【第9話:吐き気がするほど幸福な】

拝啓、名も知らぬ保護者だった人へ。

造り出されてから数年余り。ようやく人間らしさを手に入れました。恐らくは、貴方が私に与えたくて叶わなかったモノを。飼い主(またもや、間違った)もとい、雇い主の三蔵が代わりにくれたんだと思います。

だから、当分の間はそちらに行けそうにありません。きっと行ったとしても、帰れと言って怒るんでしょうけれど。



ご丁寧に取り分けられた、皿の上の料理が憎い。遅々として進まない箸先をふらふら揺らしながら、仏頂面のまま正面で食事を口に運んでいる三蔵にそっと視線を投げる。

運ばれてきた皿の上の料理すべてを、胃に納めろと言われなかっただけ有難いと思うべきだ。何が入っているか分かりやしないからと食べること自体を忌避するクセは、いつの間にか身体に染み付いた本能的なものになっていた。

流れで揃って手に取ったはずの箸は手放す機会を失ったまま、刻々と食事の時間が過ぎていく。行儀が悪いのを承知で腕を枕に脇に置かれた地図を目で追っていれば、手元から紙が消える。バサッと音をたてて片手で畳まれた地図は、白い法衣の懐へと突っ込まれた。

「あ」

オモチャを取り上げられた子供のような不機嫌顔をすれば、箸の先が眼前に突きつけられて、反射的に上半身を引く。あまりの勢いに、箸で刺されるかと思った。

「少しくらい驚いた顔したらどうだ」
「凄まじくびっくりしてるよ、不意打ちすぎて」

今のは完全に動揺が顔に出ていると思ったが、傍から見ればそうでも無いらしい。おかしいな?と呟いた声に、どこがだよと返しつつ喉奥で笑った三蔵は、目の前に置かれたもののオブジェになりつつあった皿をこちら側へと押す。

「さっさと食え。食べ始めるのに、どれだけ時間かける気だ」

小籠包二つ、スープ。
炒飯、八宝菜。いずれも少量。

「ええ……三蔵が食べて」
「テメェのせいで殆ど二人分食ってんだよ。口の中に押しこむぞ」
「それは勘弁して」

昼過ぎまで寝こけている私からすれば、朝食も昼食も食べるのが稀である。まともに食べるのは夕食くらいで、それすら余り物を摘むだけだ。下手をすれば、飲み物で誤魔化そうとするせいで、しばしばキレた三蔵が強硬手段に出る。

軽く肩を竦めて、仕方なく箸を動かす。ここで人目が無ければ、事前通告無しで箸が口へと突っ込まれていただろう。

「なんでこんな朝っぱらから動いてるのよ……」
「旅するのに夜中に歩き回る奴がいるか」
「何言ってるの?移動は夜でしょ」
「普通は昼間だ、馬鹿野郎。お前と一緒にするな」

寝不足だから勘弁して。そんな常套句は、今日に限って意味をなさない。睡眠時間だけは、たっぷりと取った。否、取らされた。にも関わらず、欠伸が止まらない。ただ低血圧が猛威を振るっているだけだ。

「午前中は私の活動時間外って、頭に叩き込んでおいてくれない?」
「却下だ」
「じゃあ、つけ加えといて。今すぐ」
「気が向いたらな」

昨夜。早めの夕食を食べて、風呂へと叩き込まれ。夜七時を知らせる鐘が鳴ると同時に『今日は寝る時間だ』と布団へと放り込まれた。

ろくに前々日から睡眠と休憩を取っていなかったせいで、八時の鐘の音を聞いた記憶がない。直前に飲んだお茶に強力な睡眠薬でも仕込まれていた可能性すらあるが、そうだとすれば飲んだ時点で気付く。

二日間ぶっ通しで、寝る間を惜しんで終わらせた三蔵の仕事の手伝いの最中、一切の休憩は認められなかった。鬼だ非道だと連呼したものの、全て今日に至るまでの布石であったと気付いたのは、ついさっきだ。

きっちりと睡眠時間が取らされて、叩き起された頃には旅支度は終わっていた。舌を巻くほどの用意周到具合だ。しかも事前に何の話も聞いていなかったせいで寺を出て町の外に出るまで、旅路に着いているなんて知りもしなかった。

「起きる時間は兎も角、飯くらい食う習慣を付けろ」
「安心して。二三日食べなくてもぶっ倒れたりしないように出来てるから」
「身体の造りとか、そういう問題じゃねえよ。それを理由にすんなって、再三言ってんだろ」

目の前の男は、当たり前の生活をすることを求めてくる。食事を食べて、寝て。それから、逃げ回らなくていい生活。当たり前になった生活を受け入れようとする気の無い私に、懲りずにこうして接するのだ。そんな彼の行動に、まあそれも良いかもしれないと思っている自分がいる。

「これは、予想外だな」
「あ?」
「ん、こっちの話」

あまりにもマヌケで、平和ボケをしている。呆れるほどに。椅子に置いた刀を横目に、軽く頭を横に振る。いつか刀の振るい方も忘れるんじゃないか。その考えが浮かんだ数秒後には、まったく正反対の答えが脳内を支配していた。それだけは、無い。絶対に。造られた意味であって、生きる理由だ。

「で。なんでこんな当てずっぽうの旅をしようと思ったわけ?方向音痴な三蔵さん」

地図を持っていても、しばらく歩けばどこを歩いているか分からなくなって、適当に歩きだそうとする。目的地は決まっていないからそれは良いとして、寺方面に戻られても困るから自然な流れで地図を三蔵から奪い取って、そのまま案内役を買って出た。

皿の上から小籠包を一つさらっていった、三蔵が向けてくる視線に含みを感じて首を傾げる。まさか忘れたのかとでも言いたげな視線だが、理由を話された覚えはないし、そうだとしたら覚えているはずだ。

「提案者はお前だろ」
「私?なにが?」
「お前が『ついていってもいい』と言ったんだろ」

思い出した。そういえば、そんな会話をした覚えがある。だからと言って、律儀に連れていく奴が居るのか。

「あっれは…………一人で行きなよ。私、関係無いし」
「監視対象だからな、一応は。連れて行くしか選択肢は残ってねえ。潔く諦めろ」

そうだ。確かに、言った。失敗だったという顔になるが、時既に遅しである。監視任務を与えられた本人ですら、目的地は分かっていない。しかも監視下にあるせいで、都合よく連れ回される理由にもなっている。いっそ命令を下した三仏神を本気で呪うしかないが、果たして神を呪って良いものか。

「…………あっそ」

散々迷った挙句、諦めて箸で摘んだ料理を口に運ぶ。出された食事に警戒ひとつせず、しかも出先でこうして誰かと向き合って食事をするのは、初めてだった。



「とりあえず。五行山方面に進む、でいいんじゃないかな」

昼時を過ぎた頃に入ったせいで、閑散とした食堂には店主の皿を洗う音が響く。長居する代わりにと追加注文をした杏仁豆腐を匙ですくいながら、テーブルの真ん中に広げた地図に指を這わせる。大方、南下というルートだ。

「なんで最終目的地が山なんだよ」
「え?鉛筆倒したら、この方向ばっかに倒れるから。前から気になってたんだよね、五行山に幽閉されてる化け物の噂。実は魔物が三蔵のこと呪ってやるーって、念飛ばしてたりして」

それは、それは面白いくらい同じ方向に倒れる。力を無意識のうちにかけているとか、何かしら癖でもあるのかと疑ったレベルだ。試しに箸で三蔵にやらせても同じ結果だから、神さまの言うとおりと断言して良い。

「お前、迷信じみたことに興味あったんだな……」

怖い化け物が居るから近寄るなと言われている場所に、積極的に足を運ぼうとする方が珍しい。目的地も決まっていない今、とりあえず少しでも可能性のありそうな場所を目指すしかない。

三蔵の頭の中なんて覗けないし、呼ばれているというだけで相手を探せというのも無理な話だ。持ち込まれる依頼を全て解決してしまう情報屋であろうと、超能力者ではない。医者に診てもらったとしても、貴方は疲れているの一言しか返ってこないだろう。

「迷信って言うか、可能性の話かな。近寄るなって言われた場所に、実はお宝が隠されてましたって話もゼロじゃないでしょ。探ってみる価値あると思うよ。……ああ、但し。半分以上の確率で賭けに失敗する博打だから、どうなっても知らないよ。自己責任だから」

渋面になる三蔵を前に、匙ですくった杏仁豆腐を口の中に放り込む。余談になるが、こういった系統ならば必ず食べると理解した三蔵のせいで、寺の冷蔵庫にはマンゴープリンやら抹茶プリンやら果物が常備されるようになった。

「……ま、北上はしたくないっていうのが本音。そっちに行くのは、できるだけ避けたい。ごめんね」
「北から来たのか」
「研究所は北にあったから、そうだと思う。人の多いところなら紛れるって言うし、長安目指してたんだけど。三蔵に会った日、町の中心部まで来てたのは偶然」

また捕まるのは、本当に御免だ。ズキリと痛みの走った気がした手首に、指先が跳ねる。匙と器を手放して、服で隠された消えない傷痕を手のひらで覆う。

「紫雨」
「あ、北の方がよかった?慶雲院に逗留するまで、三蔵も旅してたんだよね?もしかして南の方は……」
「話を聞け」

矢継ぎ早に言葉を重ねていけば、いささか強い口調で三蔵が遮った。トンっと人差し指で押された額に、反動で軽く顔が上向く。

「そういう重要な話は先にしろ。たまたま南に向かっていたから良かったものの、北に向かっていたら大事だぞ」
「え」
「ただでさえ居場所も分からん喧しい声の主を撃ち殺しに行く面倒な旅に、更に面倒な奴等まで追ってきたら捌き切れんだろうが」

あの時、問答無用で追っ手を撃ち殺した三蔵にとって、事はそこで一応終わっていたのだろう。追われていることを失念していた。まるで自分が失態を犯したかのような顔をする三蔵は、金髪を軽く引っ掻き回す。

「あ、ごめ……」
「だいたい外出歩いて大丈夫なのか」

しかも、遮られた。みなまで言う前に謝罪の言葉をぶった切った本人は、肘を着いたまま紫暗の瞳で見つめてくる。真剣な瞳の奥に見え隠れする身を按じる感情は、堪らなくむず痒くて小さな笑いが漏れる。

「うん。あの時、全員三蔵が始末してくれたから。私が長安に入った報せは、追わせた人間には届いてないはず。もし耳に入ってたら、こんなにのんびりできてなかったと思う。ありがとう」

何気なく混ぜた感謝の言葉には、気付いてもらえただろうか。やはり、慣れぬことはするものでない。

「そうか」

恩を売るわけでもなく、はたまたそれを担保にあれこれしろと要求するわけでもなく。短い返事をしただけで、深堀りもされない。聞かれたところで、誰にも話すつもりなど無かったから、どう答えて良いか困るのがオチだ。いいや、話された方が逆に困る。

「そろそろ行こうか。日が暮れちゃう」
「そうだな……って、なんだその大金」
「最近の売上金。三蔵に全部あげるよ」
「財布持ってないからって、俺に押し付けるのはよせ」

昼食の支払いをする三蔵の隣から首を出して、無防備にもポケットに突っ込んでいただけの売上金を財布に突っ込む。

迷惑料も兼ねての代金だ。『俺は財布じゃねえ』『渡す金が多すぎだ』なんだと声が背中に掛かるが、知ったこっちゃない。

吐き気がするほど幸福な

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