ふわり、きらり
夏も終わりに近づいたある日の午後3時。
ボーダー隊員である荒船哲次は貴重な休日である今日、地元で夕焼けが綺麗に見えると有名な公園に足を運んでいた。見どころが夕日であることと、平日だということもあり公園内の人影はまばらだ。涼しくなってきた風を楽しむように散歩する老人、ベンチで読書を嗜む青年。
普段ボーダー隊員として殺伐とした生活を送っている荒船は周囲に広がるのんびりとした景色に肩の力が抜けていくのを感じる。
「(たまにはこういうのもいいな…)」
心地のいい風を浴びながら深く息を吸うと、まだほのかに夏のにおいがする空気が肺を満たしていく。ついこの前おこったばかりの大規模侵攻の爪跡を感じさせないのどかさが少し違和感に感じる程戦いに慣れてしまった自分自身に嘲笑が漏れた。
つい数年前まではただの学生だったはずなのにここまで変わるものなのかと思う。
繰り返すトリオン兵との戦いで死にかけたことも、目の前で人が死んだこともある。そんな日常を過ごすなかで、自分という人間が変わっていくのが怖いとボーダーを去った人間もいた。
日常というにはあまりにも変わりすぎた世界。非日常と化したこの町での生活は、少しずつ荒船の心を蝕んでいく。表向きには平気そうな顔をしている同業者たちも大なり小なり内側に影を作っていることだろう。誰も口にはしないが、誰もが抱えていることに気づいている。平和の中にいた人間が直面した未知の侵略者。奪われたものはあまりに多く、その傷は未だ傷跡になることなく人の心の中に存在している。
「(…考え始めると時間を忘れるのは、俺の悪い癖だな)」
のどかな空気は心身を癒すには丁度いいが、その分余計なことを考えてしまう。
ふと此処のことを教えてくれた人間の顔が頭に浮かんだ。名無之権兵衛。いつもふんわりとした笑顔を浮かべて柔らかい口調で話す彼女にも、押し込めた傷があるんだろう。まわりの人間が思わず肩の力を抜いてしまうような雰囲気を持つその裏で自分のようにどろりとした影に徐々に染まっていっているのか。
際限なく広がる思考に歯止めを打つように帽子を脱いで短い髪を掻きまわす。考え込むのに夢中で気づかなかったが、そろそろ夕暮れの時間だ。周りにいた人影ももういない。
公園内に影が広がり始める。
「(確かに、綺麗だ。)」
オレンジ色というよりも緋色に近いような夕日が、誰もいない公園を照らしていく光景は伝え聞いた通りに美しかったが、さっきまで考えていたことのせいもあり、心の中にまたどろりとしたものが広がり始める。今日はよくネガティブになる日だ。ぼうっと夕日を眺めながらもやつく胸元の辺りの服をぎゅっと握った。
「てっちゃん。」
じゃり、と砂をふむ軽い足音と、ふいに背後から聞きなれた声が、自分を呼ぶ。高すぎないその声が耳に届いたその瞬間に、胸の内に広がった影はさらさらとその粘着差を失い溶けていく。ゆっくりと振り返ればそこにいるのはやはり見慣れた人物で、任務の帰りなのか隊服のままだった。
「権兵衛」
「んー?」
名前を呼べばいつも通りのやわらかい笑顔を浮かべて自分の隣に立つ姿があまりにもいつも通りで、深く考え込んでいたことが無駄だったかのように思えて、それと同時にその笑顔が内面の影を隠す仮面のように思えて、無意識のうちに荒船は権兵衛を抱きしめていた。ぎゅっと力を込めてその自分よりも小さな体を包み込むと、とんとんと背中をやさしく叩かれる。
「どうしたの?」
「なんでもねえよ」
「ふふ、そっかぁ…」
それだけ、短く会話をした後、その小さな体をしばらく抱きしめていた。
少しずついつも通りの自分に戻っていく感覚。ゆっくり二人の体が離れたとき、荒船はすっかりいつも通り。優しく笑みを浮かべたままの権兵衛の頭を軽くなでると、その手を慣れた仕草で掬い上げ指を絡める。
「てっちゃん、今日はなんかひっつき虫みたいだね」
「誰が虫だ。」
「てっちゃん。」
「お前…」
夕日のいなくなった公園に、寄り添いながら帰っていく一つの影。暗くなる日があったとしても、沈み込んでしまう前に自分を掬い上げるものがあるから、非日常を生きていけるのだろう。
ふわり、きらり
(僕を照らすきみがいるから)