【第5話:叶わなかった色々の標本】

流れでセッティングされた、金蝉と副官による保護者会。全力で外で遊びまくった私たちが泥まみれで帰宅する頃には、途中で顔を出した天蓬を交えて、日頃の愚痴会と化していた。

笑い声と喋り声が絶えなかった。夕飯を食べる途中にもケラケラと笑っているせいで、あんまりにも箸が進まないものだから、痺れを切らした金蝉に悟空と揃って、脳天に拳骨を食らった。

「……さてと。そろそろお開きにしようか」

時計の短針が九の文字を、長針が十二の文字を差したのを合図に、ようやく重い腰を上げる。いつまでも遊んでいるわけにはいかない。やろうと思っていた仕事は、この時間まで手付かずだった。そう多くは無いが、今日のうちに出来るところまで片付けておかなければ、明日に響く。

遊び疲れた悟空は、とうに夢の中だ。子守から解放されて、金蝉も杯を傾けるペースが上がっていた。眠そうに目を擦りはじめた時、部屋の端に敷いた布団に入るよう言っておいたのは正解だった。悟空を移動させるのは、現役軍人二人でも骨が折れる。

緩みきった可愛らしい寝顔を晒して、大の字で眠っている大福のようなほっぺたをつまむ。見かけだけでなく、触った感覚も柔らかい。ムニャムニャと口を動かしている悟空はどんな夢を見ているのだろう?と考えながら、早くもズレている布団を掛け直した。

「じゃ、僕たちも帰ります。明日、第二小隊と演練があるので早いんですよ」
「いっそのことサボっちまうってのは……」
「僕もそうしたいのは山々なんですがね?ダメなんですよー。なんでも、敖潤上官が見学に来るそうで」
「ゲ、最悪。腹でも壊してくんねェかな?」

鬼の居ぬ間になんとやらというやつで、本人の耳に入れば最後、懲罰房行き待ったナシの言葉が飛び交う。軽く酔いが回っているせいか、会話のペースが速い。うだうだとしてこのまま家で飲み明かしそうな天蓬と捲簾の背中を引っぱたいて気合を入れてやり、やっとこさ動き出した二人を玄関口から姿が見えなくなるまで見送った。



所変わって、采霞の自室兼執務室。身長に合わせて誂えた、小さめの本棚が整然と並ぶ室内。圧迫感は無いものの部屋の半分以上が本で埋まっていた。

「前より少し本が増えたか?」
「下界の文学が面白くって、つい」

仕事を手伝う名目で、此処を訪れたのだ。「先に寝ていれば良いよ」という采霞の勧めに、首を横に振った。どのみち悟空が動かせないから、泊まりは決定事項。手伝う時間はたっぷりある。すぐに体力切れを起こす俺の代わりに、悟空の相手をしてくれた礼だ。

適当な場所へと本をポンポン置いたあげく、すぐに行方不明にする天蓬と違って、はるかに整理が行き届いている。この几帳面な性格が現れた置き方を、是非ともあのズボラな男に指南すべきだ。

記憶が正しければの話だが、前に来た時と比べて一つ本棚が増えている。置ききれなかった本と入れ替え作業中の本が、使っていない机の上に山を成していた。采霞は床に本を置かない主義だから、部屋は足の踏み場がちゃんと確保されている。

「天蓬には戦史推されてるんだっけ?」
「全力で布教してくる。この前も本を勧められて借りたが、さっぱり内容が分からん」

俺が本棚を見ているのに気がついたのか、翡翠色が真っ直ぐに捉える。

「天蓬は入門書なんかは持ってないだろうからねぇ……もし興味あるなら、夏野から借りたらいいよ。私が前に読んでた本の倉庫になってるから、うちの副官の部屋。ところで、コレとか興味ない?」

ぽん、と差し出された本を何の疑いもなく受け取って渋面になる。『楽しい拷問術』とかいう物騒極まりない題名に口元が引き攣った。なんつー本を持っている。いや、それより誰がそんな本を書いたんだ。下界の人間は自由すぎる。

「ありゃ、興味なさそう。じゃあコレは?」

興味はある。ただ、ドン引きしているだけだ。次いで渡されたのは『毒キノコ判別事典』。これは悟空に渡したら喜ぶかもしれない。だが、とりあえずは使い道について問いたい。次々に出てくる変なタイトルの書物に思わず真顔になる。この本棚、実は異空間に繋がっていたりするのかもしれない。

「もっと……こう。普通の本は無いのか?」
「ん〜〜、ちょっと待ってね」

これ以上のマシな言い方が見当たらない。広い室内の本棚を見て回る采霞は、真剣な眼差しで本の背を追っている。入口とは反対側の壁際に置かれた普通の本棚とは違う平台へと差し掛かった時、「お」と何か思い当たったような声を上げた。

「……あったあった。はい、特に面白かったやつ。悟空と一緒に読んで」
「そんなに面白い……オイ。なんか変な生き物がいるぞ。大丈夫なのか」

なんとなしにぱらりと開いたページの挿絵に視線が釘付けになる。盾と斧を持った、腰に蓑を巻いた首無の裸体。その身体に描かれた巫山戯たラクガキのような顔。……次は妖怪図鑑が飛び出した。

勧めて寄越してきた采霞を見遣るが、ニコニコとしているだけで何も言わない。やっぱりこの部屋には、変な本しか置いていないのではなかろうか。

「それ、刑天っていう神様ね。この本は『山海経』っていって、といっても金蝉に渡したのはシリーズのうちの一冊なんだけど。古代中国の各地に伝わっていた伝承をまとめたもので……」

始まった講釈を聞いていれば、先程まで紹介してきた碌でもない本とは違って、ちゃんとした歴史書に値するものらしい。変な本ではあるが巫山戯た本ではない、との言葉を信じて有難く貸してもらうことにした。
あまり良くは知らないが『古事記』やら『日本書紀』などといったものも、さっき渡された本と同じ類いに入るのだろう。何が楽しいのか分からないが、こういった歴史書を好んで読んでいるところを良く見かける気がする。

「よーし!仕事!」

ぱん、と手を打ち鳴らした采霞はくるりと背を向ける。執務机は基本的に采霞一人の時しか使わない。そう知っているから、一足先に部屋の真ん中に据えられた、大きめのローテーブルの傍へと腰を下ろす。

判子なんて誰が押しても書類に目を通してさえいれば変わらない、という主張はもっともだ。現に自分が任された仕事がそれだ。代わりに判子をぺたぺた押すだけの事務仕事を淡々と繰り返していれば、書類へと目を通していた彼女がだるそうに口を開く。

「判子押しに関しては手馴れてるね」
「一日の仕事の大半はこれだからな」
「判子マスターって悟空が言ってたよ」

それは止まることなく、一定のタイミングで押されていく。溜まった書類は緩やかに捌かれつつあった。

「あ」
「次はなんだ」
「悟空のこと、報告きてた」
「そうか」
「いつも思うけど、報告が遅すぎる」

各部署からの情報把握を日常的に行っている采霞には舌を巻く。毎日上げられる情報量は尋常な量ではないだろう。かなり速いペースでめくられる書類の束から得られた情報は寸分残らず、頭の中へと収められてゆく。

他愛もない話の──ほとんどが采霞から投げられるものだが──相手をしつづけて約一時間。書類束の最後のページをめくり終わった彼女の、迷いを含んだ小さな声が静かな室内に響いた。

「あー……あのさ。悟空のことなんだけど」
「……悟空が、どうした?」

書類をまき散らす前提で、少し離れたところに腰を下ろしていた場所から立つことをせず、ずるずると移動してきた采霞は、胡座をかいた俺の隣へと落ち着くと膝を抱えた。

「悟空、これからも来ないかな……って。ここまでは複雑な道程じゃないし。金蝉が忙しい時は私が面倒みるから……」

あまりに真剣な顔をするから、何を言い出すかと思えば。おおよそ遠慮しているのだろうが、断る余地も無かった。

「むしろ大助かりだ。仕事中に周りでバタバタ跳ねられると手に負えん」
「ほんとっ!?」

ぱっ、と輝いた翡翠色の瞳に無意識のうちに頬へと手が伸びていた。その頬に指をスルリと滑らせる。

「金蝉?」
「お前は、笑っているほうが似合う」

悟空と出逢ってから、たった数時間。ずいぶんと笑うようになった。悟空は他人のテリトリーに入ることを躊躇わない。純粋無垢な悟空だからこそ、その領域へと踏み込んでいける。

こんなにめいっぱいに幸せを感じて笑っている顔など、久しく見たことがなかった。だから昼間、俺らしくもないあんな衝動任せの行動に出てしまった。奇しくもそれを引き出したのが悟空であるという事実が、悔しいようで嬉しかった。

「采霞?」

隣に座っていたはずの姿は、瞬き一つのうちに、ぽすんっと胸元へと飛び込んできた。いつもの俺に抱きついて動かなくなる、寂しがり屋症候群でも発症したかと思っていれば、痛いくらいの力で背中が細腕で抱きしめられる。服を掴んだ小さな手のひらが、かすかに震えていた。

「……何故、泣くんだ」

歩み寄ることに、もう迷いはなかった。とりあえず、一回りも二回りも小さな身体を、自分がされているのと同じように抱きしめてみる。無論、数秒で解いたりなんてしない。彼女の口から紡がれる言葉を一言一句聞き逃さぬよう、首元に埋めた顔の耳元で涙交じりの声がやがて届いた。

「……悟空は、あんなに素直に感情を表すから。だから、ずっとこうしたかったんだなって……ひっく…金蝉はっ…ずっと待っててくれてたのに…気づかなかった……」

自分の感情の意のままに。金蝉に、そして私に甘えてくる悟空が羨ましくなった。そう付け加えた直後、すべての感情を吐き出すかのような泣き声が鼓膜を震わせる。

そんなことで、と言ってはならない。知らなかったのだ、甘え方を。だから、手放さないように。傍に居てくれないと嫌だと、全力で駄々をこねる。

これまで、与えられるすべてのものを与えてきたつもりでいた。柔らかな色素の薄い髪を撫でながら、己の浅はかさを後悔した。思い返せば采霞の周りには、大人ばかりで子供は居なかった。方法を知らなけりゃ、距離なんか縮めようもない。自分の抱える感情を、素直に表に出す手段が采霞には分からなかった。

その壁をぶち壊したのも、教えたのも悟空だ。あの無邪気な笑顔の元気玉は、まったくとんでもないことをしてくれた。

叶わなかった色々の標本

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