来るらしいよ」
「来たらその看護師さんに謝って返してみようか」
「いや、お前見えないじゃん」
「あ、そうだった」
度胸があるのか、単にのんびり屋なのか、尊先輩の提案に佐竹さんは呆れ気味に言った。
追いかけられても見えないんじゃあ気付かないかもしれないし、気付いたとしてもワザと持ち出したカルテを追いかけて来た看護師の霊に直接返そうなんて思うのはきっと尊先輩くらいだ。
紗耶香ちゃんが尊先輩の手元のカルテを微妙な顔で見る。
「それにしても書類が沢山残ってたけど、ああいうのって普通処分しない? なんかつい最近までまだやってましたって感じがしてキモチワル〜ッ」
確かに。廃業するに従って本来は書類や個人情報の書かれたカルテなどはシュレッダーにかけるなり、焼却処分なりするはずだ。廃墟にそのまま残して放置するのは色々不味い。僕達みたいな人間が来て、残った書類から当時の入院患者や外来患者の個人情報が洩れる可能性も大いにあるのだから。
「心霊スポットはさ、どこも妙に生活感が残ってて生々しいっていうか、自分達以外の存在がいるんじゃないかって想像してゾッとするよなあ」
「あたし、そういうのちょっと無理」
「僕も生活感がある廃墟って曰(いわ)く付きっぽくて苦手だよ」
偶(たま)に、廃墟にホームレスが住んでいて知らずに鉢合わせてしまうこともある。
あれは心臓に悪いし、怒鳴られたり追い出されたりもするから、生活感の残る場所を見ると落ち着かなくなる。幽霊も怖いけど、生身の人間に追いかけられるのも充分怖い。
「って、いつき先輩待ってくださいよ!」
話が長くなりそうだと思ったのか、いつき先輩が一人で病院の奥へ歩き出した。
早足で追い付けば、チラと一度だけ視線がこちらを向く。
「時間が惜しい。予報では今夜は更に冷え込むらしい。さっさと回って、さっさと帰りたい」
「寒いの苦手なんですね」
「暑いよりかはマシだが、どちらも好きじゃない」
後ろから三人の足音も追いかけて来る。
「黙って先に行かないでよ!」
「いつきちゃんは相変わらず度胸があるなあ」
紗耶香ちゃんと佐竹さんが正反対の反応を示す。
尊先輩は特に気にした様子もなく、最後尾でのほほんとしていた。
いつき先輩は右側に並んで文句を言う紗耶香ちゃんに対し、懐中電灯を態々(わざわざ)左手に持ち替えて、空いた右手で右耳を塞いで煩そうな顔をした。
「何であんたっていっつもそうなの? 協調性ないわけ?」
「協調し合っていたら、何時までもあそこから動かないだろう。時間の無駄だ」
「はあ? お喋りくらいしたって別に良いでしょ?!」
「お喋りくらい歩きながらしたらどうかと言っているんだ。一々立ち止まって話していては、夜中までかかってしまいそうだったからな。先陣を切っただけだ」
また口喧嘩を始めてしまった二人の後ろを男三人が歩く。
いつき先輩は普段通りだが、紗耶香ちゃんは苛立ちのせいか声が若干大きくなっており、暗い院内に響き渡っている。他に音がないので殊更よく声が通るのだろう。
僕達はエントランスホールから見て左手――‘STAFF ONLY’と書かれた扉のあった方だ――の通路を奥へ向かって進んでいる。左にリハビリステーション、備品室、リハビリルーム。右に売店、階段とエレベーター、トイレ、手術準備室と廊下を抜け、手術室へ着く。術後にストレッチャーごと患者を上階の病室へ移動させるためか、手術室の傍にはやや大型のエレベーターがあった。
「ここだな」
頭上の「手術中」と書かれた文字を見て、いつき先輩が扉へ手をかける。
躊躇いなく押し開けた扉の先には暗く冷たい室内が広がっていた。
水捌けのよさそうなタイル張りの床や壁と部屋の中央の手術台が目に飛び込んでくる。照明も残っていたが、他の機材は全て運び出された後らしい。
いつき先輩に続いて足を踏み入れる。少しだけ、気温が下がった気がした。
佐竹さんと紗耶香ちゃんは手術室の内部を使い捨てのカメラで撮っている。
先ほどは気にしていなかったが、そういえば受付も窓口越しに写真を撮っていた。
手術台の周りをグルリと回るいつき先輩に僕は意識を傾け、何か起きやしないかと期待半分、起きたらどうしようと不安半分の中で、カメラのフラッシュから顔を背けて撮影が終わるのを待つ。
何気なく照らした手術台の下に黒い染みを見付けて背筋に冷たいものが走った。
手術室に残る黒い染みとくれば、それはもう血痕しか思い当たらない。
「陽介君、大丈夫?」
ぽん、と背後から肩を叩かれて僕は思わず声を上げてしまった。
「うわああっ?!」
「おおっ、何だ?!」
「きゃっ?!」
僕の悲鳴に釣られて佐竹さんと紗耶香ちゃんも驚きに振り返る。
驚きつつもしっかりカメラのシャッターを切られたため、フラッシュで目が眩んだ。
見え難い視界の中で大きな手の平が目の前をひらひらと動いた。
「ごめん、いきなり叩いたから驚かせちゃったね」
柔らかな声で、僕の肩を叩いたのが尊先輩だと分かってホッと胸を撫で下ろす。
「いえ、こちらこそすみませんでした。ちょっと精神的に良くないものを見付けてしまって……」
「えっ、良くないものって何々〜?」
「どこ? とりあえず撮っておこう」
僕の返事に紗耶香ちゃんと佐竹さんが近寄って来る。
黙って手術台下に残る黒い染みを懐中電灯で照らせば、二人はすぐにそれを写真に収めた。手術で流れた血というと、それだけで僕には恐ろしいもののように感じられるのだが、この人達は違うのだろうか。
尊先輩は‘視えない聴こえない’の霊感ゼロ体質らしいし、いつき先輩は霊に恐怖を感じるどころか近くにいても平然と通り過ぎそうだ。心霊スポットで怖がる僕は一般的な感性だと信じたい。でも周囲はオカルト好きやそういった類に慣れた人が多くて、何かある度(たび)に怯える僕の方がおかしいような気さえしてくる。
「手術室には執刀医の霊が出るって話だけど、全然出て来ないじゃん」
紗耶香ちゃんが続けて「手術室と霊安室は出るでしょ、普通」と漏らす。
その呟きをいつき先輩が鼻で笑い飛ばした。
「面白半分で訪れる人間の前に出て来てくれるほど、霊はお人好しではない」
「じゃあ心霊スポットにいる幽霊って何で何度も出るワケ?」
「知るか。本人にでも聞いてみろ」
「それが出来ないから‘視える’あんたに聞いてんのよ」
溜め息混じりに返すと紗耶香ちゃんは兄である佐竹さんの腕を叩く。
「霊も出そうにないし行こう?」
「そうだな。尊はどうだ? ここは何か感じる?」
佐竹さんが手術室の出入り口に付近いた尊先輩に振り返る。
片側の扉に寄り掛かっているため、扉は開け放たれたままだ。
「俺はその方面では役立たずだけど、場所柄どこも良い空気は感じないなあ」
何時もと変わらない穏やかな口調で尊先輩は小首を傾げた。
佐竹さんが「それもそうか」と言い、時間の都合もあって次へ向かうことにした。
誰も聞かなかったので僕も黙っていたが、手術室を出た後、前を歩く三人に気付かれないようにいつき先輩の肩をチョイとつつく。視線だけで問い返された。僕は口元に手を当てて、小声で聞いた。
「手術室、本当に何も居ませんでした?」
いつき先輩は一言(ひとこと)言った。
「居た」
やっぱり。この人は聞かれないことについては基本的に答えないのだ。
まだ短いがこれまでの付き合いに鑑(かんが)みると、霊の様子が目に余るか周囲に危険が及ぶといった状態でなければ関知しないし、口にも出さない。だが意地悪でそうする訳でもなく、単に‘視える’いつき先輩にとっては霊がそこに居ても無害であれば気にしない。以前、僕に憑く霊について話した時に「いちいち説明していられない」と零していた通り、僕達一般人が雑踏の中で擦れ違う相手の人数や様子を気に留めないのと近い感覚なのだろうと思う。
「執刀医ですか?」
心霊スポットに行く時は必ず感じる怖いもの見たさで話を続ける。
紗耶香ちゃんが「確かこっちに階段がありましたよねー」と来た道を指差しながら進む。
どうやら二階へ上がるつもりらしい。
「いや、手術中の患者が台の上に寝ていただけだ」
「それって……」
「安心しろ。意識はなさそうだったのでな、放っておいても大丈夫さ」
むしろ手術中の姿で意識があった方が怖い。
突然、台の上に現れて、切開された姿で追いかけられた日にはトラウマになりそうだ。
手術室の物に下手に触るのは躊躇われたが、台に触らなくて良かった。手術台の上で横になる患者の霊の傍で、僕達が呑気に会話をしていた場面を想像すると両腕に鳥肌が立った。
三人に聞かれていない今のうちに質問を重ねてみる。
「ざっとで良いんですけど病院に入ってから何人くらい視ました?」
いつき先輩の頭が僅かに傾く。
「さてな。十までは数えたが、それ以上は面倒臭くてやめた」
この廃れた病院には数える気が失せる程度には幽霊がいるのか。
「先に言っておくが、数が多いのは君がいるせいもある」
「もしかして僕の体質ですか?」
僕の宿木(ヤドリギ)という体質は霊にとって居心地の良い存在――それか場所と言うべきか――らしく、知らず知らずのうちに様々な霊を引き寄せたり憑かれていたりするのだが、僕自身は憑かれても全く何の影響もない。
霊を引き寄せやすい体質だけど、同時に霊に対して鈍いという欠点とも利点とも言えないような、でも誰かに吹聴するには躊躇ってしまう何とも微妙な体質だ。
「そう心配せずとも、元々ここに留まる霊を引き寄せたところで問題ない。大半は地縛霊になっていて、病院の敷地外に出るのはまず無理だろう」
「つまり、僕に近付いても外までは憑いて来ないと?」
「恐らくはな」
その言葉にホッと胸を撫で下ろす。
外まで憑いて来て、僕の近くにいる他の誰かに憑かれでもしたら嫌だ。
「おーい、二人共、あんまり離れると危ないよ」
佐竹さんの声に顔を前へ戻せば、三人が階段の前で立ち止まってこちらを見ている。
会話に意識が逸れて歩みが遅くなっていたようだ。
いつき先輩と僕が早足で追い付くと全員で二階へ続く階段を見上げた。
「次は出てくれないかなー」
紗耶香ちゃんが期待のこもった軽い足取りで階段を上がって行く。
手術室の件を教えたら戻ると言い出し兼ねないので黙っておくことにした。
戻ったとしても、どうせ僕達には見えないのだから。