【第6話:慕情に聖も邪もないだろう】

采霞の瞳は、宝石のように綺麗だ。高貴な色とされる紫色の瞳を持って生まれる天上人とは異なり、異質な翡翠色をした少女の瞳を、友人はそう喩える。

同じ色の花の中にたった一輪、開いた別の色。色が違うからと摘み取られかけた花は、折れないように大事に守られつづけた。その隣に黄色の元気な花が不恰好ながらも植えられたのは、つい最近の話だ。

采霞の澄んだ瞳にまじまじと見つめられ、読んでいた書物を閉じると席を立つ。隠すどころか真っ正面から堂々と観察してますアピールをするのは潔いと思うが、なにぶん観察以前に見られることに慣れていない。

「そんなに見られると、穴空いちゃいますってば」
「人間見ただけじゃ、穴は空かないよ」

視線を投げかけてくる犯人は、備え付けのソファの肘掛け部分に頭を預けて、あられもない恰好でひっくり返っている。執務机を中心に散らかった、障害物として姿を変えつつある書物の山を越え、采霞の傍に膝を折って屈む。

「悟空と遊ぶって言ってませんでした?」
「うん。だからね?悟空と捲簾と一緒に、金蝉の部屋の廊下で遊んでて……」

小さな口にくわえられた棒付きアメは、采霞が口を動かす度、コロコロと口の中を転がる。道理で甘ったるい匂いが漂っているわけだ。舌っ足らずな喋り方になっている采霞は、子供にしか見えない。

「それでねー?捲簾と戦ってたら、金蝉の執務室の扉を破壊しちゃった」
「まさかの悟空じゃなくて、貴女たちがやらかした側なんですね……何やってたんです?」
「プロレスごっこ」

体格差はあるとはいえ、二人が本気で戦えばそうなる。采霞の場合、最前線に出ていないだけで男である僕たちと実力は互角。短期決戦の戦闘に関して言うなら、相手のクセを瞬時に見抜く技術と奇襲攻撃が得意な采霞の方が実力は大いに勝る。足りないところがあるとするならば、それは体力面と体格だけである。

出来ることなら、一度じっくり彼女の身体を見てみたい。決して、やましい意味では無い。小さな身体にも関わらず、何故あれだけの力が戦闘において発揮されるのか。純粋に興味があるのだ。

たとえば、例を挙げると。捲簾の愛用するレミントン銃をぶっぱなしても、撃った本人が反動で吹っ飛ばされない理由など。筋肉量も圧倒的に足りていない。見た目と実力がまるで釣り合っていない光景には、首を捻るしかあるまい。

そうなったら自身の手で答えを見つけるしか方法は無いが、彼女の副官の耳に入れば命を摘まれかねない。不用意に自分の命を散らさないためにも、永遠の謎として探究心は秘めておいた方が身のためだ。

「それは盛大にやらかしましたねぇ」
「金蝉の後ろに般若が見えた」
「悟空と捲簾はどうしたんです?」
「逃げ遅れた悟空がソッコー捕まって、それを助けようとした捲簾も捕まった」
「助けに行くという選択肢は無しですか?」
「無いね。二人の分まで強く生きる」

あっけなく見捨てられた、不憫な二人に合掌をする。怒り心頭らしい金蝉は放っておいても、いずれ逃げ込んだこの場所を突き止めるだろう。ただ、采霞の行動フィールドはとてつもなく広い。辿り着くには、それなりの時間がかかるかもしれないが。

奥の部屋でコーヒーを淹れて再度部屋へと戻れば、ソファから起き上がった采霞は片膝を立てて、もう片方の足を床へと投げ出していた。行儀の悪い座り方をしている彼女を咎めつつ、湯気を立てるミルクと砂糖たっぷりのコーヒーを手渡すと、ローテーブルを挟んだ向かいのソファへと腰を下ろす。

「天蓬、聞きたいことがあるんだけど」
「……どうぞ、話してください」

そう前置きした途端、采霞の纏う空気がガラリと変わった。顔を上げた自分を怖いくらいに、真っ直ぐな色が射抜く。同時に、この部屋に来てからずっと彼女が自分を見ていた理由を悟る。見極めていたのだ、きっと──僕が話すに値する人物か、そうでない人物なのか。

「各部署から私が常日頃情報を集めていることは、今更話すまでも無いだろうけど。総体的に見て、情報の量や質が落ちてる。緩やかに、でも着実に。上層部からの情報が降りてこなくなってる」

ひとつ溜息を吐くと、熱いコーヒーを口にする。采霞自身、上層部の異変には気がついている。だが、踏み入るべきか迷っている。それを知って捲簾を泳がせている僕と違って、慎重派を行くことにしたらしい采霞は僕以上に、物事を大局的に見ていた。

興味本位で突っ込めば、情報部の隊員を危険に晒す。だが、情報そのものが回ってこなくなれば、情報部の存在意義が無くなる。一部隊の長を務める以上、自分の感情だけで好き勝手に動くことはできない。そういうことだろう。

「軍の内情も西方軍以外は、どうも掴みにくくなってきてる。それから……」
「ここ最近の出陣の多さ、でしょう?上層部に妙な動きが出ていることについては、僕も同意しますよ」

長い話になるかもしれないと配慮して、執務机から目の前へと移動させておいた煙草を手に取ると火をつけ、かえるの灰皿を自分の方へと引き寄せる。

「……気がついてたの?」
「ええ、それなりに」

両手でマグカップを持った彼女は、なんとも言えない表情を浮かべて、ソファの背へとひっくり返った。情報部隊長としての役割は果たさなければならないが、こればっかりは難しい問題だ。破滅か、存続か。その先に待つものなど、見当がつかない。采霞自身、板挟みの状況に身動きが取れなくなっている。

「……現状、軍の内情は敖潤上官や天蓬たちが回してくれてるから良いとするけど。でも、それで他の状況が好転するってわけでも無いんだよなぁ」

西方軍の総責任者と采霞に接触がある以上、圧力をかけることは困難と判断され、逆に泳がされている可能性もある。こちらが出方を間違えれば、そこから一気に叩かれる。話を聞いてみれば、自分の見えないところで実害が発生していた。想像以上に、この問題は厄介な案件だった。

「そうですね。とりあえず、こちらの方でも探りを入れてみます。……ところで、その話を持ちかけたのは僕が初めてですか?」
「え?そうだけど?」

きょとんとした采霞は問いかけを受けた数秒後、思い当たったように顔を顰める。なぜ先に金蝉に話さなかったのか、聞きたかったのはそれだ。

「そりゃあ……菩薩がバックについてる金蝉サマが口添えすれば、潰された情報も簡単に得られるし、口出しできないだろうけど。下手に巻き込みたくないんだよね」
「でも、金蝉も気が付いているみたいですよ?上層部に、妙な動きが出ていること」
「それでもさぁ……」

苦々しげに言った采霞は、言葉を紡げば紡ぐほど眉を寄せていく。敏い男である金蝉の行動は、今回ばかりはお気に召さなかったらしい。

「とりあえず、さっきの話はここだけの話ってことで」
「それが賢明ですね」

会話を締めくくった刹那。ノックも無しに叩き開けられた部屋の扉に、二人揃って肩を跳ねさせて振り向く。

話の内容が内容だっただけあって、普段の表情が作れていたかどうか怪しい。もしかすると、厳しい表情になっていたかもしれない。

「スッゲー!金蝉が言った通りだ!」
「そういえば。貴女、逃亡中でしたね」
「……忘れてた」

話に夢中になっていたせいで、采霞が此処に来た経緯が頭から完全に抜け落ちていた。入口から走ってきた悟空に腰へと抱きつかれて、逃げられないと観念したのか。それとも、初めから逃げる気など無かったのか。のんびりと寛いでいる本人に、興が削がれたと言わんばかりの顔で金蝉もソファへと腰を下ろす。

「よく分かりましたね、此処が」
「……フン」

何ともなさげな顔をしているが、微妙に自慢げな表情が隠しきれていない。この男は采霞が何処に居ても、必ず見つける。

「あれ、捲簾はどうしたんです?」
「アイツは粉砕した執務室のドアを現在進行中で修理中だ。いったい何をやったら、粉砕できるんだ?」

思わず吹き出した。この場に姿が見えない男は今頃ぶつくさ文句を言いながら、時間外労働の日曜大工に励んでいるのだろう。

「……どうやって、って。捲簾の攻撃弾いて流したら、たまたま」

不意に口が挟まれた。立てた脚の間に悟空を座らせて後ろから抱えた体勢で悪びれもせずに言う彼女に、金蝉が額を押さえる。

「采霞の体術は、気功術を織り交ぜて使ってるんです。……穴と云えば。そういえば前に、訓練場の壁に大穴空けたことありませんでしたっけ?」
「天蓬。他人の黒歴史バラさないでよ。壁ぶち抜いたおかげで、訓練場も広くなって良かったじゃん?」
「〜〜連帯責任だッ!!テメェらも修繕手伝ってきやがれッ!!」

一度、下火になっただけで、怒りの炎は完全には鎮火していなかったらしい。許されたと思って気を緩めていたら、思いっきり吠えたてられた。怒りの第二波が来る前に悟空と手を繋いだ采霞は、とっとと一目散に部屋を出ていった。

「……なんの話してやがった」
「なにがですー?」
「とぼけんじゃねぇ、殺すぞ」

あの一瞬の間、あからさまに警戒した表情は隠せていなかったらしい。眼光鋭く睨みつけ圧をかけてくる金蝉の方が、よっぽど上層部より怖い。

「言えません」
「……なんだと?」

にこやかな笑みを浮かべて断言すれば、地を這うような低い声が返ってくる。彼が機嫌を悪くしたのは、内緒話をされて気分が悪いとか一人だけ疎外されたからではない。采霞が真っ先に、自身へと相談しなかったことに戸惑っているのだ。

「采霞を悲しませたくなかったら、忘れてください」

整った顔の眉間に、皺が深く刻まれる。我ながら、友人に対して酷い言葉を吐いた。そう言えば、彼が手を出せないことを知っているから。自分の汚さに反吐が出そうだ。

「そうか。邪魔したな」

それ以上の詮索がなされなかったのは、今回ばかりは幸いだった。もしも問い詰められていたなら、話さないという保証は無かったからだ。情けない自身に音もなく溜息を吐いて、ソファの背もたれに身体を預ける。

「天蓬。頼むぞ」
「……なにがです?」
「采霞がお前にしか話せないと判断したなら、とやかく言うつもりはない。お前に任せる」

去り際告げられた言葉に、驚いて目を丸くする。返事も聞かず部屋から出ていったのは、自分が断らないと知ってのことだろう。

「はは……敵いませんねぇ」

絶対に裏切らない。
力になってくれる。
コイツなら、必ず約束を守る。

采霞のことを大切にしている。それだけで構わないのだ。その考えが一致さえしていれば、最終的には在るべき形に落ち着く。

采霞を任せるという選択肢を選ぶことが、金蝉にとってどれだけの重みを持ったものか。任せるに値する相手と判断されたことと、決して他人には言わないだろう類いの頼み事をされたこと。

両者の間にある絶対的信頼の文字に、図らずも口元が緩んだ。

慕情に聖も邪もないだろう

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