二階と三階は入院患者用のスペースとなっている。
病院は全体的にどこも清潔感のある白を基調としているが、二階に上がってみると、外来も受け付けていた一階に比べて大分色彩の変化が少ないように感じられた。白と柔らかなベージュで統一されている。
階段を上がった右手の壁にも小さな案内板があった。
建物の外側に接する部屋が病室、内側の部屋や空間がそれ以外のリネン室やトイレ、階段やエレベーターといった具合に分かれており、階の中央にナースステーションが収まっていた。僕達はそのナースステーションの目の前にあるエレベーターの脇にいるらしい。
「二階はどういう霊が出るの?」
案内板の前に立って部屋を確認していた紗耶香ちゃんへ尊先輩が問う。
「ナースコールが鳴ったり、110号室の窓の外に上から落ちて来る影を見たり。でも二階で多いのは車椅子に乗った霊の話ですね〜。見えなくても、車椅子が動くような音は聞いたって人もいるみたいですよ!」
「音くらいは俺も聞こえたら良いんだけど、聞けると思う?」
紗耶香ちゃんの話を聞いた尊先輩がこちらへ顔を向ける。
自分への問いだと気付いた気付いたいつき先輩が首を振った。
「ここに残された車椅子が動くのであれば別だが、霊体なら無理だろうな」
尊先輩も予想済みだったのか「そうなるよねえ」と苦笑した。
僕はそれを聞いて不意に去年の八月の件を思い出した。
「でも前に廃屋へ行った時に、一緒に人影を見ましたよね?」
何気なく言えば、眉を顰(しか)めたいつき先輩に「何?」と見上げられた。
不機嫌そうな表情と若干低くなった声に自然と体が跳ねる。
今の言葉で何故いつき先輩の機嫌を損ねたのか分からなかった。
「‘視えた’のか?」
ジロリといつき先輩は尊先輩へ視線を移す。
兄妹だけあって、睨まれても尊先輩は怯(ひる)まない。
「いや、偶然鏡に映ったのが見えただけ」
「そうか」
それだけで通じたようだが、さっぱり理解出来なかった。
ほぼ同時に首を傾げた僕と紗耶香ちゃんに尊先輩は小さく笑う。
「あのね、鏡っていうのは色んな意味で特別なんだよ。古来より神聖なものとして祀(まつ)られる一方で、‘こちらの世界’と‘あちらの世界’の境目のようなものとも考えられていて、霊力とも深い関わりがあってね。こちら側の目に見えない存在も、鏡を通した向こう側の世界でなら見えることもあるって話さ」
「鏡に纏(まつ)わる怖い話が多いのも、そういう関係ですか?」
「可能性としては高いと思うよ。そういう訳であの時は俺でも見えたんだ。もし直にその方向を見ていたら、俺は何も気付かなかっただろうね」
へえと感心する僕と紗耶香ちゃんの横で「常に手鏡持ってたらいいかもな」なんて佐竹さんが茶化したが、尊先輩は「興味はあるけど、そうまでして見たい訳じゃない」と肩を竦めて受け流した。
場の空気が和んだところで道順が決まったのか、紗耶香ちゃんが案内板を離れた。
まずは目の前のナースステーションへ行く。本当にナースコールが鳴るのか確かめたいということで、五人でぞろぞろとカウンター脇より足を踏み入れた。中はデスクや棚、年代物のパソコンなどといった当時の物が数多く残っていたが、ここは棚のガラスが割られていたり箱型の古いパソコンが床へ落ちていたりと少々荒れている。
「急に廃墟感が出てきたね〜。二階のナースステーションはネットでもオススメの場所だったし、前に来た人達が遊んで行ったのかなあ」
「いや、荒らすのはマナー違反だろ」
どことなく嬉しげな紗耶香ちゃんとは反対に佐竹さんは不満そうだ。
有名な場所ほど荒れているのはよくあることだ。
「勝手に入ってる時点で俺達も法律に反してるのに、そこは良いの?」
尊先輩が言って、佐竹さんは更に口をへの字に曲げた。
「ナースコール、ありましたよ」
そこへ助け船の如(ごと)くいつき先輩が声を掛けたため、僕達は揃って振り向いた。
ナースステーションの入って左手の壁に埋め込まれた機械がある。縦に書かれた病室の番号の横に一つか、多くても四つほど小さな赤いボタンが並び、ナースコールが押されるとボタン部分が赤く点灯してどこで鳴らされたかが一目で分かるようだ。横に受話器が設置されているところを見るに、それを取って通話ボタンを押せば病室のナースコールに繋がるのだろう。
「こういうのもあるんですね。以前観たドラマでは大きな電話機みたいやつが机に置かれていたので、全部そうなのかと思ってました」
ナースコールを照らしているいつき先輩の傍へ寄る。
初めて目にした機械に、僕は手を伸ばしてそっと触れてみた。
薄汚れた表面はザラついたが、ボタン部分だけは他よりツルリとした感触が強い。懐中電灯を持ち直してボタン部分の汚れを手で払い取ってみれば、表面が擦れて滑らかになっている。長年人が押し続けていたせいか割り振られた番号も掠れており、近くで見ると掠れた数字の上から黒い油性ペンで書き足した形跡もあった。書き足した人の‘とりあえず分かれば良い’という気持ちが読み取れて和む。
僕の母も長年愛用している物の文字が掠れるとよく油性ペンで上書きしていたし、それを乾かないうちに僕や父がうっかり触ってしまい、文字が擦れたり指先が黒く汚れたりしたなあ。
「ドラマそのものが昔撮られた番組じゃないか?」
「ああ、そうかもしれません。小学生の頃に祖母と一緒に観てました」
大学へ入って以来、久しく会っていない祖母や両親が少し恋しくなる。
一番近い連休にでも一度実家へ帰ろうかと考えたが、背後から伸びて来た手がナースコールの赤いボタンを一つずつ順番に押し始めたことで意識が引き戻された。その手佐竹さんのものだった。
「鳴らないな。時間とか決まってないのか?」
そもそも電気が通っていないため、鳴ること自体が本来可笑しいのだ。
現(げん)に佐竹さんがボタンに触れても全く反応しない。
「さあ? ネットでは時間なんて言ってなかったよ」
「マジか。流石にこの寒い中で何時間も待つのは無理だろ」
「でも手術室も何もなかったのに、ここでも不発だったらつまんないじゃん!」
紗耶香ちゃんと佐竹さんが顔を見合わせて眉を寄せる。
携帯で時刻を確認すれば午後六時を数分過ぎていた。
今のペースで回ると四階まで行く頃には午後九時を過ぎてしまう。
しかしせっかく来たのだから怪現象を一回くらいは見たいし、体験したいという二人の気持ちは口に出さずとも感じ取れた。無駄足というのは誰だって嫌だろう。佐竹さんが腕時計を見て小さく唸る。
「長くても三十分。それ以上は時間的に厳しいな」
横から小さな溜め息が聞こえて来た。
見れば、いつき先輩と視線が合う。
「では二階は二手に分かれて調べませんか?」
すぐに視線を外したいつき先輩が佐竹さんに提案する。
「その方が効率的ですよ。もし何か起きた場合は撮影なり、もう一方へ連絡なり入れれば良いでしょう。ここで何も起きずに終わるよりかは可能性があると思います」
「それもそうだね」
佐竹さんの同意を得ると、いつき先輩は横向きの拳で親指を立てて僕を示す。
「佐竹さん達と兄はここでナースコールが鳴るか確認を、彼と私は他の場所を見て回って来ます」
「良いか?」といつき先輩に問われて僕は頷いた。
尊先輩や紗耶香ちゃんからも異論は出ず、そういうこととなった。
僕達はナースステーションを出て、とりあえず時計回りに二階を歩く。
どの部屋も扉が開け放たれたままなので見て回るのに手間はなさそうだ。それよりも廊下の所々にゴミやパイプ椅子の残骸があるので、部屋ばかり気にしていると足を引っ掛けて転び兼(か)ねない。
ナースステーションとの距離が十メートル以上離れた頃、いつき先輩へ話しかける。
「皆と離れて大丈夫ですか?」
プレートに‘108’と書かれた部屋を覗き込みながら「何がだ」と返された。
「尊先輩が心配だから来たんですよね? うわっ?!」
言った途端にいつき先輩が勢いよく振り返ったので驚いてしまう。
苦虫を噛み潰したような表情で見上げられた。
「そういうことは気付いても口に出すな」
「あ、ええっと、すみません」
尊先輩の前ではないから良いかと思ったが、駄目だったらしい。
バツが悪そうないつき先輩は前髪を乱雑に掻き上げて視線を逸らす。
「……あれはこの手の才がない代わりに他の第六感は非常に鋭い。本当に身の危険がある場所は無意識に避けるし、どんなに危うい状態でも最良の道を選ぶ。私とは別の意味で神懸かり的な体質さ」
「じゃあどうして……」
「何事にも‘絶対’などというものはない。それに、家族を心配するのは当然だろう」
それだけ言って踵を返して先へ進むいつき先輩の後ろを歩く。
普段のつっけんどんな態度は素直になれないからか。
ちょっと可愛い。言ったら睨まれるのは必然なので言わないが。
「もう一つ質問いいですか?」
「……何だ」
硬い声で返された僕は両手を上げて降参のポーズを取って見せた。
「そんな警戒しないでくださいよ。この階を見て回るのならいつき先輩一人でも十分なはずなのに、なんで僕まで一緒に連れ出したのか気になっただけですってば」
いつき先輩と同様に廊下から病室の一つを覗き込む。
中は白い壁に柔らかなベージュの床と、同色の長いカーテンが吊るされていた。ボロボロのマットレスの乗ったベッド一つと木製の棚、壁際に寄せてあるパイプ椅子は座る部分に穴が開いて使い物にならなさそうだ。顔を引っ込めて扉の横を見ると‘109’とプレートに書かれている。広さ的にも個室の病室だ。
「君がいれば霊が活発的になる。上手くいけば、少し力を得た霊がナースコールの一つくらい鳴らしてくれるかもしれん。そうでもしないとあの二人の気も収まらんだろうしな」
「今更だけど僕が来て良かったんですか? 霊が元気になったら不味いことになりません?」
「その点は問題ない。君が霊を引き寄せてしまう体質であるように、私は霊を寄せ付けない体質だからな。建物に入ってすぐに花の匂いがすると言っていただろう? あれが届く範囲に霊は近寄れない上、君に憑けなければ霊も大暴れ出来るほど多くの力は得られない」
次の110号室を覗き込む。広い。ベッドが四つあるので四人部屋か。
いつき先輩の話を頭の中で反芻(はんすう)して聞き返す。
「つまりは?」
「霊に少し力を与えて怪奇現象を起こしやすくしようという魂胆さ」
「それって、やらせみたいなものじゃないですか」
「そんなことはない。力を与えたところで霊にやる気がなければ何も起こらん。私達はほんの僅かな手助けをして、怪奇現象に遭遇する確率を上げているだけだ」
いつき先輩は110号室をチラと眺めて通り過ぎた。
置いて行かれそうになり、僕も110号室から離れて追う。
職員用エレベーターの脇を通って反対側の廊下へ出ると、同じように病室が並び、廊下に挟まれた中央部分の部屋のプレートも増えた。手前から浴室、女性用トイレ、汚物洗濯室、給湯室。そしてナースステーション。さっきはナースステーションから処置室、汚物洗濯室、男性用トイレ、更衣室となっていたので、位置的に浴室と更衣室は中で繋がっていそうだ。
視覚上でも、構造上でもほぼ変化のない建物だと改めて思う。
迷わなくて良いが面白味はない。何かあった時に迷っても困るか。
120号室の大部屋から今度は個室の119号室、118号室、117号室、116号室と見ていく。
病室はどこも棚やベッド、カーテンなどの位置が全く同じである。そうなると同じ部屋を何度も何度も覗いているような気になり、つい後ろを振り返って見て来た部屋の数を確認してしまう。
ナースステーションの横を通り過ぎたが三人はまだナースコールを監視していた。
あの様子では何も起きていないのだろう。
いつき先輩も特に三人を気にせず廊下を進んで行く。
僕達が上がって来た階段の裏側に当たる場所の病室は、車椅子でも使えるトイレがあるために少しばかり狭く、一人か二人用の部屋といった広さだ。そんな部屋が二つ続き、一番奥に大部屋の111号室。111号室の前は広いホールとなっていて、天井に吊るされた看板によると談話スペースらしい。ここで患者が家族と話したり、のんびり日向ぼっこをしたりするための憩いの場所だったのかもしれない。
111号室を覗いて、ドキリと心臓が大きく跳ねた。
四つ並んだベッドのうち、右側の奥のベッドだけ、ベージュのカーテンがしっかり掛けられていた。他のベッドのカーテンは開けられたままだから、その一つだけが酷く目を引く。きっちり閉められたカーテンの傍には古びた車椅子が一台ある。一目で錆びだらけの古いものだと見て取れた。
突然、背後から電話のベルの音が響く。
「ひっ?!」
驚きながら振り返れば、いつき先輩が自身の携帯を耳に当てるところだった。
何だ、ただの着信音か。そうと分かると必要以上に怯えたことで気恥ずかしくなる。
「もしもし。ああ、こちらは何もない。……そうか、分かった。すぐ戻る」
短い会話で済ませたいつき先輩が携帯をジーンズのポケットへ仕舞う。
話の感じからしてナースステーションにいる尊先輩が相手だったのだろう。
「どうかしたんですか?」
いつき先輩は僕を示したようにナースステーションの方を親指で指差した。
「今しがた、ナースコールがあったそうだ」