- ナノ -


(4話)


 シャイロックにエスコートしてもらいながら、魔法舎の中にあるバーへと向かう。


 趣のあるバーカウンターに、ビリヤード台。見るからに『大人の遊び場』といった雰囲気が漂っている。同じ魔法舎の中にあるのに、普段あまり立ち寄らなかったのは、なんだか自分には大人すぎる気がして気後れしてしまって、足が向かなかったからだ。今だって少しだけ居心地が悪い。

「ようやく来てくださいましたね」
「え?」
「貴女は、なかなかここへ足を運んでくださらないので」

 ふふふ、と笑いながら、シャイロックが言う。

「あ……ごめんなさい……。私、こういうお洒落なお店って元の世界でもあまり行ったことがなくて……なんとなく自分が場違いな気がして気後れしてしまって……」
「そんなことありませんよ。もっと気軽に利用してくださって構いません。世の中の喧騒から逃れて、束の間の癒しが必要になった時など、いつでもいらしてください」
「ありがとうございます。じゃあ今度からそうさせてもらいますね」
「いつでもお待ちしていますよ」


 席に着くと、やはりソワソワしたような気持ちに包まれ、なんだか落ち着かなかった。お洒落な場所に気後れするような気持ちは先ほどの会話で薄らいだが、それでも慣れない大人の雰囲気に呑まれてしまいそうでドキドキしている。

「さてと、賢者様はいつものようにノンアルコールのほうがよろしいですか?」
「……いえ。私も今日はお酒にします」
「お、珍しいな。賢者さんが飲んでるとこなんて見たことないのに」
「元々、お酒は強くはないけど普通に飲めるんですよ。飲んでいい年齢だし。それに……なんとなく、今日は『飲みたい気分』ってやつでして」
「おいおい……大丈夫か?」

 私の言葉に、ネロは心配そうに眉を顰めた。

「たまにはそういう気分の時もあるんですよ。それに、ネロと一緒にお酒を呑むのは初めてでしょう?」
「まぁ……それもそうか」
「かしこまりました。では、少し弱めのカクテルをお作りしますね」
「はい。シャイロックにおまかせします」


 シャイロックの作ってくれたカクテルは、鮮やかなブルーとグリーンの中間くらいの、とても綺麗な色をしていた。写真でよく見るような海外のリゾート地の海の色のようだった。以前彼が話してくれた故郷の海をイメージしているのかもしれない。そんな色鮮やかな見た目にも関わらず、一口含むと口の中にオレンジのような柑橘系のフルーティな味わいが広がった。この世界のものは相変わらず見た目とのギャップがあるな。そんなことを思いながらグラスを見つめていると、シャイロックが小さく笑った。

「いかがですか? お口に合うと良いのですが」
「美味しいです。すごく飲みやすいです。アルコール、入ってますよね?」

 全然アルコールのツンとした香りがしなくて、彼がいつも出してくれるノンアルコールのドリンクを飲んでいるような気にもなってしまう。

「はい。なのであまり飲みすぎないようにお気をつけくださいね」
「はい」




 二杯目を飲み始めたくらいで、段々と頭の奥にモヤがかかったような感覚を覚えた。なんか思ったよりアルコールが回ってる気がする。なんだか頭の中がフワフワして、それがものすごく心地良い。

「ふふ、なんかいいですね……こういうゆったりした時間。こんなバーが私の元居た世界にあったら、毎週末通っちゃうのになぁ。あと、ネロのお店も。ネロのお店はランチで毎日通っちゃうかも」
「そりゃどうも。……なぁ、賢者さん。結構酔っ払ってないか?」
「そんなことないですよ。ちょっとフワフワしてるけど、頭の中はクリアですし。ここが何処かも、誰と居るかも分かります。……あなたはネロですね?」
「いやそうだけどさ……大丈夫かな……」

 ネロはそう言うと、小さく笑いながらお酒を一口飲んだ。

「これ以上は危険だと判断したらこちらで止めますので、大丈夫ですよ。たまには賢者様も羽目を外されてもよろしいかと」
「ふふ、じゃあシャイロックに全ておまかせしちゃいますね」
「はい。どうぞ安心してお楽しみください」
「西の魔法使いに全てを委ねるなんざ、賢者さんは命知らずだな……」
「ええ、本当に。そこがこの方の可愛らしいところですよね」



 しばらくすると、バーに新たな客がやってきた。

「あれ、先客が居たか」

 声のする方を見ると、南の魔法使いのフィガロが立っていた。

「あ、フィガロだ。こんにちは」
「やあ、賢者様。なんだか珍しい組み合わせだね」
「そうですか? ネロと私はこう見えて仲良しなんですよ。もちろん、シャイロックとも仲良しです」

 ねー? と二人へ問いかけると、ネロは困ったように笑いながら頬を掻き、シャイロックはいつもと同じように優雅な笑みを浮かべた。

「あれ。仲良しは二人だけ? 俺とも仲良くしてほしいな」
「もちろん。お隣どうぞ」

 そう言いながら隣の椅子をポンポンと叩く。言われるままに席に着くと、フィガロは常連なのか慣れた様子で酒を注文していた。

「フィガロは今日は何してたんですか?」
「俺? 俺はいつもどおりだよ。午前中はルチルやミチルに魔法を教えて、そのあとスノウ様とホワイト様に捕まって小言を言われて、今ようやく逃げてきたところ。やれやれだよ」

 そう言って、フィガロは戯けたように肩をすくめた。

「今日はミチルがリケたちと出かけてるから、ゆっくり飲めるまたとないチャンスなんだよね。だから一番酒が美味しく飲めそうな場所に来たんだ。せっかくだから賢者様にも付き合ってもらおうかな」
「いいですね。じゃあシャイロック、おかわりくださいな」
「はい。かしこまりました」

 シャイロックは先ほどとは違う色のカクテルを出してくれた。綺麗なオレンジ色にほんの少し赤が混ざってキラキラしている。口に含むと、元の世界で食べた南国のフルーツのような味がした。見た目どおりの味に、なんとなくホッとする。


「賢者様はなんだかご機嫌そうだね」
「あはは、それが逆なんですよー。さっきまで自己嫌悪で死にそうでした」

 言った瞬間、周囲が微妙な空気に包まれたのが分かった。

「……なーんちゃって、うそうそ! ほんのちょっとだけ自分の嫌なところを見て、ほんのちょっとだけ嫌な気持ちになっただけですよ。明日には忘れちゃうくらいのやつです」

 だから大丈夫ですよ。そう言いながら誤魔化すように笑うと、フィガロはいつもの顔で笑いながら言った。

「まぁ、そういう日もあるよね」
「フィガロにもありますか? そういう日」
「そりゃこれだけ長く生きてればね。色々あるよ」
「そっか。フィガロはこの中では一番長生きさんですものね」
「そうなんだよ。本当は隠居したっていいくらいの歳なんだよ? だからもう少しゆっくりさせてほしいな」
「ふふふ、フィガロの豊富な知識にはいつも助けられていますよ。これからも南の魔法使いのことをよろしくお願いしますね」
「ははっ……賢者様は人使いが荒いな」

 ふと、フィガロが何かに気付いたように眉を上げた。

「あ、そういえば。賢者様、昨日の夜遅くに中庭に居なかった?」

 急に楽しい夢の中から現実に引き戻されたような気がした。

「……ああ……なんか目が覚めてしまって。風にでも当たろうかなって思って中庭に行ったんですよ」
「へえ。……ミスラも一緒に?」

 なんとなく、事の全容を話すのは気が引けて、当たり障りない部分だけに留めたのに、フィガロは逃してくれなかった。

「……ミスラも、眠れなかったみたいで。少し中庭で話して、一緒に北の湖を見にいきました。その……気分転換に」
「マジかよ、ミスラと? 賢者さんって時々大胆っつーか度胸あるよな。俺だったらミスラと二人で出掛けるなんつったらビビっちまうよ……」

 ネロは嫌なものを思い出した時のように身震いすると、肩をすくめた。

「ミスラは強いからね。俺も本気で向かってこられたら厄介だなって思うよ」
「おや、フィガロ様のような魔法使いでも、ミスラのことを恐れるのですね」
「こら、シャイロック。俺は気のいい南の魔法使いで通してるんだから、いきなり爆弾を落とすような真似はやめてくれないかな」
「それはそれは、失礼いたしました」

 シャイロックはいつもと同じ様子で微笑みながら、小さく肩をすくめた。そして私へ向かって申し訳なさそうな視線を投げた。きっと、この中で唯一事情を知っているため、話題の矛先を変えようとしてくれたのだろうと思った。彼の優しさに心の中でお礼を言うと、私は小さく息を吐き出した。

「……ミスラは、感情表現が素直なので、一緒にいるのはそれほど怖くないです。裏表が無い分、分かりやすいので。ミスラが何かに腹を立てている時はすぐに分かりますし、そういう時は触れてほしくないだろうから、距離を取るようにしています」
「それにしたってなぁ……俺には真似できねぇな……」
「前の賢者様もミスラのことは恐れていたようでしたからね。よく彼の顔色を窺っていましたよ」
「私は顔色を窺ったりはしていないつもりだけど……ミスラの嫌がることはしたくないので、その辺りは少し気を使っています。……まぁでもそれが顔色窺うことになるのかもしれないですけど」

 でも、腫れ物に触るような扱いはしていないつもりだ。それでも拒絶はされていないようなので、少なくとも嫌われてはいないのだろうと思っている。

「じゃあ賢者様はミスラとも『仲良し』ってわけだ」

 フィガロの追撃に、思わず小さく笑った。きっと、彼の興味を惹いてしまったんだろう。簡単には逃さないぞ、というある種の圧を感じる。
 私の心の内側全てを知っているというような含みのある顔で笑うフィガロに観念して、私は心の中で白旗を上げた。

「そうですよ。……ミスラのことは、なんとなく心配で、目が離せないんです。……放っておくと、いつのまにか一人になってしまいそうで」

 一人でいることに慣れているように見えるのに、魔法舎に居着いてくれている。興味なさそうにしながら、私を連れ出し色んなものを見せてくれる。そんな不器用で素直なあの人のことを、放っておけるわけがなかった。

「あー……たしかに、ミスラくらい強かったら、逆に誰かと一緒に居んのは難しいのかもな。俺たち魔法使いの中でもミスラとやり合えるのは限られてるし。魔法舎の中で付き合ってくってのはできても、生涯一緒に居ろっつったら身がもたねぇかも……」
「今までも、ミスラは一人で居ることが多かったようですからね」
「はい。……だから心配なんです。……私は、いつか元の世界に返されてしまうだろうし、もしも奇跡的に帰らないでこの世界に居られても、確実にみんなより先に死んでしまうので。……人間は、すぐに死んでしまいますから」

 数時間前に言われた言葉を復唱するようにそう言うと、口から乾いた笑いが漏れた。人間の命は儚い。たった100年程度で、彼らを置いていってしまうことになる。
 べつに常に一緒に居なくてもいい。ただ、一人に飽きた時にふらりと帰って来れる場所を作ってあげたかった。そのくらいなら、自分にもできるんじゃないかと思いたかったのだ。だが、それには100年では短すぎる。

「せめて、寿命をもう少しだけ延ばす魔法があればいいのになぁ……」
「寿命か……例えばどのくらい?」
「……1000年くらいかなぁ……」

 ポツリと呟くと、フィガロが小さく笑ったのが分かった。

「1000年か。それはまたずいぶんと長いね。目的も無しに1000年はちょっと長いんじゃない?」
「……1000年変わらない愛情をあげたいんです。……前にミスラに言われたんですよね。好意を示すなら、1000年変わらない愛情をくださいって。ふふ、可愛いですよね。……何でそんな話になったんだったかな……」

 頬杖をつきながら、記憶の糸をゆっくりと手繰り寄せるように目を閉じると、ミスラの部屋が浮かんだ。

「ああ、そうだ。……たしか、人に合わせた方がいいんじゃないかって言ったんですよね、私が」
「……ミスラにか?」
「はい。ミスラは周りに誤解されやすいから。本人はそんなつもりなくても、悪いように取られたりして。だから、そういう誤解をされたくないなって思って、そう言いました。……でも、周りは関係ないから、1000年生きたって自分は変わらないって、言われちゃいました。……言われて私、ミスラはそうだろうなって思って。ミスラらしいなって。……その時に言われたんです。1000年変わらない愛情をくださいって。そうしたら、その時考えるからって。私……何も言えませんでした」

 気の遠くなるような長い時間を、共に過ごすこともできない。賢者などと言われても、結局何もできないのに。自分はひどく無力だ。

「……私だって、生きていられるなら1000年だって2000年だって変わらない愛情をあげたいです。あの人が一人にならなくて済むように。……知ってます? 人間って、たった100年生きたらご長寿なんですよ? でも……そんなんじゃ全然足りないですよね」

 魔法使いにとっての100年なんて、あっという間に過ぎ去ってしまう。ただの通過点にしかなれない。

「……私も、魔法使いに生まれたかったな。そうしたら……みんなとずっと一緒に居られるのになぁ……」

 言いながら、視界が滲んだ。


 ああ、そうか。私は淋しかったんだ。みんなを置いていくんじゃない。私だけがここを去らなければならないことが。私だけが、みんなと一緒に居られないことが。


「もちろんみんなのことだって心配です。今も、私が居なくなった後も、みんなには居心地よく過ごしてほしいって、心の底から思ってます。でも、ミスラは……一番心配です。ミスラは強いから。一人でも生きていけちゃうから……だから心配なんです。私が居なくなった後、いつかまた、一人になっちゃうんじゃないかって……」

 だから、一人になりそうな危うい行動を取るたびに、胸が締め付けられそうになる。
 さっきの魔女のことだってそうだ。自分に向かってくる魔法使いを片っ端から石にしていたら、やがてミスラの周りには誰も居なくなってしまう。そうなってほしくなかった。

「大丈夫だよ。ルチルやミチルが、ミスラのことは放っておかないさ。ミスラだってあの二人からは簡単には離れないだろうし。……ミスラが一人になることはないよ」
「……そっか。そうですね……。それなら……安心かな……」


 色々考えてたら、なんだか段々と頭が重くなってきた。自分で思ったよりも飲みすぎてたのかもしれない。テーブルに突っ伏して顔を覆うとフィガロが困ったように笑った。

「ちょっと飲み過ぎたんじゃない?」
「そうかも。気持ち悪かったりはしないんですけど、頭が重くて……。目を閉じたらこのまま最高に気持ちよく寝れちゃいそう」
「じゃあ、部屋まで送っていこうか?」
「んー……でもミスラが帰ってくるから起きてないと……ミスラを……寝かせてあげなきゃ……」

 フィガロは困ったように笑うと、私の頭をポンポンと撫でた。その手が心地よくて、私は自然と降りてくる瞼に逆らうことなくゆっくりと目を閉じた。

「ねえ、フィガロ?」
「ん?」
「……私は、フィガロのことだって心配なんですよ?」
「俺? なんだ、俺の心配までしてくれるの? 賢者様は優しいな」
「そうやってすぐ茶化すけど、フィガロは一人になりたがるから……ミスラとは別の意味で心配です」
「そんなことないさ。俺は寂しがりだから南の国に居たんだよ? ルチルやみんなと一緒に」
「そうやって居てくれるならいいんですよ。でも……あなたはきっと、居なくなる時は黙って居なくなるでしょう? きっと、誰にも探させないように念入りに用意したりして。……だから心配なんです」

 フィガロは何も言わなかった。

「一人は寂しいです。一人にならないで……。誰にも、居なくなってほしくないんです……」
「……大丈夫だよ。君が居てくれる限り、誰も一人になんてならないさ」
「それなら……いいんですけど……」

 ついウトウトと目を閉じかけた瞬間、隣に居たフィガロが身じろいだ気配を感じた。つられて後方へと視線をやると、不機嫌そうな顔をしたミスラが立っていた。

「ミスラ……?」
「ここに居たんですか。探したじゃないですか。こっちはあなたが居ないと寝られないんですから、ウロチョロしないでくださいよ」
「ミスラ! ……うわっ!」

 慌てて駆け寄ると、酔ったせいか足がもつれてミスラに飛び込むような形になってしまった。ミスラは受け止めたりすることもなく、少し驚いたような顔をして私を見下ろしていた。

「ミスラ、大丈夫ですか? 怪我はないですか!?」
「怪我って……俺がですか?」
「そうです! どこもなんともないですか!?」
「あるわけないじゃないですか。俺を誰だと思ってるんです? ……って、顔が真っ赤ですね。あなた酒飲んだんですか?」
「え……っと……ほんの……ちょっとだけ……?」

 打ちつけた鼻をさすりながらそう言うと、ミスラは面倒くさそうにため息をついた。なんだか機嫌が悪そうだ。

「あの、ミスラ……本当に大丈夫……」
「大丈夫なわけないじゃないですか。俺は一刻も早く寝たいんですよ」

 機嫌の悪いのを隠そうともせずにそう言うと、ミスラは私を軽々と持ち上げ、肩に担ぎ上げた。

「わっ!」


《アルシム》


 ミスラの声と共に現れた四角い扉の向こうには、見覚えのある部屋が見えた。ミスラの部屋だ。

「え、ちょっと待ってミスラ――」
「じゃあ、失礼します」

 ミスラは後ろを振り返ってそう言うと、私を抱えたまま扉へと足を踏み入れた。

「ミ、ミスラ待って! 私もみんなに挨拶――」

 言いながら振り返ると、もうすでに空間の扉は閉じており、そこにはミスラの部屋のドアがあるだけだった。

「……したかったのに……」

 ミスラの肩の上でそう呟くと、ミスラは心底どうでもよさそうな声で言った。

「いいじゃないですか。二度と会えないわけじゃないんだし、次会った時に言えば」
「そういう問題じゃないんですよ……もう……」

 みんな、ごめんなさい。特にシャイロックには相談にまでのってもらったのに……。明日会ったら謝ろう。
 心の中で謝っていると、ミスラは私を床の上に降ろしてくれた。

 そして、ミスラは乱暴に靴を脱ぎ捨て、ベッドへと腰掛けた。そして私の腕をグイッと引き寄せ後ろから羽交い締めにすると、そのまま私ごとベッドへ寝転がった。

「わっ!」

 後ろから抱きすくめられ、身動きは取れそうにない。私の履いていた靴も、ミスラは器用に足を使って脱がせてしまった。
 いつものようにミスラが寝付くまでの間、手を握るだけのつもりだったのに、これは一体どういうことだろう。アルコールのせいで回らない頭を必死に動かすが、結局何が起こっているのか分からなかった。

 少しして、ミスラのひんやりとした手が私の手の上に重なる。

「ほら、手を握ってくださいよ。寝られないでしょう」
「は、はい」

 握られた手の上に反対の手を重ね、ミスラの手を包むように握ると、私の耳元でミスラが小さくため息をついたのが分かった。

「……何を見ていたんですか?」
「えっと……ここから見えるのは、壁と……天井……?」
「そうじゃなくて。……ほら、昼間街で熱心に何か見ていたでしょう? はぐれる前です。何ですか?」
「ああ。えっと……綺麗なイヤリングがあったので。赤い石の」
「欲しかったんですか? 女はそういうのが好きですよね」
「そういうわけじゃないけど……。……なんとなく、ミスラの髪の色みたいだなって……思って。買おうかなって思ってたら、別の場所にいました。……アレ、もう売れちゃったかな……綺麗だったのに……」
「……さあ。どうでしょうね」

 ぞんざいにそう言うと、ミスラはわたしの髪に顔を埋めた。

「欲しいなら、奪ってきましょうか?」
「だめですよ。お金をお支払いして、ちゃんと買うんです」
「なんでですか? 欲しいのなら奪えばいいのに」
「ダメです。品物を受け取るときには、ちゃんとそれに対する対価をお支払いするんです。それが人間のルールです」
「ふーん。人間は面倒なことをするんですね。理解できません」

 そう言うと、ミスラはつまらなさそうにため息をついた。

「欲しいものを力尽くで奪っていたら、略奪者になってしまいます。……私は、ミスラが周りの人からそう思われてしまうのが嫌なんです」
「周りは関係ないでしょう。俺は気にしません」
「私が気にするんです。……自分の好きな人や大切な人が他人から悪く思われるのは嫌でしょう?」
「さあ? 出来たことがないので分かりません」

 そう言い切ってしまうミスラが悲しかった。

 この人は、本当に今まで一人で生きてきたんだ。チレッタさんと出会うまで、誰にも頼らず、たった一人であの広い湖の畔で。

「賢者様? どうかしましたか?」
「……もし、私が誰か……見知らぬ人から悪く言われていたら、どうですか……?」
「どうって?」
「……ミスラは、それを聞いてどう思いますか?」

 きっとミスラは、『分からない』とか、『何とも思わない』と答えるだろうと思った。それでも、聞かずにはいられなかった。

 しばらく考えるように黙り込んだのち、ミスラはポツリと言った。

「殺します」

 いきなり飛び出した物騒な単語に、心臓がドキッと跳ねた。

「……殺す……? 誰を……ですか……?」

 私をじゃないですよね……? と心の中で呟きながら問いかける。

「その悪く言った者を」
「……殺しちゃうんですか?」
「はい。なんとなく、腹が立ったので」
「……そうですか」

 ほんの気まぐれかもしれない。もしかしたら、私が悪く言われることで間接的に賢者の魔法使いである自分のことまで悪く言われたことになるからなのかもしれない。
 それでも、私のことで腹を立てるミスラが、なんだか嬉しかった。

「なんです? ニヤニヤして」
「内緒です。とにかく、私と一緒に居る時だけでもいいので、それは守ってください。これだけは譲りませんからね? あ、あと、殺しちゃダメですよ」

 やや語気を強めてそう言うと、ミスラが耳元で小さく笑ったのが分かった。

「まったく……あなたくらいですよ。俺に色々と要求するのは」
「要求は……してませんけど……。でも、守ってくれたら嬉しいです」
「まぁ、努力はします。約束はしませんけど」
「分かっています。約束はしなくていいです」


 しばらくミスラの手をさすったり、トントンと軽く叩いたりしていたが、ミスラはモゾモゾと身動いでばかりでなかなか寝付けないようだった。

 ……やっぱりこの抱き枕体制がよくないんじゃないだろうか。私はクッションみたいに柔らかくないだろうし、ルチルからもらったという三日月型の抱き枕の方がよっぽど抱き心地は良さそうだ。
 だが、下手に動いてミスラの入眠を邪魔したくない。とりあえず、しばらくはじっとしていた方がいいだろうと思い、私はできるだけ気配を殺しながらそのまま横たわった。


「……また行きますか?」

 ポツリと、耳元でミスラが呟いた。

「行くって……あの街ですか?」
「はい。欲しかったんでしょう? 俺が連れて行ってやりますよ」
「本当ですか? 行きたいです!」
「うるさいな。今は寝てください。……今日は疲れました」

 ため息まじりにそう言うと、ミスラは両手にグッと力を入れて私を引き寄せた。

 自分が話しかけたくせに……。理不尽に怒られてしまった。

「あ! ねぇミスラ。次も箒で行きましょうね。今度こそ、上からの景色、ちゃんと見ますから」
「目が冴えてしまうので話しかけないでください」
「ごめんなさい……」

 しばらくすると、耳元に規則正しい寝息が聞こえてきた。そっと振り返ると、ミスラの長い睫毛が見えた。どうやら無事に眠りの中に入れたらしい。あどけない顔で眠るミスラは、いつもより幼く見えた。



 なんだか長い一日だった。一晩寝ないだけでこんなに一日が長いんだろうか。なら、何日も眠れていないミスラは、さぞかし退屈で辛いことだろう。彼ができるだけ心地よく寝られるように、手を尽くそうと思った。


 結局、ミスラがあの魔女を殺してしまったのかは分からないままだったが、それでもいい気がした。魔法使いたちの世界のルールに、人間の私が口を出すべきじゃない。私にできるのは、ミスラや他の魔法使いのみんなが石にされずに済むように、祈ることだけだ。それがどんなにもどかしくても。私にできるのはそれしかないのだから。


 おやすみなさい、ミスラ。


 心の中でそう呟くのと同時に、私の意識もまた、眠りの中へと落ちていった。
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