- ナノ -





 数日ぶりに魔法舎に帰ってきた私たちを出迎えてくれたのは、ボロ雑巾のような状態で談話室のソファに横たわるオーエンとブラッドリーだった。


「えっと……何があったんですか……?」

 恐る恐る問いかけると、オーエンの緋色の瞳と目が合った。

「……見て分かんないの?」

 明らかに不機嫌な様子で言い放つと、オーエンはそっぽ向いてしまった。助けを求めるように隣のブラッドリーを見ると、彼もまた不機嫌を隠さずに大きくため息をついた。

「こんなことすんのはミスラしか居ねえだろーが。あの野郎……いつか殺す……」

 ソファの背もたれに身を投げ出すようにして寄りかかりながら、ブラッドリーは宙を睨んで言った。

 やっぱりか。薄々気付いてはいたが……。

「えっと……そのミスラはどこに……?」
「さあな。俺らが知るかよ。どっかその辺に居んだろ」

 言われて見渡すが、少なくとも談話室やそこから見える範囲の中庭には居ないようだった。まあでも魔法舎の中には居るんだろうから、探しに行ってみようか。

「ねえ、賢者様」

 ふと声をかけられ振り返ると、先ほどまでソファに寝転がっていたはずのオーエンが、いつの間にか立ち上がってこちらを見下ろしていた。

「なんですか……?」
「賢者様にとって大事なのはミスラだけ? 僕らがこんなに一方的に痛めつけられたのに、賢者様は僕たちのこと、可哀想だとは思わないんだ?」
「そんなことは……でもミスラにも話を聞かないと。何か事情があったのかもしれませんし……」
「事情があったって何? 事情があれば人のこと一方的に痛めつけてもいいって、賢者様はそう思ってるってこと?」
「そうじゃないですけど……」
「ならミスラにちゃんとお仕置きしてくれるんだよね? そうだ。オズに頼んでよ。僕たちだけがこんな目に遭ってさ、あいつだけお咎めなしなんて納得できない。僕らにしたのと同じ分だけミスラだって痛い目に遭うべきじゃない?」
「……じゃあオーエンはやり返さなかったんですか?」

 北の魔法使いが一方的にやられたまま黙っているわけがない。ミスラの方が実力が上だとしても、少なからず反撃はしてるはずだ。

 図星を指されたのか、オーエンは少しだけムッとしたように眉を寄せてから、小さくため息をついた。

「……最近のおまえはつまんない」

 一言だけポツリと呟くと、オーエンは煙のように消えてしまった。

「あ……消えちゃった……」
「ほっとけ。いつものことじゃねーか。それより、ネロのやつに夕飯は肉にするように言っといてくれよ。アイツ、ガキどもが帰ってくるからか今日はずっと双子と一緒に菓子なんか作ってたからな。俺はこういうムシャクシャした時はガツンとしたもんが食いてーんだよ」

 ムスッとした顔をしながらも、どこか拗ねた子供のような顔でブラッドリーが言う。彼のこういうところは憎めないと思う。

「分かりました。ネロに会ったら伝えておきますね」
「……俺からって言うなよ」
「はい。分かりました」


***


 談話室を出た私は、とりあえずミスラの部屋へと向かった。

「ミスラ? 居ますか?」

 数回ノックをして声をかけるが、反応はない。部屋には居ないんだろうか。

「ミスラ? ……寝てるんですか?」

 再びノックをしながら問いかけるが、やはり反応はなかった。

「居ないのか……」

 留守だと分かっているのに勝手に部屋を開けるのは気が引けるし、とりあえず他の場所を探してみよう。


「ミスラ? 見てなーい!」
「ミスラちゃん? さっきまで北の連中と一緒に元気に戦闘訓練をしとったようじゃが……そのあとは見かけとらんのぅ」
「ミスラ? さぁ……双子とは一緒に居たけど、ミスラは見てないぜ」
「ミスラですか? さあ、今日はまだ見かけていませんね」
 
 その後も、中庭、食堂、キッチン、シャイロックのバー。思いつく限りの場所へ行ってみたが、やはりどこも空振りだった。

「おかしいなぁ……」

 大いなる厄災の傷のせいで、ミスラは思うように睡眠が取れない。いつもなら任務がこんなに長期間にわたることはないので、私が魔法舎を空けることがあっても数日のうちには帰舎している。こんなに長い間眠れなかったらさぞかし不機嫌だろうし、なんなら帰ってすぐに『眠れなかった』だの『寝かしつけろ』だのと苦情を言われるところまで想定済みだったので、はっきり言って拍子抜けだった。

「出かけてるのかなぁ……」

 ヒースやルチルなんかは、魔法舎に居ても時々故郷の国に帰ることがある。ミスラも何処かに出かけているんだろうか。



「賢者様?」

 声をかけられ振り返ると、ルチルが立っていた。ルチルの声かけで私に気付いたのか、傍にいたミチルが駆け寄ってくる。

「賢者様! ……あれ? 元気がないですね」
「ひょっとして、任務でお疲れなのでしょうか? 予定していたよりもかなり長く南の国に滞在することになってしまいましたから……」

 自分たちの故郷である南の国での任務だったせいか、ルチルは申し訳なさそうな顔をしながらこちらを見つめていた。

「いいえ、大丈夫ですよ。それより、ミスラを見ませんでしたか? 探してるんですけど、どこにも居なくって」
「ミスラさん? そういえばまだ姿を見ていませんね。部屋に居るのかな?」
「さっき行ったんですけど部屋には居ないみたいなんです。ルチルたちがまだ会ってないなら、魔法舎には居ないんでしょうか。出かけてたりとか……」

 ミスラは普段から任務が終わるたびに南の国の兄弟の無事を確認している。二人に何かあれば自分が魔力を失うからなのかもしれないが、それでも他の魔法使いから過保護ではないかと言われるくらいには、この二人の身の安全に気を配っている。それなのに今回は顔すら出さないなんて、やはり魔法舎には居ないのかもしれない。

「そっか。ミスラさんなら空間移動魔法であっという間にどこへでも行けますからね。きっとすぐに帰ってきますよ、賢者様」

 少し大人な顔をして、ミチルが言う。

「そうだね。ミスラさんのことだから、お腹が空いたら帰ってくるかもしれませんよ。ネロさんがもうすぐ夕食だって言っていましたし、それまで賢者様も少しお部屋でお休みになってはいかがですか?」
「それがいいですよ! 賢者様、疲れたでしょう? 僕、呼びに行ってあげます!」

 無邪気な顔をしてそう言うミチルが可愛くて、思わず顔が綻ぶ。

「そうですね。じゃあ、お願いできますか?」
「はい! 任せてください!」


***


 二人と別れて自室へと向かいながら、私はミスラのことを考えていた。

 思えば、ミスラは元々一つの土地に留まるタイプではないようだった。基本的には故郷である北の国にいることが多いようだったが、話しを聞くかぎりでは定住するという感じではなかった。気分次第で何処へでも行き、ふらりと帰ってくるのだと、いつだったかそんなことを言っていた。
 それに、彼は扉ひとつでどこへでも行けるのだ。ふらりと何処かへ行ってしまってもなんら不思議ではない。

 なんとなく、いつもミスラは私を迎えてくれていたから、今回も私のことを迎えてくれるのではないかと思ってしまっていた。なんだかちょっと恥ずかしい。近所の猫と仲良くなった気がしたのに、ある日見かけて声をかけたら知らん顔されてしまったような、そんな気まずさだ。

 寂しいと恥ずかしいの間くらいの、なんとも言えない気持ちを抱えながら部屋に到着すると、なんだかホッとしたような気がした。ある時急に飛ばされてきたこの異世界の中でも、この魔法舎――特にこの自分用の部屋は、既に自分にとっての『居場所』になっていたのかもしれない。

 ああ、そうか。ミチルの言ったとおり疲れてるんだな。

 言われてみれば、長期間にわたる遠出で精神的にも少し疲れている気がした。ミスラのことは気がかりだったが、魔法舎に居ないのなら私には探しようもない。服でも着替えて夕飯までのんびりしてもいいかもしれない。

 そうしよう。休もう。

 半ば開き直りのような気持ちで扉を開けると、違和感から足を止めた。

 任務に出る前と変わらないはずの景色の中に、一つだけ異質なものが見える。ベッドがこんもりと盛り上がっていたのだ。そしてその端に、ほんの少しだけ出た赤い髪が見える。

「ミ、ミスラ……?」

 もしかしたら寝ているかもしれないので、極力声を落として話しかける。するとその膨らみはモゾモゾと動き出した。

「なんですか……せっかく眠れると思ったのに……」

 人のベッドで勝手に寝ておきながら、ミスラはそんなことをのたまった。

「あの……ここで何を……?」
「見て分かりませんか? 眠れないんですよ。このところあなたが居なかったので」
「あ……ごめんなさい。今回の案件は思ったよりも時間がかかってしまって……」

 やはり任務で不在にしていた間、ミスラは眠れていなかったのだ。だが、ミスラの様子を見るかぎり、そこまで『不機嫌』という感じはしなかった。どちらかというと、置いていかれてしぶしぶ留守番をしていた子供のような顔をしている。

 ベッドサイドに座り、横たわったままこちらを見上げるミスラの髪をそっと撫でると、ミスラは目を閉じてゆっくりと息を吐き出した。猫だったら喉でも鳴らしていそうな気の抜けた表情に、思わず頬が緩む。

「ミスラ。怪我はないですか?」
「怪我? 俺がですか? なぜです?」
「オーエンやブラッドリーたちと揉めたと聞きました」
「別に揉めてませんよ。俺が二人に授業をしてやっただけです。先生だったので」

 そう言ったミスラの顔は、少し得意げだった。

「先生? 先生役を、ミスラがやったんですか?」
「はい」
「スノウやホワイトは? 居なかったんですか?」
「気分が乗らないから代わりにやってと言われました」
「なるほど」

 それで少し機嫌がいいのか。普段からスノウやホワイトの授業を煩わしそうにしているが、自分が先生側だとまた違うのだろう。

「それは大変な役目でしたね。お疲れ様です、ミスラ先生」

 再びミスラの柔らかい髪を撫でると、ミスラは何かに気付いたように眉を寄せ、勢いよく私の手を掴みながら身体を起こした。そして手を引き私を引き寄せると、私の首筋に顔を寄せ、スンスンと鼻を鳴らした。しきりに首元や頭の辺りの匂いを嗅がれ、思わず身体を竦ませる。

「あの……ミスラ……?」

 不機嫌そうに眉を寄せたままのミスラの様子を窺いながら問いかけると、ミスラはようやく口を開いた。

「あなたからオズやフィガロの気配がします」
「え……?」

 気配……? 初めて言われた。匂いが移るように魔力や気配も移るものなのだろうか。オズやフィガロとはここ数日任務で常に一緒に居たので、気配とやらはそのせいだろう。
 スンスンと自分の腕の辺りを嗅いでみるが、特に変な匂いはしない。魔法が使えないからだろうか。あいかわらずこういった魔力に関する感覚だけは自分には全く分からない。

 先程までのご機嫌が嘘のように、ミスラからは不機嫌オーラが漂っている。

「えっと……お風呂に入れば取れますかね……? その……気配……?」
「馬鹿なんですか?」

 呆れたように大きなため息をつくと、ミスラはようやくこちらを見た。

「あ……あの……ミスラ……?」

 至近距離からじっと私のことを見つめたまま動こうとしないミスラに、恐る恐る声をかける。先ほどの不機嫌は少しだけ緩和されたような気がするが、よく分からなかった。怒っているような、拗ねているような、そんな表情をしたまま、ミスラはただ私のことを見つめていた。

 なんだか微妙な空気が流れている。一見緩やかだが気を抜くとそのまま流されてしまいそうで怖かった。見慣れているはずのミスラの顔が、急に別人のように見えた。


「ミスラ……あの……」
「黙って」

 ミスラの整った顔がゆっくりと近づいてくる。


 あ……キスされる……。


 これから何が起こるか分かっているのに、私の身体は金縛りに遭ったように動かなかった。


 ミスラの唇が私の唇に触れるか触れないかというところで、不意に扉がコンコンと音を立てた。


「賢者様! もうすぐご飯が出来るそうですよ!」
「村から頂いた食材で、ネロが色々作ってくれましたよ!」

 扉の向こうからミチルとリケの声が聞こえる。反射的に手を突っぱねると、私の力なんかではびくともしなかったミスラの代わりに私がベッドから落ちた。

「痛っ! ……い、今! 行きますね!」
「賢者様!? 大丈夫ですか!? すごい音が――」
「だっ、大丈夫です! 二人とも先に行っててくれますか? すぐ行きますので!」

 したたかに打ちつけたお尻をさすりながらなんとか声を絞り出す。こんな微妙な状況でミチルやリケを部屋に入れるわけにはいかない。もちろん、やましいことは何一つないし、誤解されるようなことも隠さなきゃいけないことも一切無いが、それでも大人として、まだ幼い彼らにはこういったところは見せるべきではないと思った。とくに、誤解したリケに『不潔です』と冷たい視線を向けられるのだけは避けたい。なんとしても避けたい。

「じゃあ、先に食堂に行ってますね!」
「賢者様! 早く来てくださいね。でないとせっかくネロが作ったご飯が冷めてしまいますから」

 素直な子供達は、口々にそう言いながら去っていった。

 遠ざかる足音を聞きながら、ホッと息を吐き出す。恐る恐るミスラを見上げると、ミスラは先ほどのことなど意にも介さぬ様子であくびを噛み殺していた。

「えっと……ご飯だそうですよ」
「なら行きましょうか。腹が減りましたね」

 ミスラはいつもと変わらない様子でそう言うと、ゆっくりとベッドから立ち上がった。

 なんだか変なふうに意識してしまったが、あの行動に深い意味は無かったのかもしれない。

 ……そりゃそうだよね。ミスラだもん。

「ほ、ほんとですね! お腹がペコペコです!」

 自意識過剰気味に反応してしまった気恥ずかしさを誤魔化すように、勢いよく立ち上がると、我先にと扉へ向かった。ドアノブに手をかけた瞬間、後ろから伸びてきたミスラの長い指先が、私を押し留めるように私の手に重なった。

「晶」

 私が振り返るよりも先に、ミスラの低い声が耳元で響く。

「な……なんでしょう……?」
「今夜は俺の部屋に来てくださいね」
「ミスラの……部屋……?」

 一瞬で先ほどのシーンが頭の中で再生された。やっぱり気のせいなんかじゃなかっ――

「はい。あなたのせいで俺は何日も寝てないんですから。今日こそは寝かせてもらわないと困ります」
「あ、ああ! そうですね! もちろん! そのつもりですよ!」

 もうダメだな、今日は。ダメだ。

「顔が赤いですね」
「気のせいですよ!」

 顔が燃えるように熱い。手で顔を扇ぎながら、なんとか気持ちを落ち着けようとミスラから視線を外すと、ミスラが小さく笑ったのが分かった。

「夜にさっきの続きをしますか?」
「つっ、続き!?」

 ふざけているのか。それとも揶揄っているのか。チラリと振り返るが、ミスラの表情はそのどちらも当てはまらなかった。普段と同じような顔で、でも答えを促すように、ただじっと私のことを見つめている。

「か……考えて……おきます……」

 絞り出すようにそう言うと、ミスラは愉しそうに笑った。

「あはは。変な顔」
「は……はは……」

 愉しそうに笑うミスラとは対称的に、私の口からは乾いた笑いだけが漏れた。

「いいですね。あなたが、オズでも他の魔法使いでもなく、俺のことで頭がいっぱいなのは気分がいいです」

 独占欲とも取れるようなことをサラリと言いながら、ミスラは私の手ごとドアノブを回した。

「じゃあ、行きましょうか」


 そう言ったミスラの顔は、いつもの見慣れたものだった。

 この気まぐれな獣に思いっきり振り回されている自分を自覚しながら、私はミスラの後に続いた。


 夜には自分が食べられてしまうかもしれないことを覚悟しながら――
prev next

Back  Novel  Top