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「ナマエさんの家に行きたいです」

東都大学の敷地を出た途端、待ち構えていた安室に捕まったナマエは、強制的に車の助手席に座らされ送迎されることになった。相変わらず口が回る安室の話を適当に聞いていると不意に視線を感じて、窓の外を眺めていた目線を車内へ戻す。止まれと号令する赤信号。白黒の横断歩道を闊歩する人々。ハンドルを握ったままの安室が、ナマエの顔を窺いながら冒頭の台詞を繰り返した。ナマエさんの家に行きたいです。
いいですよ、と二つ返事で了承すると、安室は呆気に取られたように「え」と素の声を出す。ナマエと安室が見つめ合うこと数秒。パッと青色に変わった信号に気付いていないらしい安室にナマエが青信号を指摘すると同時に、後列の車にクラクションを鳴らされた。「鳴らされちゃいました」と言いながら、恥ずかしそうにアクセルを踏み込む安室に、ナマエは思わず笑った。

「安室さんが聞いたくせに」
「いや、その……。まさかオーケーされるとは思わなくて」
「見られて困るものはありませんから」
「へえ。それはそれは」

楽しみです。当然のようにナマエの自宅方面へハンドルを切る安室に、ナマエは咄嗟に浮かんだ疑問を口にせず呑み込んだ。教えた覚えのない自宅の場所を把握している事実は兎も角、知らない素振りすらしないのは最早、隠す気がないと宣言されている気がする。件の夜から少しずつ、確実に、ナマエの領域に踏み入られている。
段々と仮面が剥がれ、公になる人格の本質に、遠慮のなさに、ナマエは複雑な気持ちになった。





ナマエの自宅は駅から徒歩圏内の小ぢんまりとしたアパートだった。全国展開のアパート管理会社が所有する、標準タイプの1LDK。二階の一番奥の角部屋。一人暮らしの女子大生の部屋と言えば、甘美な響きに聞こえるかもしれないが、実際はJDの皮を被ったFBI捜査官なのだから色気もへったくれもない。
数時間ぶりに帰宅した我が家の鍵を開け、招かれざる客を迎え入れたナマエは、殺風景な居間の中央に置かれたダイニングテーブルとチェアのセットへ安室を案内した。

「飲み物は?」
「お構いなく」
「じゃあ麦茶にします」

昨晩、拵えた煮出し麦茶をコップへ注ぎ、氷を三つ浮かべる。飲まないかもしれない、と思いながら、部屋に迎え入れた以上お客様に飲み物を出すくらいは礼儀だろうとナマエが安室の前へコップを差し出すと、「いただきます」と間髪を容れずに嚥下するものだから驚いた。身分を偽称する異国の女が提供する飲食物など口に入れないと思っていた。勿論、ナマエにその気は更々ないが、薬物が盛られている可能性は十分にあるのだ。ターゲットながら心配になる。
上下に動く喉仏をジッと見つめ、空になったコップを思わず追い掛ける。残されたのは角が丸くなった氷だけ。ナマエは麦茶に浮かぶ氷をからからと鳴らしながら、ばつが悪そうに手元のコップを弄んだ。

「そんなに意外でした?」
「ちょっとだけ」
「ナマエさんだって、僕が入れたコーヒーを飲んだじゃないですか」

勢い良く顔を上げる。あのときは安室さんのことをちょっと変わった喫茶店員だと思っていたから、と言おうと口を開き我に返った。ナマエを真っ直ぐに見つめる安室の瞳が観察するように細められ、閉じられ、次に瞼を開いたときには得意の営業スマイルでにっこりと微笑まれた。かあっと顔に熱が集中する。やられた。
安室は自らを無防備に見せることで、ナマエの反応を窺っていたのだ。

「ああ、やっぱり。あのときの僕は喫茶店で働いている安室透だったんですね」
「〜〜っ、……ずるい」
「やられているばっかりじゃ、性に合いませんので」

してやったり、といった様子の安室に、ナマエは安室透が想像以上に自分本位で、プライドが高くて、負けず嫌いだということを薄々と理解し始めていた。
ナマエが迂闊な言動をする度に、報告が億劫になる事柄が段々と増えていく。件の夜のネタばらしはナマエに考えがあるのなら、と小言は耳に胼胝が出来るくらい言われたが、お咎めはなかった。とは言え、死んだ筈の男の痕跡を嗅ぎ回る黒ずくめの組織の人間を長々と放置する訳にはいかず、推測を裏付ける決定的な証拠を手に入れる必要がある。それなのに。ここ数日のナマエはどうにもこうにも捜査に身が入らない思いだった。
演技だと、偽物だと分かっているのに、安室透がミョウジナマエに向ける感情は――。
瞬間、ナマエの髪に指が触れる。手元のコップのふちを無意味に眺めていたナマエが目線を上げると、思いのほか至近距離に安室の顔があった。元々小さいテーブルだったものだから、安室が身を乗り出すと簡単に二人の距離は縮まる。ゴトンと音を立て、空になったコップがテーブルの上を転がった。

「ナマエさん。あなた喫煙者でしたか?」
「え……?」

髪を払った先の首元に鼻を寄せ、においを嗅ぐ。確かめるように鼻を鳴らされる。
喫煙者。煙草。タバコ。ナマエがそのキーワードから連想するのは、いつも襟元の詰まった服を着用する男だった。「あ」と開きそうになった口を引き結び、乱れた髪を整えるように耳へ掛ける。

「えっと……研究室に喫煙者が居るから移ったのかも、です」
「沖矢先輩ですか」
「……違いますよ」

彼は工学部です、と言うと、そうなんですか、とにっこり笑い返された。此処へ来てからの安室の笑顔は常の三割増し胡散臭いと感じていたのだが、いまの彼は清々しいほどワザとらしい。
今日の午前中、東都大学構内。すれ違い様にひとことふたこと言葉を交わした「沖矢先輩」の置き土産に心の中で悪態を吐きながら、ナマエは薄っぺらい笑みを浮かべる他なかった。

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