- ナノ -




 ジェイド先輩の背中で揺られながら、私は小さくため息をついた。

「大丈夫ですか?」
「……はい。大丈夫です……」

 口ではそう言うものの、気持ちが沈んでいるのが自分でも分かる。


 何があったかというと、話は数分前に遡る。


 保健室に到着すると、初老の校医の先生は、私の痛めた足を見てすぐにこう言った。

「ああ……これは魔法で治さん方がいいなぁ」
「えっ!? どうしてですか!?」

 てっきりCG処理された映画の世界でしかお目にかかれないような不思議体験ができると思い込んでいた私は、食い気味にドクターへと問いかけた。

「お前さんは魔力が無いからなぁ。幸い折れたりはしとらんようだし……この程度なら放っておいても自然と治る。命に関わるような怪我じゃない限り、身体への負担を考えたら魔法は使わん方がいいわ。貼り薬を出しておくから、それを貼って様子を見なさい」
「そんなぁ……」


 結局、物珍しいものは何一つ見られず、保健室を後にすることになった。当然歩けないので、ジェイド先輩に背負ってもらっているというわけだ。


「……私にも魔力があったらなぁ」

 ポツリと言った私に、先輩は小さく笑った。

「まあまあ。そう気を落とさずに。すぐ治るのですから良かったではありませんか。先生もそうおっしゃっていたでしょう?」
「…………魔法で怪我が治る感じを体験してみたかったのに……」
「おや、そんなことですか?」
「……先輩たちにとっては『そんなこと』でも、私にとっては『そんなこと』じゃないんです!」
「これはこれは、失礼しました」

 そう言って、先輩は気にしているんだかいないんだか分からない顔をして笑った。

「先輩はいっつも私のこと『魔力が皆無』だとか言って馬鹿にする」
「おや、馬鹿にしたつもりはなかったんですが……ご気分を害されたのでしたら申し訳ありません」
「本当に申し訳ないって思ってます〜?」
「もちろんですよ」

 クスクスと愉しそうに笑いながら言った先輩を後ろから覗き込むようにすると、先輩はゆっくりと私を振り返った。至近距離で色っぽく細められた色素の薄い瞳とかち合い、心臓がドキッと跳ねた。

「……こ、今度トレイ先輩に頼んでユニーク魔法でもかけてもらおうかな〜」
「……トレイさん、ですか?」
「知ってます? トレイ先輩のユニーク魔法。味とか匂いとかを上書きできるんですよ! すごくないですか!? 魔法みたいですよね」
「魔法ですよ」
「あ! あと、ラギー先輩! 自分と同じ動きを相手にさせられるんですよね。自分の意思と関係なく身体が動いちゃうなんて、なんか面白そうでしょ?」
「人のユニーク魔法を面白がるものではありませんよ」
「ジェイド先輩のユニーク魔法は?」
「企業秘密です」
「……教えてくれないんだ?」
「ええ。ユニーク魔法は普通の魔法と違ってその個人特有の、いわばギフトのようなものです。みすみす手の内を明かすのは……そもそも、僕は自分のユニーク魔法の内容をペラペラ喋る人の気が知れませんね」

 ため息混じりに呟かれ、なんとなく責められているような気になってくる。

「……そういうものなんですね。ごめんなさい。私、あんまり深く考えてなくて……」
「ああ、貴女のことではありませんよ。フロイドがその辺りのガードが緩いので……。まったく、困ったものです」
「フロイド先輩?」
「ええ。……まぁ、ガードが緩いというのは貴女もですが」

 チラリとこちらを振り返りながら、ジェイド先輩は言った。

「……わ、私……?」
「自分から進んでユニーク魔法にかかりたいだなんて、無防備にも程がありますよ。悪用されたらどうするんです?」
「だって……トレイ先輩とラギー先輩ですよ? あの二人が悪用なんてするわけ……」

 言いかけた時、ジェイド先輩の目がスッと細くなった気がして、そのまま言葉を呑み込んだ。

「……ユニーク魔法は……やめておきます」
「普通の魔法もですよ」
「…………ふ、普通のも……やめておきます……」

 私の答えを聞いた瞬間、ジェイド先輩の表情がようやく緩んだ。……やっぱり魔法の話題になると気まずいというか、居づらいというか、居場所がないような気がする。魔力を持たない自分にはどこか他人事で、何を言っても薄っぺらな気がするからだ。

「……あ、そういえば! グリムって今日見ましたか?」

 なんとなく気まずくて、話題を変えてしまった。やや強引な気はしたが、先輩は特に気にした様子もなく続けた。

「グリムくんですか? そういえば欠席届を提出しに行った時にお姿は拝見しましたが……グリムくんが何か……?」
「無断で外泊しちゃったから心配してないかなって……というよりは、ツナ缶暴食してないかなってちょっと心配で……」
「ああ……。ふふ、元気そうでしたよ。いつもの様子、といいますか……」
「……そう、ですか」

 ……いつもと同じ、か。……なんだ。私が居なくても気にしないんだ。今まで一緒に生活をしてきた相棒のような存在だと思っていたのに。そう思っていたのは私だけなのか。

 ……グリムの薄情もの。


「……さて、どうしましょうか。このまま僕の部屋に戻っても?」
「も、もちろん! 勉強教えてくれるんですよね?」
「はい。今日はラウンジの仕事も入っていませんので。終わったらオンボロ寮までお送りしますね」

 別に私が帰ったところで誰にも喜ばれないと思うけど。一瞬、そんな卑屈な考えが頭をよぎる。

「……ユウさん?」

 何も言わない私を不思議に思ったのか、様子を窺うように、ジェイド先輩がふと振り返る。

「あ……なんでもないです。じゃあ送ってください」

 平静を装ってそう言うと、先輩の背中に顔を埋めた。

 ……やっぱりこの世界には自分の居場所なんて無いのかもしれない。



***



 先輩の部屋に帰ってくると、なんとなくホッとした。先輩の匂いがする。

「そういえば、お腹が空きませんか?」
「え? いえ、私はそんなには……」
「そうですか……すみませんが何かお腹に入れてきてもよろしいでしょうか。恥ずかしながらあまり燃費が良くなくて」

 ほんの少しだけ困ったように笑いながら、先輩が言った。言い方が可愛くて、思わず心の中で笑った。

「はい、もちろん。じゃあ、分からなかったところ、まとめておきますね」
「すみません。すぐ戻りますので」



 先輩を見送ってから、昼間と同じように机へと向かう。自然と口からため息が漏れた。

 ……なんとなく、グリムもエースたちも、自分が居なくなったら心配してくれてるんじゃないか、なんて思ってた。でも実際には、よその世界から来た女が一人行方知れずになったところで、みんないつもと変わらないし、誰も気にしたりしないんだ。たとえ私が元の世界に帰ることになったとしても、きっとすぐに忘れられてしまうだろう。


 ……寂しい。なんだか泣きそう。


 この世界に来てから今日が一番孤独かもしれない。周りに誰も知り合いがいないみたいな。世界にたった一人取り残されたみたいな。そんな孤独感。
 視界がだんだんと滲んでくるのをなんとか歯を食いしばって耐える。こんなところで、こんな理由で泣きたくない。ジェイド先輩に見られてしまう。

 ……先輩だったら、気付いてくれるのかな。もしも、私が居なくなったら。

 そこまで考えて、ぶんぶんと首を振った。

 ……あー、ダメだダメだ。やめよう。悲劇のヒロインみたいで気持ち悪い。きっと、ホームシックなんだ。寮に戻っていつもみたいにみんなで馬鹿やってたら、きっとこんな気持ちは忘れて、いつもみたいに戻れる。

 大丈夫。私は大丈夫。

 数回大きく深呼吸を繰り返すと、ようやく涙が引いた。

「すみません、戻りました」
「うわあ! 早い! ハハハ!」

 相変わらず、食事を終えてきたとは思えない早さで戻ってきたジェイド先輩に思わず笑うと、先輩はキョトンとした顔でこちらを見つめた。

「そうですか?」
「そうですよ! 本当に食べてきました?」
「ええ」
「ふーん? 何食べたんですか?」
「ちょうどフロイドが賄い用にパスタを作っているところだったので、一緒にいただいてきました」
「フロイド先輩? フロイド先輩ってお料理できるんですか? へぇー! 意外!」

 あの感じからはあまり想像できない。そう思ったのだが、ジェイド先輩の答えは意外なものだった。

「ええ。気分にムラがあるので、良い時と悪い時の味の差は激しいのですが……本日は良い日だったようですね。美味しかったですよ」
「そうなんですね。フロイド先輩がお料理してる姿ってあんまり想像できないですけど。ふふ。……あ、ジェイド先輩もお料理上手ですよね。お弁当、美味しかったです」
「それはそれは。お口に合ったようで何よりです」

 そう言って、いつものように優雅に微笑むと、先輩はそっと私の頬を撫でた。

「ジェイド先輩……?」

 先輩は、少し辛そうに眉をしかめると、そっと私から視線を外す。

「……いえ、なんでもありません。さて、少しばかり勉強しますか?」
「はい。さっそくここなんですけど……」

 目印のメモを挟んだページを開き指差すと、ジェイド先輩は納得したように頷いた。

「ああ、この調合は材料を混ぜる順番によって効果が変わるんですよ。この場合は最初に……」


***


 ジェイド先輩の理路整然とした解説は分かりやすく、一人で勉強していた時に疑問に思っていたところが、ようやく全てクリアになった。これなら小テストも赤点を取ることはないだろう。

「あー終わったぁ……」

 グイッと伸びをすると、隣で先輩が小さく笑うのがわかった。

「お疲れ様でした。よく頑張りましたね」
「先輩のおかげです。ノートも見やすかったし。ありがとうございました」

 先輩を見上げながらそう言うと、先輩は少しだけ困ったような顔をしながら、先ほどと同じように私の頬を撫でた。

「先輩……?」
「一つ、お聞きしても?」
「? はい、何ですか?」
「……先程は、なぜ泣いていたのですか?」

 静かな問いかけなのに、心臓が大きく音を立てた。

「……な、泣いてないですよ?」
「あんな空元気で、僕が気付かないとお思いですか?」
「でも……本当に泣いてなんか……」

 嘘は言っていない。実際に涙が溢れたわけではないし、あれはセーフなはずだ。

「……僕には本心は明かしてくださらないのですか?」
「そんなんじゃ……ないけど……本当に――」

 言いかけた時、なんだか外が騒がしいことに気付いた。扉の方へ視線をやると、先輩も同じように扉の外を気にしているようだった。

「……なんか……騒がしいですね。どうしたんだろう」
「ラウンジの方のようですね。……まあ、アズールもフロイドも居るので大丈夫でしょう」

 そう言うと再び私へと向き直った。まだ話は終わっていませんよ、と先輩の顔が言っている。どうやら逃してくれる気は無いらしい。

「……えっと……昨日と同じ……ホームシックだと思います。なんか……ちょっとだけ孤独感を感じてしまって。はは……時々あるんですよ。身寄りが無いからかな。だから直接何かがあったわけじゃないんです。……本当です」
「……僕では貴女の支えになれませんか?」
「え……?」
「貴女が孤独を感じなくて済むように、僕がそばに居ます。……それではダメですか?」

 そう言って、先輩はそっと私を抱き寄せた。先輩のいい匂いに包まれて、そっと目を閉じる。

「……先輩は……私が居なくなったら……気付いてくれますか?」
「もちろんです」
「……すぐに探して、見つけてくれますか?」
「ええ。誰よりも早く」

 ジェイド先輩の長い指が、私の輪郭をそっとなぞるように動く。そして、人差し指で私の顎の辺りを支えると、そのままグッと上へと押し上げた。半ば強制的に上を向かされ、先輩と至近距離で目が合った。

「ほら、やっぱり泣いていた」
「……先輩のせいです」
「では、責任を取らなくてはいけませんね」

 そう言って、先輩は涙を拭うように優しく私の頬を撫でた。

 ああ、逃げられない。そうだ。昨日だって思ったんだ。この人からは逃げられないって。
 ……でも、べつに逃げる必要なんて無いんじゃないか。この人に捕まっても、そばに置いてもらえるならそれでいいじゃないか。

 そんなことを考えながら、そっと目を閉じる。

 ジェイド先輩の唇に触れた瞬間、扉がコンコンと音を立てた。

「失礼します! ジェイドさん、お休みのところ申し訳ありません! いらっしゃいますか!?」

 慌てたような声で誰かが先輩を呼んでいる。先輩はピタリと動きを止め、やれやれといった顔でゆっくりと立ち上がった。
 扉の向こうには、見知らぬオクタヴィネル寮服を身に纏った人が申し訳なさそうな顔をしながら立っていた。

「どうかしましたか?」
「申し訳ありません! モストロ・ラウンジの方へ来ていただけませんか?」
「僕は今日は非番のはずですが。見てのとおり取り込み中でして……」

 チラリとこちらを示すように先輩が目配せをすると、寮生が様子を窺うようにこちらを見た。目が合い軽く会釈をすると、彼もまた慌てた様子で頭を下げた。

「そういえば先程から騒がしいですね。何かあったのですか?」
「じ、実は……他寮の生徒が暴れていて……ジェイドさんを出せと……」
「僕を、ですか? ……やれやれ。本当にタイミングが悪いですね」

 ふう、とため息をついて、先輩は私の方へと歩み寄った。

「申し訳ありませんが、少しの間待ってていただけますか?」
「それはもちろんですけど……大丈夫なんですか? 危ないことは……?」

 心配で思わず先輩の服をそっと掴むと、先輩はまたあのキノコを見るような目で私を見てから、そっと私の手を取った。

「時々困った方がいらっしゃるんですよ。すぐに戻りますので、いい子で待っていてくださいね」

 ニッコリと笑って、先輩は部屋を出て行った。
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