新しい年を迎えた一月上旬の日曜日。午後五時の外は暗い。
今にも雪が降り出しそうな寒さと厚い雲に覆われた空の下を、助手席にいつき先輩、後部座席に僕を乗せた自動車が走る。無論、運転手はこの車の持ち主である尊(みこと)先輩だ。
事の始まりは今日の昼頃まで遡る。
一人暮らしで予定のない人間にありがちな、面倒臭いけれども食べない訳にもいかないが、でもやっぱりやる気が起きないといった状態で昼食を考えあぐねていた時に携帯が電話の着信を告げた。
画面に表示された名前を見て、僕の頭から食事のことは一瞬でどこかへいってしまう。
「はいっ、もしもし!」
慌てて耳に携帯を当てれば、落ち着いた声が聞こえて来る。
【もしもし。私だが、今少し話が出来るか?】
それはいつき先輩の声だった。
お互いの電話番号は昨年の八月、同好会の活動で廃屋へ出掛けた際に実は交換済みだった。
だけど意味もなく連絡をする訳にもいかず、かと言って同好会のことに関しては部室で顔を合わせている間に話が済んでしまい、結局いつき先輩へ電話をかける機会がこれまで訪れなかったのだ。
「はい、大丈夫ですけど、どうかしました?」
頭と肩とで携帯を挟みつつ、冷蔵庫からペットボトルのお茶を出してベッドへ座る。
とりあえず乾いた喉を潤すために開封し、よく冷えたお茶を一口飲んだ。
【兄が友人達と今夜、県境の廃病院へ行くらしい。……君も来るか?】
「‘も’ってことは、いつき先輩も行くんですか?」
【ああ、不本意極まりないが後で厄介事を持ち込まれても面倒だからな】
台詞だけ見れば不満そうだけれども、その声は普段通りで、僕は何となく‘視えない’尊先輩のことを心配してついて行くのだろうなと思った。尊先輩もきっとそれに気付いて喜んでるはずだということも、短い付き合いながら簡単に予想が付く。
そうして全く予定のない僕は当然「行きます」と答えたのだった。
手短に時間と目的地の名前を聞いて通話は終わる。いつき先輩に会えるという期待に舞い上がり、去年の夏に実家より届いた素麺(そうめん)の残りを茹でて冷蔵庫にあった卵と食べかけのかまぼこを乗せた適当な昼食を済ませると、僕は今夜行くという廃病院についてインターネットで大雑把に調べてみた。
オカルトマニアや廃墟マニアの中でも結構有名な場所らしく、検索をかけるとあっさりその廃病院の情報は引っ掛かった。車椅子の動く音がついて来るだとか、患者服を着た霊を見ただとか、インターネットの評判を総合すれば‘夜に行けば高確率で霊と遭遇する心霊スポット’であった。廃病院に行った人々の話が事実であれば最も多い心霊現象は‘カルテや書類を持ち出すと看護師の霊に追いかけられる’というものだった。
そんな風に夕方まで時間を潰し、僕の住むアパートまで迎えに来てくれた尊先輩の車に乗り込んで今に至るという訳だ。車が目的地へ走り始めて三十分ほどが経っている。
「尊先輩の友人って聞きましたけど、一緒に行かないんですか?」
後部座席からやや身を乗り出して問うと、尊先輩が頷いた。
「うん、向こうも車持ってるし、別の大学だから現地集合にした。高校の同級生の一人でね、今日は妹さんも一緒なんだ。妹さんは陽介君と同い年で、兄同士は仲が良いんだけど、どうにも妹同士は馬が合わなくてすぐ険悪な空気になっちゃうから、陽介君が来てくれて助かったよ」
そんな理由で呼ばれたのかと内心で少し呆れてしまった。
しかし、尊先輩がそう言うくらいなのだ。余程、仲が悪いのだろう。
「あれは向こうが悪い。私のすることにいちいちケチを付けるんだ」
明らかにうんざりした様子でいつき先輩が暗い車窓へ顔を背ける。
同好会での姿しか見たことはないものの、いつき先輩が誰かに対してこうも反発するのは初めて見た。
大抵は一歩引いた態度が多く、同じ同好会メンバーにも――残念なことに僕に対しても――どことなく距離を置いて接していること感じられるのだ。それがないのは尊先輩と、恐らく篠田先輩くらい。
だからこそ、そんな不仲同士の緩衝材代わりにされても困るのだけれど。
僅かな不安を抱く僕を乗せて、車は夜の道を静かに走っていった。
* * * * *
目的地である廃病院に到着すると、既に一台の自動車が道の脇に停車していた。
恐らく尊先輩の友人兄妹が乗って来たのものだろう。
尊先輩はその自動車のすぐ後ろへ車を停め、それぞれにバッグや懐中電灯を持って外へ出れば待ち草臥(くたび)れたと言わんばかりにいつき先輩と年の近そうな女の子が近付いて来た。
セミロングの明るい茶髪に目鼻立ちのハッキリしたメイクをした派手な印象の子だ。
見た目だけでもいつき先輩と正反対なタイプであることが察せられる。
「ちょっと遅いんじゃないの? どんだけ待たせるつもり?」
やけに棘のある言い方で責められたいつき先輩は眉を顰(しか)めて女の子を見る。
「集合時間の十五分前だ。遅くはない。時間よりも早く来れば、その分待つことになるのは考えなくとも分かるだろう。何でもかんでも私のせいにするな」
「はあ? 何その言い方、ムカつくんですけど」
「そっくりそのまま返すが、君の方こそ言葉遣いに気を付けたらどうだ?」
会った途端に口喧嘩が勃発した。まさしく犬猿の仲だった。
ぽかんとした僕を見て、尊先輩が苦笑を零す。
「最初からあんな感じなんだ。もうかれこれ三年くらい、顔を合わせる度にこうでね」
ここまで性格が合わないのもある意味、清々しい。
口喧嘩を止めない二人の間へ若い男性が「まあまあ」と割り入った。
癖のある襟足のやや長い黒髪をセットした男性は二十代前半で、いつき先輩と対面している女性にどことなく顔立ちが似ている。細身で、身長は僕と同じくらいだ。寒がりなのかマフラーに手袋、ニット帽を被り、ファー付きのフードがあるカーキ色のミリタリーコート姿で、肌が出ているのは顔だけだ。
今日はここ数日で一番寒さが厳しいので、そうなるのも仕方のないことだろう。
「十分くらい待ったうちに入らないし、尊達は約束の時間より前に来てるんだから何も悪くないじゃないか。俺達が早く到着しただけ。そうだろ?」
「それはそうだけど……」
「何より時間が勿体ないぞ」
男性は妹だろう女の子の頭を軽く叩いて諫(いさ)めてから振り返る。
「君が尊の言ってた後輩君だよね? 俺は佐竹瞬(さたけ しゅん)で、こっちは妹の紗耶香(さやか)。今日はよろしくな」
ニコリと笑いかけられて僕は慌てて会釈をする。
「八木陽介(やぎ ようすけ)です。よろしくお願いします、佐竹さん、えっと……」
「苗字だとお兄ちゃんと被るから、あたしのことは紗耶香でいいよ。あと同じ年なんだよね? それなら敬語もいらないから」
「うん、分かった。ありがとう、紗耶香ちゃん」
互いに自己紹介を済ませたところで僕達は懐中電灯を取り出した。
紗耶香ちゃん以外は全員が持っているため全部で四本ある。
「夜に廃墟へ行くのに懐中電灯の一つも用意してないのか」
呆れた風にいつき先輩が言い、紗耶香ちゃんが噛み付くように言い返す。
「あたしはあんた以外と一緒にいるから良いの!」
「他人任せとはいい加減なものだな。迷子になるなよ」
「ならないし! 一つしか違わないのに年上ぶらないでよ!」
厚い灰色の雲のせいで月明りすらない道へ紗耶香ちゃんがズンズン歩き始め、彼女の兄である瞬さんが仕方ないなと苦笑交じりにその後を追う。更に尊先輩、いつき先輩、僕の順で廃病院の正門へ向かった。
敷地を隔てる古く錆びた鉄柵の門は僕達以外にも肝試しか廃墟巡りに来た誰かが通ったままだったらしく、人が横向きで漸(ようや)く一人通れる程度の幅で開いている。試しに門に触れてみたけれども、手入れもされずに風雨に晒(さら)されていたせいかギイと鈍い音を僅かに立てただけで殆(ほとん)ど動かなかった。
門の向こう側は荒れ放題で、アスファルトの地面すら罅(ひび)割れて雑草が顔を覗かせている。
それでも知る人ぞ知る人気スポットというだけあって、雑草の中に、人が何度も押し退けたり踏み締めたりすることで生まれた細い道が一本だけ存在していた。
門を潜り、その獣道のような場所を一人ずつ縦に一列になって進む。
途中、雑草の中に表面が剥げて色褪せた看板が埋もれ、擦(す)れた字で「沼山(ぬまやま)病院」と書かれていた。一度入ったら二度と出て来られなさそうな名前の病院だなと頭の片隅で失礼なことを考えたが、不意に鼻先を甘い花の香りが微かに掠め、僕は匂いに釣られて顔を前方へ戻した。
控えめな優しい甘さを含んだ花の香りは嗅ぐだけで心が落ち着き、それでいて気分がスッキリする爽やかさもある匂いだ。香水やシャンプーなどの甘ったるい匂いとは違って自然の花に近い。
歩きながら雑草の合間に目を凝らしてみたものの、花は見受けられない。
そもそも雪が降り出しそうな寒い一月の山に、匂い立つほど多くの花が咲くだろうか。
首を傾げながら、僕はいつき先輩の背中と懐中電灯の明かりを頼りに歩く。
病院の建物の前へ出ると、両開きの正面扉は硝子(がらす)が割られて屋内へ冷たい風が流れ込んでいる。
扉には門と同様に鎖が巻き付けてあるところを見るに、誰かが侵入しようとして硝子部分を割ったのかもしれない。破片が一つも扉に残っていないのも出入りする際に怪我をしないためか。足元には割れた硝子が散乱していて、どちらにしてもうっかり膝を付こうものなら破片で切ってしまいそうだ。
「ここの噂、知ってる?」
病院の正面玄関の上にある院名を懐中電灯で照らして佐竹さんが聞いてくる。
「車椅子の音がついて来るとか、患者の霊がいるとか、勝手にカルテなんかを持ち出すと看護師の霊に追いかけられるとかですよね?」
「そうそう。もしかして先に調べてきた?」
「はい、簡単にですけど」
頷き返せば、ニッと佐竹さんが悪戯っぽく笑う。
「それだけじゃなくて、電気が来てないのにナースセンターでナースコールが鳴る、呻(うめ)き声が聞こえる、霊安室で物が突然動く、なんていう話もあるらしい。この病院が廃業したのは十年も前なのに、霊は何でここから離れていかないんだろうな」
「霊は死んだ場所や、生前長く居た場所――……つまりは強く印象に残ったり未練があったりする場所に留まることが多いです。この病院にいるのもそういった地縛霊に近いものだと思いますよ」
佐竹さんの疑問にいつき先輩が答え、佐竹さんは「へえ」と感心した風に声を漏らした。
病院は場所柄、生と死が隣り合う場所だ。助かる命も多いけれど、助からない命も多く、生きたいと願いながら死んでいった人々の霊がここに執着してしまうのは分かる気がする。
「ところで、この病院そこそこ大きいけど全部見て回るの?」
尊先輩が少しだけ背を反らして建物の上部を照らす。
病院はどうやら四階建てで、最上階は部分的に建物があるだけで、ほぼ屋上になっているようだ。
しかも横幅もそれなりに長いため、外から見ても中の広さは想像が付く。
全ての部屋を一つ一つ律儀に巡っていたら時間が掛かり過ぎてしまう。
「じゃじゃーん、これを見ながら行きまーす」
紗耶香ちゃんがバッグから可愛らしい一枚のメモを取り出した。
某夢の国のキャラクター柄のそこには霊が出るポイントが書かれており、一階の受付を起点に四階の院長室まで上がり、降りて来て終点は地下の霊安室という具合にルートが決められていた。
「ネットで調べた中からお化けが出そうな場所をメモしておいたんだ〜」
「じゃあその通りに回ろうか。調べて来てくれてありがとう」
「やった! 尊さんに褒められちゃった!」
尊先輩にお礼を言われ紗耶香ちゃんが嬉しそうにはしゃぐ。
……あれ、もしかして紗耶香ちゃんって尊先輩のことが好きなのかな?
佐竹さんに視線だけで問えば、微苦笑を浮かべて軽く肩を竦めてみせたので、僕はそれを肯定と受け取った。そもそも尊先輩は格好良いから、それだけで非常に女子に人気が高い。先輩後輩関係なく大勢の女の子が尊先輩に密かな想いを寄せているだろう。
喜ぶ紗耶香ちゃんを余所に、いつき先輩は懐中電灯で中を照らして障害物がないことを確認すると、さっさと硝子のなくなった扉を潜って屋内へ入って行く。僕もその背中が暗闇に紛れてしまう前に後を追って扉の下半分の隙間に体を屈める。予想以上に狭く、立ち上がろうとして背中を枠に少しぶつけてしまった。後ろ手に背中を触ってみた。幸い、硝子が全て落ちていたお陰で服に破れはないようだった。
小さく息を吐いて顔を上げるとまたあの花の匂いが漂って来る。
「いつき先輩、何か花みたいな匂いがしません?」
二歩ほど離れた場所で周囲を見回していた背中が振り向く。
「ああ、それは多分私だ」
「香水ですか?」
「いや、そういうものは嫌いでね。使っていない。だがその匂いは良くない場所ほど強くなる。私自身に匂いは分からないが君が気付くほど強いのなら、ここはあまり長居すべき場所じゃないということさ」
意味が分からず首を傾げれば「まあ、家系的なものだ。兄もそうだから、気になるなら後で嗅いでみろ」と言われたが、いくら格好良くても同性の匂いをわざわざ嗅ぐ気にはなれない。
顔を顰めた僕に、いつき先輩はほんのり口角を引き上げて可笑しそうに笑った。