享年二十五歳。結婚していたとしても子供はまだ小さかっただろう。
もしも僕がその歳で突然死んだら、やっぱり死に切れないと思う。
「子供に一目会いたいのか? それなら子供がどうしているのか知りたいのか? ……これも違う。口が利けないのは予想以上に厄介だな。一つ一つ確認していては時間が掛かり過ぎる」
神代先輩が難しい顔をする。
肯定か否定くらいしか出来ないから、話が遅々として進まない。
僕はメモ帳の【子供】の横に左矢印を引いて、クエスチョンマークを付けた。
ふっと神代先輩が息を吐く。空気が和らいだ。
「とりあえず子供に関して心残りがあることは分かった。貴方への質問はこれくらいにしておこう」
差し出された手にメモ帳と多機能ボールペンを返す。
「さて、次は君だ」
メモ帳とペンを脇へ置いた神代先輩に言われて、僕は頷いた。
「はい」
「昨日、一昨日、一昨昨日(さきおととい)と夢を見たということは、霊が憑いたのは一昨昨日、つまり三日前になる。……それで間違いないようだ。三日前に何をしていたか覚えているか?」
霊が頷いたのか、一瞬だけ神代先輩の視線が僕の左斜め後ろへ動く。
僕は三日前の記憶を頭の中から掘り起こした。
「その日は一日かけて羽柴先輩の引っ越しを手伝っていました」
本名、羽柴圭(はしば けい)。オカルト同好会に所属している四年生だ。
同じく四年生の彼女がいて、その彼女と僕を合わせた三人で羽柴先輩の引っ越しをした。卒業後に二人で同棲する予定だと言う部屋は広く綺麗で、始終仲の良い様子は少し羨ましかった。
「あの人か。確か、駅の南側のアパートに住んでいると聞いたが」
「そうです。そこから隣の駅の東口に近い、ええっと、ちょっと待ってください」
説明するよりも見てもらった方が早い。
携帯でインターネット上に公開されている地図を表示し、現在地を検索する。
それを机に置いて、大学から駅へ地図を動かす。
「ここが羽柴先輩の元のアパートで、先輩の車とその知り合いの人に借りた軽トラックで家具や荷物を運びました。ここから、この大通りを走って隣の駅の東口まで行って、こっちの道を通って、この突き当りのアパートが新しいところだそうです」
僕と神代先輩で携帯の画面を覗き込み、画面をスライドさせながら、その日に通った道を伝える。
地元ではないので複雑な道のりは覚え切れないけれど、幸い、羽柴先輩の新しい住所は以前と同じく駅に近い、大通りから一本脇道へ入った先の真正面という非常に分かりやすい場所だった。
家具や荷物を運ぶために三度ほど往復したので合っているはずだ。
神代先輩は僕の携帯の画面をスライドさせて、当日の道のりを確認する。
その手がある場所で止まった。
「恐らく、ここだろう」
指差されたのは‘卍’の記号だ。
「この記号って何でしたっけ?」
思い出せずに首を傾げると神代先輩が教えてくれる。
「‘まんじ’だ。日本の地図では寺を意味している」
「お寺。……あれ? 鳥居もありますよね?」
「あれは見た通り神社だ。神仏習合や分離で寺の敷地内に鳥居や社(やしろ)が混在する場合もあるが、基本的に寺と神社は異なるものだ。神社で結婚式はしても寺ではしないし、寺で葬儀はしても神社では行わない。特に神社は死やそれに類する穢れを嫌うから喪中に参拝などするなよ」
「へえ、そうなんですか。気を付けます」
勉強になるなと感心して聞いていれば、呆れた顔をされた。
小さく「最近の若者はそんなことも知らんのか」なんて呟きが聞こえたが、神代先輩だって僕より一つ年上なだけで、充分最近の若者だろうに。つい「その台詞(せりふ)、何だか年寄り臭いですよ」と漏らしたら無言で睨まれた。
僕は神代先輩の視線に目を合わせないよう、携帯を見下ろした。
「それで、お寺が何か関係あるんですか?」
話を進めようと問うと神代先輩も携帯を見る。
「死人(しびと)と寺の関係と言えば、墓しかない。丁度目の前を大通りが横切っている。君が車に乗って通った際に霊が憑いたのだろうさ。さあ、行くぞ」
神代先輩がメモ帳に何かを書き込むとペンをバッグに戻して立ち上がる。
……行くぞってどこに?
目を瞬かせた僕の額がメモ帳で軽く叩かれた。
痛みはないが、叩かれた場所を反射的に手で押さえる。
「ぼうっとするな。この寺に行って、霊に自分の墓まで案内してもらうんだ」
「あ、なるほど」
墓を頼りに調べれば霊自身のことや、上手くすれば家族の住所も分かるかもしれない。
慌てて立ち上がって筆記用具やノートが入った鞄を肩へ掛ける。
部室の扉へ向かう先輩の、僕よりも一回り小さい背中を追いかけた。
外は何時(いつ)の間にか小雨に変わっていた。
* * * * *
糸のように細い雨の中、傘を差して神代先輩と僕は歩く。
一駅分と言ってもそれなりに距離がある。隣の駅の方が寺に近いからと電車に乗り、十分と経たずに降りた後は、駅を出て徒歩で向かうことになった。神代先輩は乗車中に寺までの地図を検索していたらしく、携帯と傘の柄の部分とをそれぞれの手に持っている。僕が使っているただのビニール傘と違い、神代先輩の紅色の傘は骨が多くて、色合いと形は和傘に近い気がした。
「ここだ」
駅から歩いて五分ほどの場所に目的の寺はひっそりと佇んでいた。
木造の門はそこそこ大きく、両開きの扉も来客のために開かれている。外と隔てるために建てられた塀は白く、上に瓦が乗っていて、門から奥の寺院に続く道は石畳が敷いてあった。周囲の民家は少ない。
神代先輩が一度振り返り、僕の後ろへ視線を寄越す。
その視線が顔ごとゆっくり動いて寺の中へ向けられる。
あの男性の霊を‘視て’いるのは明らかだった。
来る時よりもずっと遅い足取りで神代先輩は寺の門へ入って行く。
寺の敷地内に足を踏み入れると酷く静かだった。道路を通る自動車のエンジン音や水溜りを跳ねる音、通り過ぎる人の足音といった雑音は塀と雨音に遮断されて、あまりに静かなものだから寺の内と外では時間の流れが違っているんじゃないかと感じてしまうほどだ。
門を入り、石畳の途中で神代先輩が脇へ逸れ、別の細い石畳の道を行く。
全体が石で造られた新しい墓もあれば、土の上に幾つかの石を積み上げただけの古い墓もあり、けれどもどの墓も雑草がなく、きちんと管理されているのが一目で分かった。石畳と墓の間は白い砂利が敷かれている。
墓と墓との間を抜けて、神代先輩はその砂利の上へ出た。雨音に砂利を踏む音が混じる。
躊躇(ためら)いなく寺の奥へ進む背中を僕は黙って追いかけた。
恐らく寺院の裏側に近いだろう場所まで来て、やっと神代先輩が立ち止まる。
そこには沢山の小さな墓石が山と積み上げられていた。積み上げるという表現だと語弊(ごへい)があるかもしれないけれど、十や二十なんて可愛らしい数ではない墓石が所狭しと身を寄せ合って一つの山と化していた。墓石は古く、表面も薄っすら苔生(こけむ)して、墓石だけでなく地蔵も混じっている。
地元の寺でも小さいが同じものがあるのを思い出す。
「無縁仏……?」
幼い頃、何故墓石を沢山置いているのか気になって父に聞いたことがあった。
父は「あそこは供養してくれる人がいなくなってしまったお墓を纏めてあるんだよ」とだけ言って、僕も深く追及しなかったが、後になってその墓石の山が無縁仏だと知った。
「もしや既に子供も亡くなっているのか?」
囁くような問い掛けだった。
「生きているのか。奥さんは? ……そうか」
神代先輩の声音からして奥さんは亡くなっているのだろうと察せられた。
「貴方の家の墓石は――……ない? この辺りに昔から住んでいた訳ではないのか?」
ほんの僅かに驚愕を滲ませつつ神代先輩が腕を組むのが背中越しに見える。
その様子を見れば、目の前の墓石の山の中に、霊の墓がないことは分かった。
墓石がないとなると、当てが外れたことになる。
「名前が分からないのに遺族を探すなんて無理ですよ」
人生ゲームの先に進めるマスで行ってみたら、次のマスで振り出しに戻された気分だった。
落胆する僕とは裏腹に、振り向いた神代先輩の顔は別段これといった感情は浮かべていない。
そのまま横を通り過ぎて来た道を引き返し始めたので、僕もそれに従い、また砂利道を歩く。途中から細い石畳の道になり、門の前の広い石畳まで戻ると、今度は寺院の方へ向かう。寺院の脇に家がある。多分この寺を代々継いでいる住職の家なのだろう。来客用の玄関は広い。
その玄関の前まで来て、神代先輩が僕を見た。
「これから、私が何を言っても口を挟むなよ。余計なことは言うな」
それだけ言うと神代先輩は玄関の引き戸を横に滑らせて開ける。
中へ入ればチャイムに似た呼び出し音が遠くで鳴った。
すぐに、人の声と足音が近付いて来る。
「はい、お待たせしました。何か御用でしょうか?」
出て来たのは六、七十歳くらいの背筋がしゃんと伸びた和尚(おしょう)だった。
その和尚に神代先輩が会釈をする。僕も慌てて頭を下げた。
「お忙しい中、すみません。八木と申します。こちらの無縁仏に埋葬された方について少々お聞きしたいことがあるのですが、お時間宜しいでしょうか?」
柔らかで丁寧な口調に僕は内心驚いた。申し訳なさそうな表情も初めて見る。
こんな声も話し方も出来るのに、どうして普段はあんな男性みたいな言葉遣いなのだろうか。
あと、何で僕の苗字を名乗ったのかも疑問が沸いた。
八木陽介(やぎ ようすけ)。これが僕の名前だ。
和尚は神代先輩と僕を見て小首を傾げたものの、静かに頷く。
「ええ、大丈夫ですよ。良ければ上がっていってください。こんな雨の中を来てくださった方を、玄関先に立たせておくなんて落ち着かないのでね。さあ、こちらへ」
朗らな笑みを浮かべる和尚に勧められて家へ上がらせてもらう。
通されたのは六畳ほどの座敷で、四角い座卓と座布団が四枚敷いてある。何時人が来ても良いように綺麗に掃除がされていて、座卓の上にはお菓子が置いてあった。
神代先輩と僕とで並んで座布団に座り、和尚は「お茶をお持ちしますね」と言って去って行った。
座敷は寺だからかもしれないが線香の独特の香りがどこからともなく漂ってくる。
ややあって和尚が御盆を手に戻って来た。
「粗茶ですが、どうぞ」
「お気遣いありがとうございます」
「あ、ありがとうございます」
目の前に置かれた湯呑みに礼を述べてから一口飲む。
雨の中で知らず知らずのうちに体が冷えていたのか、温かい緑茶が身に沁みる。
更に二口、三口と飲む僕の横で、神代先輩が湯呑みを座卓へ置く。
和尚が神代先輩の向かい側の座布団に腰を下した。
「さて、確か無縁仏さんのことでしたね」
湯呑みを手に、和尚が穏やかに問う。
神代先輩は一度目を伏せ、それから顔を上げると和尚を見た。
「はい、実は先日父が亡くなりました。その遺品を整理していたところ、出されないままの手紙を見つけまして、私達が生まれる前に親しくしていた方へ宛てたもののようなのですが、出すつもりがなかったのか住所も名前も書かれておりませんでした」
少し物悲しげにまた俯いた神代先輩が話を続ける。
「日記と照らし合わせてみると、どうもその方は若いうちに亡くなられてしまったらしく、それで手紙を出せず仕舞いだったようなんです。父の知り合いの方々に聞いて回って、こちらのお寺に無縁仏として埋葬されたかもしれないと聞いてやって参りました。故人のことが書かれていましたので、出来ればご遺族の方へお渡ししたいと思っているのですが……」
僕は横で話を聞きながら、よくこれだけ嘘八百を並べられるものだと感心した。
父は死んでないし、男性の霊と知り合いなのは僕達だし、聞き回ってもいないし、渡したい手紙も父が残した日記もあるはずがない。そもそも僕の父は日記を書くほどマメな性質(たち)でもない。
「そうでしたか、お父様のことはお悔やみ申し上げます。私などでお力になれるか分かりませんが、その方のお名前か、何かそれと特定出来ることはご存知でしょうか?」
「申し訳ありません。名前は分かりませんけれど男性です。日記には三十年ほど前に交通事故で亡くなり、引き取り手がなく、こちらのお寺で供養していただいたそうです。その方の奥様も既にお亡くなりになっていらっしゃるとか。そういえば、お子さんがいるとも書いてありました」
神代先輩の口からスルスルと言葉が出て行く。
霊に聞いた質問を上手く使ったものだった。
和尚は神代先輩の話を聞いた後、暫(しば)し思案顔をした。
それから、不意に声を上げた。
「ああ、もしかしたらあの方かもしれませんね。少々お待ちください」
立ち上がって座敷を出て行く和尚を見送る。
襖が閉められ、足音が遠ざかってから、僕は声を潜めて聞いた。
「何で僕の苗字を言ったんですか」
神代先輩は湯呑みを持って言った。
「私の苗字は色々問題があるからな」
「問題?」
「地元ではそれなりに名が知れているということだ」
話は終わりだと言わんばかりに神代先輩は緑茶を啜る。
要領を得ない答えで僕の疑問は増す一方である。
でも追求しても素気無く断られそうなので、それ以上は聞けなかった。
僕は仕方なく、疑問をお茶と一緒に飲み下して今は忘れることにした。