【第8話:現実が突き刺さった私の心】

こんな天気の良い日に家に籠って遊んでいるなんて、とてつもなく勿体ない。「外へ散歩に行こう!」と高らかに言った私に、満面の笑みを浮かべた悟空は元気良く手を挙げて大きな声で返事をした。

「ええっと……ジュースとお菓子。あと要る物は、簡易救急セットとハンカチくらいで良いかなぁ」

小さかった頃。私と一緒に外遊びに行く時、金蝉は他に何を持って行ってたっけ。首を捻っても他に持っていた物を思い出せないから、多分これで必要最低限の物は揃っているはずだ。

外で食べる二人分の菓子と必要物品を詰め込んで膨らんだカバンを肩に引っ掛けると、悟空と連れ立って屋敷を飛び出す。

「……と、意気揚々と出てきたものの。緊急召集かかった時のことを考えて、あんまり遠くには行けないという」

広大な敷地を持つ、天帝城。今日が待機日ではなく完全なる休日であれば、城外まで足を伸ばすところだが、唐突な出陣応援要請が舞い込んできて、城内へと駆り出されないとは言い切れない。

外にサボりに出ていることの多い私との連絡手段は、きちんと決めてあると言っても。万が一、有事が発生して隊員が探しに走らされることになった場合、部下の手を煩わせないためにも天帝城の周りをぐるっと一周するだけに留めておく。

「俺は采霞と散歩できるだけで嬉しい!」
「私は悟空がそう言ってくれるだけで嬉しいよ」

天帝城のちょうど西南に位置する屋敷を出ると、目の前に見えている外壁を目指して進む。東側に行けば天帝城内へ繋がる通用門があるのだが、城内には用がないから敢えて西側へと進む。そのまま外壁に沿って歩いていれば、ある程度の距離はあるものの、いずれ最初の場所へと帰り着く。

途中で悟空が疲れた様子を見せた時は、北門を通って城内を経由して金蝉のところへ送り届ければ、近道ができる。まあ、日頃から体力の有り余っている悟空のことであるから、こちらに関して心配はしていない。

「なあなあ、采霞」
「なあに?」

俺の服を掴んで離れなかったお前とは大違いで、目を離すとすぐに姿を消しやがる。金蝉の愚痴を思い出して、ちゃんと指を絡めて、手と手を繋ぎ合わせておいた。

「此処って。ずっと桜咲いてんの?」

頭ひとつ分低い位置から私を見上げて、そう問いかけた悟空に、頭上の零れ桜を仰ぐ。ひらりひらりと花弁を散らす、ピンク色の綿菓子のような万年桜。

「そうだね。ずっと咲いてる」
「散っても無くならねぇの?」
「万年桜って呼ばれてるくらいだから、散って無くなることはないんじゃないかな。天界の象徴みたいな花だし」

差し出した手のひらに落ちた桜花一片を見つめながら、悟空の質問に頭を悩ます。少なくとも私が生きてきた間、此処の桜が禿げた木になったことは無い。だから、今後もそうであるだろう──としか、言いようがない。

桜の樹の下には屍体が埋まってゐる、なんて言うが。此処より遥かに時の流れの速い下界で死んだ人間をことごとく養分にして咲いていると考えれば、絶え間なく花が咲く理由にも頷けるものがある。

もっとも。下界の文学を嗜むのもいい加減にしやがれと金蝉との間で物議を醸し、私が下界に興味を持つ遠因となった天蓬にまでとばっちりの及んだこの説は、恐ろしすぎて悟空には言えたモノじゃない。

「ずっと綺麗な花見れて良いな!」
「今度桜の栞でも作って、みんなに配ろっか」
「やるやる!」
「じゃあ、次に悟空が遊びに来る時。作れるように準備しとくね」

こうして、話をしてしまったせいか。花に興味を持った悟空に質問攻めにされるのは、あまりにも当然の帰結だった。こんなことになるなら、植物図鑑でも借りて持ってくれば良かったと、私は後悔する羽目になる。

「采霞!」
「はーい?」

途中で菓子とジュースをつまむ小休止を挟んだ後、散歩を再開する。私も大概元気な方だが、それ以上に元気の有り余っている悟空に、なけなしの体力しかない保護者が振り回されて体力切れを訴えるのも仕方がない。

道端に咲いた黄色の小さな花を見つけた悟空は、ちょいちょいと服の裾を引っ張る。いつまでも手を繋いで拘束していては窮屈だろうと手を解いてみたが、今のところ急に走り出す悟空に反応して追いかけられているから、このままでも大丈夫そうだ。

「これなんだ?」
「たんぽぽ、っていう花だよ」
「タンポポ?これ食える?」
「そのまんま食べたら、結構苦いかも」

野うさぎじゃないから、野草のままむさぼり食べたりしていない。前に食べられる野草を採集して、それを料理して食べたことがあるだけだ。多分、食糧難で追い詰められない限り、二度と口にすることはないと思う。

「あ、そうだ。これあげる」
「え、良いの!?」
「どうぞ。仕事で使おうと思って買ったんだけど、小さいからあんまり役に立たないかも」

出かける間際、新品の小さなノートと色鉛筆を荷物の中に足しておいた。使わなければ、折り紙の材料にでもすればいい。その程度に思っていたが、どうやら本人の様子からするに気に入ってもらえたと見える。

字を習い始めたばかりの悟空の手元を覗き込みながら、何かを聞かれる度に隣から口を挟む。空白だった最初のページに、拙い字で書き留められた教えた通りの花の名前はお世辞にも上手いとは言えないが、うんうんと頷きを返す。

道端に咲いている花を、これ程までにじっくり見たことなどあっただろうか。悟空が書いた名前の下に、色鉛筆で花の小さなスケッチを横から書き加えながら考える。

「帰ったら金蝉に見せるんだ!」
「いっぱい勉強したって、褒めてもらいな」

悟空にとって。この天上界の目に映るもの全て、目新しいものなのだろう。知らないものが多いというのは、時として最大の武器となる。知識を得ようとすることも、また同じ。天蓬の言葉を借りるならば、探求する行為こそに意義がある。時間もあることだし、今回は存分に付き合ってあげることにしよう。

そうして、歩いては立ち止まりを繰り返して、東門に差しかかった頃だろうか。花の名前を一生懸命書く悟空と、隣で見守る私。地面に屈み込んだ私たちに向けられる二対の視線に気が付いて、おもむろに視線を上げる。

「あれが噂の下界から連れてこられたとかいう、異端児か?」
「そうそう。なんでも凶事の象徴とされる金色の眼の持ち主だってよ。ほら、見てみろ。あの手足の拘束具。あんな奴が天界に居たら、落ち着いて暮らせねぇよ」
「ははっ!天変地異の前触れってかー?」

目が合った。それを確認して喋り始めた彼らは、なんと意地汚いことだろう。わざとこちらの耳に入るような声量で喋っていることは、火を見るより明らかだった。私の耳に入っているのなら、隣で何ともなさそうな顔をしている悟空の耳にも、当然その声は届いている。

「……はあ?」

黙っていれば、好き放題言いやがって。一発蹴り飛ばして、後ろの川に突き落とす。柄にもなく怒りを滲ませて腰を上げかけた私の腰に、不穏を察した悟空が大慌てで抱きついて引き止める。

「あわわわっ!?采霞!!ストップ!!」
「アイツら。川に落として処す」
「急に物騒!!」
「悟空の保護者は私の保護者でもあるからね」
「金蝉のせい!?」
「大人に処していいと習った」
「大丈夫!!俺、慣れてるから!!平気だって!!」

しばらく攻防戦を続けて、川に蹴り落とすのは諦めた。悟空に免じて許してやるが、何もしないとは言っていない。

ぎゅっと小さな身体を片腕で引き寄せて、立ち上がる時に後ろ手で掴んでおいた石を指先で弾き飛ばすと、即座に悟空の耳を両手で塞ぐ。

軍服を着ていなかったせいで、金蝉の城付きの侍女とでも勘違いでもしていたのか。足元ギリギリで跳ねて飛んだ小石を撃った人物があの西方軍の軍人二人と仲の良い間柄にある相手だと知った途端、青ざめた顔をして逃げ出していった奴らを冷ややかな目で見遣る。

どす黒い好奇に満ちた視線が離れて、耳を塞いでいた手をそっと下げる。真っ直ぐにぶつけられる悪意の混じった言葉が聞こえなくなって安堵したのは、悟空よりも私の方だ。

「……ほんと最悪」

折角、遊びに来たのに。これでは楽しい気分も、全部台無しじゃないか。溜息をひとつ吐いた口から、ぽろりと本音が零れる。

「なっ、なんで采霞が泣きそうな顔してんだよ?俺、大丈夫だってば!」

ふにゃっとした小さな両手が伸ばされて、ぺちりと頬を挟む。よっぽど酷い顔をしているのか、眉を下げてあたふたとする悟空の頭をわしゃわしゃと撫でる。

「ごめん。悟空」
「〜〜なんっで采霞が謝るんだよ!?意味分かんねえ!!悪いのアイツらじゃん!?」
「そうだね」

柔らかな頬っぺたに手のひらを重ねて、蜂蜜色の瞳を見つめる。上手く笑えているかどうかなんて、返事をした私にはもっと判らない。

「知ってた?天上界の人間、みんな紫色の目だって。私も違う目の色だから、仲間外れは悟空だけじゃない……お揃いなんだよ、私たち。覚えておいてね」

きょとんとした顔で私を見上げて、瞬きを繰り返す悟空に微笑みを返す。私のかけた言葉に含まれた意味を察するには、まだ幼すぎる。だが、それで構わない。

「遅くなっちゃったね。このまま金蝉のところ帰ろっか。送って行くから」
「うんっ!」

悟空から差し出してきた手のひらに手を重ねれば、離さないと言わんばかりに、ぎゅっと力がこめられる。手のひらに伝わる温かな体温と、さっきよりもずっとずっと強い力。負けじと握り返した手のひらに、隣で嬉しそうな笑い声をあげた悟空がぴょんと跳ねた。

現実が突き刺さった私の心

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