それから十五分ほど経ち、和尚が古びた本を手に座敷へ戻って来る。
待たせたことを謝罪しつつ座布団に座った。
突然来たのは僕達の方なので待つことに不満はない。
和尚が座卓の上に置いた本の表紙には‘過去帳’と書かれていた。
随分昔のものらしく、表紙と背表紙の間に見える紙の束は黄ばんでいる。
「今でこそ無縁仏さんは知られているけれど、一昔前は大体自分の家とお墓を継ぐのが当たり前でした。お嫁さんを貰ったり、お婿さんに行ったり、とにかく家を継ぐというのはとても大切なことでね。どこの家も昔から決まったお寺にお墓を持って、ご先祖様を供養していたんですよ」
どこか懐かしい思い出を辿るような口調で和尚は話す。
「あの頃はまだその意識が強かった。だから新しくお墓の土地を買う人なんて滅多にいなくて、元の土地がもう骨壷でいっぱいだから新しい土地を欲しいとか、もっと広い土地にお墓を移したいとか、それくらいでした。ご実家を出て夫婦で新しいお墓を建てる方は極稀(ごくまれ)でした」
過去帳という本を和尚が開き、ページを捲る。
ぺらり、ぺらり、今時の紙とは違う、少し柔らかくて厚みのある音がする。
「三十年ほど前に、そんな稀なご夫婦がいらっしゃいました。二十代前半か、十代後半か。今の人からすれば若いと思われるかもしれませんが、当時は二十歳前後で結婚する方が多かったので、若いご夫婦自体は別段珍しくはありませんでした。ただ、普通は結婚して実家を継ぐ際にお墓も一緒に引き受けることになりますから、わざわざ新しい土地を買われるのが不思議だったのです」
神代先輩も僕も黙って和尚の話を聞く。
何となく、僕達の探すものに近付いているという予感めいたものがあった。
時間の流れを忘れさせまいとするかの如く、窓の外では小雨が降り続いていた。
「まだ生まれて間もない男の子を抱いて、何度も土地を見にいらっしゃいました。ご夫婦で土地を決め、いざ買おうとした矢先に奥様がご病気でお亡くなりになられて、その後どうなったのかは分かりません。土地は買えなくなってしまった、本当に申し訳ないと旦那様が頭を下げに来ましてね、何か理由があるんだろうと思って私は快く土地の話をなかったことにしました」
和尚の声は優しく、けれど悲しげに語り続ける。
「それから数年経った頃に、一人の行旅死亡人(こうりょしぼうにん)の骨を供養して欲しいと自治体から頼まれて、小さな骨壷を寺の裏手にある無縁仏さんに納めました」
紙を捲くっていた和尚の手が止まる。
見ると、目を閉じて小さく息を吐いた。
「行旅死亡人というのは、本来は身元も分からず、ご遺体の引き取り手もいない人のことを指すんです。でもね、その時の行旅死亡人は身元が分かっていたんですよ。名前を一目見て、私は‘あの若いご夫婦の旦那様だ’と気付きました。気付いたけれど、私にはどうしようもなかったのです」
ゆっくり開かれた目は涙で潤んでいる風にも見えた。
和尚はそっと黒い法衣の袖で目元を拭い、紙を捲くる。
その手はほんの微かに震えていた。
「奥様も旦那様も亡くなり、残された男の子がどうなったのか気になって住所まで行ってはみたものの、もう誰も住んでおらず、ご近所の方へ聞いて回って、漸く男の子は県外の児童養護施設に行ったと知りました。旦那様と同じく、男の子も身寄りがなかったのでしょう」
和尚の手が止まり、あるページを広げて僕達の方へ差し出した。
そこには名前と性別、住所、死亡日、享年、戒名、後半は初七日などを何時行ったかが記載されていた。
備考欄に恐らく奥さんと子供のものだろう名前、生年月日、年齢が小さく書かれていた。奥さんの方は享年二十二歳。どちらにせよ早過ぎる死だったに違いない。
神代先輩は一瞬だけ視線を宙に向け、それから一つ頷いた。
「私達が探しているのはこの方で間違いないと思います。ご遺族の方――……息子さんが今はどちらにいらっしゃるかご存知ありませんか?」
「すみません、そこまでは……。ですが、つい最近地元へ戻って来たそうで、三ヶ月くらい前から毎週お参りをしに来てくださっていますよ。何時も土曜日の昼過ぎ頃にお見えになるので、その頃に来ていただければお会い出来るかと思います。……偶然とは言え、丁度良かったですね。お父様の手紙、お渡し出来ることを願っています」
「ええ、ありがとうございます。明日の昼頃、改めてこちらへ来てみます」
頭を下げる神代先輩に合わせて、僕も下げる。
和尚は「お役に立てて何よりです」と微笑んだ。
僕は少しだけ後ろめたくてもう一度頭を下げ直す。
欲しかった情報も得られたため、神代先輩と僕は何度も礼を述べて和尚の家を出た。
相変わらず小雨が降る中を歩いて寺を出てから、駅へ向かう。
寺の敷地内の静けさを抜けて、自動車の音や人々の話し声、行き交う足音を聞くと肩の力が抜けた。緊張していたのかと聞かれるとよく分からないが、それなりに気を張っていたのかもしれない。
「大収穫だったな」
神代先輩の言葉で飲み下したはずの疑問がふと戻って来てしまう。
「大収穫だったな、じゃないですよ。一体何するのかと思えば、あんな口から出任せ並べ出すから吃驚(びっくり)しました。嘘は吐かないって言ってたじゃないですか」
「私は‘無意味な嘘は吐かん’としか言っていない。君は生まれてから一度も嘘を吐いたことのない人間なんていると思っているのか? そんな者は世界中探したっていないだろうよ。人を傷付ける嘘は良くないが、今回のような場合は嘘も方便さ」
悪びれた様子もなく言って退けた神代先輩を、僕は感心と呆れと半々の気分で追いかける。
神代先輩が上手く機転を利かせてくれたお陰で核心に近付けた訳で、きっと僕一人だったら何も分からないまま無駄に時間だけを浪費していただろうから、神代先輩を責めるのはお門違いなんだと思う。そう思うけど、でも、やっぱりちょっと腑に落ちない。それに後ろめたい。
その気持ちは顔に出ていたらしく、歩調を緩めた神代先輩が僅かに苦笑を零す。
「気が咎めるのは分からなくもないが、そんな顔をするな」
余程(よほど)変な顔をしていたのか、ポンと慰めるように背中を軽く叩かれた。
「明日、息子に会えば霊が何を望んでいるのかハッキリするだろう。これも人助けのためだと思ってみ込んでやれ。こういうことは正直に事情を説明しても、普通の人間には信じてもらえない。下手をすると叩き出されたり警察を呼ばれたりする。話を聞き出すには多少の嘘はどうしたって必要になるんだ」
まあ、君はそうなる必要なんてないから気にするな。
そう冗談めかして前へ出た神代先輩の口元は少しも笑ってはいなかった。
今までそうやって人々の相談を解決してきたのだとしたら、そして今僕が感じている後ろめたさ、偽ることへの忌避感(きひかん)と解決させたいと願う気持ちとで生じる矛盾を神代先輩もかつて経験したのだとしたら、この行き場のない感情を一体どのように昇華(しょうか)したのだろうか。
‘他人(ひと)には見えないものが見える’という孤独を僕は今更になって気付かされたのだった。
* * * * *
翌、土曜日の昼前に駅で待ち合わせてから隣の駅へ電車で向かった。
前日に言われた通り、駅のプラットホームで待っているとやって来た電車の中にこちらへ軽く手を上げて見せる神代先輩がいたので、僕もその電車に乗り込んだ。
「こんにちは。神代先輩の家ってもしかして反対方向ですか?」
傍へ寄って問い掛けると頷きが返された。
「ああ、二駅ほど離れている」
それでプラットホームに入って待っていろと言ったのか。
駅の前で待ち合わせれば、一度改札を出なければいけなくなる。
それなら、僕が中へ入って来る電車を見ながら待っていた方が効率が良い。
電車に揺すられて次の駅で降りると、昨日と同様に寺までの道を歩く。運が良いことに今日は晴れた。でも夕方頃からはまた雨が降ると予報で言っていたため、背中の方にあるショルダーバッグの中には折り畳み傘を一本入れて来た。普通の傘だと邪魔だし、晴れている間は置き忘れてしまうのでこれにした。
神代先輩もバッグ以外は何も持っていない。
「息子さんに会えると良いですね」
前を歩きながら神代先輩は「そうだな」と頷いた。
昨夜は男性の夢を見なかった。多分、夢に出る必要がなくなったのだろう。
昼頃に寺へ着くと、昨日と変わらず門の扉は開け放たれていた。
今日は晴れたからか、和尚が寺院の前を竹箒(たけぼうき)で掃いているのが見えた。
神代先輩は門を潜って無縁仏の方へ進んだので、僕もそれへ続く。雨の日だから静かなのだろうと思っていたが、晴れた日でも寺内は静かだった。石畳や砂利を踏む音がとても響く。
無縁仏のところに来てみたが、まだ誰も訪れていないようだった。
神代先輩はバッグから小さな箱とマッチを取り出した。箱の中から線香の束を二つ取り出した。シュッと箱の側面で擦られたマッチに火が点く。手早く線香へ火を灯すと神代先輩はマッチを振って消し、全体に万遍なく火を巡らせるとマッチ同様に振って消した。束の片方を差し出される。
「君も供えると良い」
緩く煙を漂わせている線香を受け取る。
神代先輩が無縁仏の山の前に線香を置き、僕も倣(なら)って置いた。
両手の平を合わせ、ちょっと考えてから、無縁仏の山に眠る人々の冥福を祈った。
何も考えずにただ手を合わせるというのは何となく憚(はばか)られたのだ。
三十秒ほど黙祷した後に合わせていた手を離して顔を上げる。
横を見ると、神代先輩は後ろを振り向いていた。
何を見ているのか気になって視線を辿った先には男性がいた。
身長は僕より低く、細身で、濃灰色のスーツに紺色のネクタイを締めた若いその男性に僕は既視感(きしかん)を覚えた。初めて見る顔のはずなのに、どこかで会ったような気がした。
僕達に気付いた男性が会釈をする。神代先輩と僕も会釈を返す。
「ここで誰かと会うとは思いませんでした。何方(どなた)かお知り合いでも?」
穏やかそうな男性に話しかけられて神代先輩が頷いた。
「先日亡くなった父の知人がここに眠っていると知ったので、ご報告がてらお参りに」
「そうでしたか、失礼なことを聞いてすみません」
男性の言葉に神代先輩は首を振った。
「いえ、お気になさらず。……貴方の何方かお知り合いが?」
「ええ、父がここに眠っています。もう三十年も前のことですが」
一瞬、神代先輩の視線が男性の横へ焦点を合わせた。
男性は無縁仏に線香を上げて、暫し黙祷を捧げる。
その背中を見て、僕は‘ああ、そうか’と先ほどの既視感の理由に気が付いた。
僕の夢に出て来ていた男性の霊と、目の前にいる男性は背格好や雰囲気がとても似ていたのだ。
先ほどの言葉から考えても、この男性が霊の息子さんで恐らく間違いない。
顔を上げた男性が無縁仏の山を見たまま口を開く。
「私が生まれて一年と経たずに母は急病で亡くなり、父も五歳の時に交通事故でこの世を去ったそうです。その後は養護施設で育ちました。父と母は駆け落ち同然で結婚したそうで、ここに父が眠っていると知ったのもつい最近のことです。……母は、母方の実家の墓地に眠っていて、せめて遺骨だけでも共にと思ったのですが、三十年も前のことなのでどれが父の骨なのかも分からなくて、結局一緒にしてあげることも出来ませんでした」
独り言のような口調でとつとつと語る。
神代先輩はその男性の背中の横を黙って見ていた。
そこに男性の霊がいて、でも息子さんには父親の姿は見えなくて、どちらも見えている神代先輩はどんな気持ちでその様子を眺めているのか僕には想像もつかなかった。お互いが傍にいるのに触れ合えない。考えただけで、もどかしくて、切なくて、何も出来ないことが歯痒く思えた。
「本当に親不孝な息子ですね」
たった五歳で両親を亡くし、養護施設で育ったこの男性も大変だっただろう。
もしかしたら墓参りに来る余裕すらない毎日だったのかもしれない。
「今更来て、何様のつもりだと父も母も呆れているでしょう。怒られても仕方ありません。……実は来月、結婚式をあげる予定なんです。だからせめて、私は、二人の子供は元気だと、それだけでも知っていて欲しかったのです」
全ては私の自己満足に過ぎないんですけれどね。
男性は苦笑を零して振り返る。寂しそうな笑みだった。
親しい人を失った経験のない者が口先だけの慰めの言葉を投げかけるのは、してはいけない気がして、僕は何と言えば良いのか分からなかった。
「怒ってなどいませんよ」
神代先輩が言う。
「それどころか、お墓参りに来たことや御結婚されることを喜んでいますよ」
きっとそれは慰めではなく、事実なのだろう。
男性は神代先輩の言葉に少し嬉しそうに微笑んだ。
「私もそうであると思いたいです」
浅く会釈をした男性はゆっくりとした足取りで去って行く。
神代先輩も僕も、その背中が見えなくなるまで見送った。
やがて視界から完全に男性の姿が消えると神代先輩がこちらを向いた。
「君に憑いている霊が何を望んでいるのか見当が付いた」