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::フルラージュの丘にて(ホフマン)

13日、ネージュさん

5月はよい季節です。ホフマンを5月生まれにしたのは、深い理由はなく、好きな季節だからです。

野菜がよいです。
先月のお花見の持ちよりの時にも少し述べましたけれど、キャベツ、玉ねぎ、じゃがいもなど、常備野菜の美味しい時期というだけで、作るのも食べるのも楽しみです。
今年は特に、3月ごろまで野菜が狂ったように高くて、ちょっと手控えたり、切ない思いをしたでしょう。
今は往時のなん分の1だったりで、思うさま野菜をムサボれる自由の尊さ。

しかしこれでは農家さんは作っても作っても薄利では?
誰かのよい時は、誰にとってもそうではなく。それはどうすることもできなくとも、だから、自分のあまりよくない時くらいは、自分の裁量で扱えるので「ついてなかった!」くらいで、あっさりしたいもの。
運がいいとか悪いとか、人は時々くちにするけど、この用法が生産的な気がします。

そういうわけで、せっかくの5月ながら、今週も出られませんでしたし、この記事もやや遅れてしまい。いつになれば色々片付くやらですが。ついてないのさ!次から次と!(笑)


そういう時もあります。でも野菜も、花もよい時です。
薔薇、シャクヤク、ジャーマンアイリス。
スイレンはこちらではゴールデンウィーク辺りからはや咲いていました。センダン、ヤマボウシ、シャーレーポピー。先週にはタイサンボクやアジサイも咲き始めて。

そうした園芸種の花々は、花屋さんや植物園の名札でその名前を知りますが、やはり今時期どんどん咲き出す野草が割と身元わからないものが多いです。
通りすがりに何かの花を見て、帰った後で図鑑で引いて、そのなかに似た感じのものはあっても本当にこれだったか、と判然しなかったり。

で、だいたいそのくらいで放置となり、判らないままモヤモヤさせて置くことに。
たぶん写真あげてネットで質問したりすれば一撃なのでしょうけど、別にモヤモヤも悪くないもの。白黒つけず。
なので例年いつまでも、季節が巡るたび、今年も咲いているのう、と思いながら、ほんで誰なんと思いながら、通りすぎます。


実際に古い図鑑に当今の草が載ってないこともあるのでしょう。新顔の外来種が欠けてたり。
雑草にもトレンドというものがあり、何十年か前の本がズレてしまっていることもあるかと。また一年ごとの変化があるもの。


以前私が言っていた近所のナヨクサフジ(ヘアリーベッチ)、川原の土手の草はらを覆ってしまった例のマメ科の紫の花は今年も元気ですが、ややスイバ(すかんぼ)にシェアを奪われているみたいに見える箇所が、今年は出てきてます。

ネージュPLさまの以前おっしゃってらしたナガミヒナゲシ(赤だいだいの野良ポピー)も、うちの近所では今年はやや減った印象かも。
昨年辺りがピークだった気がします。自分のアレロパシーに首を絞められているのかも?


アレロパシー、他感作用は、植物がほかの植物に影響すること。
トマトとマリーゴールド一緒に植えるといいとか、田んぼにヒガンバナ植えると虫害にいいとか、そういうのもそうですが、根っこや葉っぱから化学物質を分泌して、ほかの植物を生えさせないように妨害することもあります。
よくいわれるのがセイタカアワダチソウなどで、在来種を駆逐して危険とされたり。
しかし他の植物の発芽や生育を阻害する物質出して、やり過ぎると自分も影響食らう。なので長くは繁栄しない。
セイタカアワダチソウの茂みだった場所も、いつのまにやら縮小してたりする、あれも自家中毒のようなことだそう。


一ヶ所で繁栄が続かない。このアレロパシーと連作障害とは、見た目には似てます。というかいわゆる連作障害の、原因の一つがアレロパシーだったりするということ。
でも特にそんな化学物質出すのでなくても、普通に生えてるだけで養分や水や光の競合がありますから。彼らも日々しのぎをけずっております。


人の盛衰も、いわば連作障害のようなこととも言えるのでしょうか。
戦争や疫病も、人口抑制の側面があるという意見も。ただ、戦争を肯定したい論者の思惑が係わってたり、間引きの「為に」それらがあるといった合目的論的だと、科学的とは言えませんが。
それら詭弁や誤謬は置いても、実際に増えた人口を養うには、新たな領土の開拓か奪取かによくなるので、人口圧から誘因されるものはあるのでしょう。


アインシュタインとフロイトの間に交わされた書簡があり、これは二次大戦後にECの肝煎りでなされた企画だったそうですが、その内容が書籍化され、講談社学術文庫に数年前に入ってます。
題して「人はなぜ戦争をするのか」。
だったかな?借りパクされて手元にないのでうろ覚えですが。

フロイトの意見では、戦争に至らずに人口圧を下げる方法として、文化の振興をもってすべしとの由。
文化の爛熟を迎えたところでは出生率が下がる。これがなぜなのかは、また諸説あるところなのですが、実際の傾向として。

文化的選択肢が増え、仕事や趣味に生きて結婚しなくても幸福でいられる人が増えるなら、人口は減るでしょう。
またホモセクシャルは、人口が一定レベルに達すると増えるとか、人口抑制の神の見えざる手を敏感に感じとった者達がなるとか、そういう雑な説もあるそうですが、衆道が一種のたしなみだったように、むしろ多様化した文化から興ることもあるのかもしれません。


ちょうど反対の意見からは、それらこそ人類を滅ぼす退廃文化ということになりますが。

でもどうなのだろう。口を養う食糧が足りなくなれば争いが起きるけれど、その逆でもあるようにも。
つまり人が余り、余力が出ると、暴力が発生する。あるいは物が余り、安穏となると、余剰エネルギーの解消として。

文明の発生は、余剰生産によります。
一人が生きていくのに、ぴったり一人分の直接生産労働が必要である時には、職業が専門的に分化せず、文明は生じない。
一人が二人分の生産をする時に、余った一人分が、直接生産に関わらない仕事に振り分けできるようになる。絵を描いたり、歌を詠んだり、宗教思想家になったり、職人になったり、戦士になったり。

食べるものがなければ、芸術したり争ったりしてる場合でない。
なら一体、それらは欠乏から来るのか、余剰から来るのか。両方か。または同じ一つの現象か。つまり誰かの欠乏が、誰かの余剰の正体だったり。


そして余剰生産と備蓄を可能とした定住農耕化は、火によるもの。生のデンプンを消化吸収出来ない人間が、調理を覚えたことによるとも。プロメテウスの火。
ところでこの人間と栽培植物の共生による変化も、他感作用とも言えるのでしょうか?


野生を離れ改良された栽培植物や家畜動物は、人間の絶え間ない世話がなくては生きられません。
しかし人間もまた、もはや栽培植物がなければ暮らしが立ち行かず、その行動を大きく縛られています。

この場合どちらが主で従なのでしょう?
ドーキンス風に言えば、人間は麦の乗り物である。米の奴隷でも肉のサーバントでもいいけど。
もっと言えば、どこからどこまでが人間で、どこからどこまでが麦なのでしょう?ガイア理論のように環境が生命であるなら。


また例えば人間個人ということだって。どこまでが自分と言えるのでしょう?

腸内には約3万種類の細菌が暮らしていて、数では100兆-1000兆個体、1.5kg-2kgの重量になるといいます。
だから「ザ・フライ」とか、転送装置内にハエいなくても、別のDNAを持った生命はお腹の中にも、空気の中にもたくさんいるので、もっと妙なキメラ人間になるはずですな。

この細菌がいなくては我々は生きられませんし、もしかしたら、我々が「腹へったー」と思考したとする、それは私たちが自分で考えたのでなく、腸内細菌たちの総意がなんらかの信号として伝わって、そう思わされたのかも知れない。


でもそれならそれで、どこまでが自分かとか、こだわらなくても。
誰もが誰かの一部であったり、共生は当然のこと。分けようというのが傲慢なのかも。

共生といって思い浮かべる、クマノミとイソギンチャク。ハチドリとラン。ミギーとシンイチ。そういうものに限らず誰しも。


けど人間と麦は、本当には絶対に離れられないわけではないです。
放置された麦は、今よりずっと数を減らすでしょうが、いくらかは野生に戻り、やっていくでしょう。
人間も、パンをたべられなくなれば、虫をたべればいいじゃない。(今研究進んでます)


ホフマンも、ネージュさんと離れられないのでなく。意志的選択として、一緒にいたいのであり。

そして人はパンのみにて生くるにあらず。
「パンと薔薇」という歌があります。パンとサーカスではなく。人は薔薇のためにも生きるのですから。




さて、この日もいろいろ考えてくだすって、ありがとうございました!
事前からも、プレゼントのことなどでシアルフィーアさんともども、ご相談までしていただいていたようで。m(_ _)m
当日もダイスを入れてくれたり。ボートにいそいそと乗り込む様子がかわいかったです♪

加齢をどうするか、当日まで決めてなかったのですが、ホフマンがネージュさんに最初に会った時が確か26歳で、8こ違いだったので、このままでいいのかな?
時計をいただいた時から時間が動き始めて、来年に一つ歳をとることにしましょうか。

それまでに、もっとたくさんの時を共に重ねられたらいいですね。
もっと出られるよう頑張ります(笑)
 

2018.05.28 (Mon) 01:36
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