- ナノ -


(10話)



 目の前が真っ暗になる、とはよく言ったもので。あるときはブレーカーを落としたようにバスンと色が消え。またあるときは映画のフェードアウトのようにだんだんと周りから色が無くなってゆく。どちらにしても、目の前は真っ暗で、何も見えないことに変わりはない。


 今まさに、そう感じている。


 家に帰ると、ダイニングテーブルの上に片手では足りないほどの数の大学のパンフレットが並べられていた。もちろんどの大学も全て、管理栄養士養成課程のある大学で、レベルもまばらではあるが頑張れば手が届きそうな範囲のところが多いようだった。

 ただ一つ共通点があるとすれば、どの大学も東京近辺にあり、今の家から通える距離ではないということだ。

 目の前が徐々に暗くなるのを感じながらぼんやりとそれを眺めていると、遠くで扉が開く音がした。

「あら、帰ってたの? 早く着替えちゃいなさい」
「あ、ねえ!」
「何?」
「……これ、何……?」

 パンフレットを指さしながら問いかけると、母親は怪訝そうな顔で首を傾げた。

「見たら分かるでしょ? パンフレットを請求しておいたの。そろそろ志望校もある程度絞っておかなきゃ。あなた何もやらなそうだから」
「でも……なんで東京ばっかりなの? 私こっちの大学に――」
「あら、来年でお父さんの転勤終わるじゃない。東京に戻るのよ?」
「そんなの聞いてない! だって、私まだ……高校あと一年残ってるのに……途中でまた転校するの?」
「まぁあと一年なら、来年いっぱいはこっちにいなきゃいけないかもしれないけどね。でも大学は向こうの方がいいでしょ?」

 そう言いながら、母はため息をついた。

「……でも私は……こっちの大学に行きたい……」
「こっちって……馬鹿言わないでちょうだい。一人暮らしなんてダメよ。危ないし、お金だってかかるし」
「じゃあバイトするから!」
「学生のバイト代なんかで何とかなるわけないでしょ。勉強はどうするの。それに、あなたバイトなんかしたことないじゃない」

 そういう事は自分でお金稼いで自立してから言ってちょうだい。そう言って、母は部屋へと上がっていった。

 目の前がグラグラと揺れる。

 母の言ったことは至極当たり前のことで、従うしか無いのだと頭ではわかっている。でも無理だ。治君と離れるなんて、今の私には出来ない。

 治君が居なきゃ、生きていけない。



***



 家を飛び出し、気がついたら治君の家の近くの公園に居た。

 なんとなく、ずっとここに居られると思ってた。治君が言うように、この先もずっと一緒に居られるんだって。……でも、やっぱり無理なんだ。

 どうしよう、治君。どうしよう……。

 ふいに、ポケットの中で携帯が震えた。

 液晶画面には、治君の名前が表示されていた。

「……もしもし」
『あ、もしもし。今平気か?』
「……うん」
『英語の課題の……ん? 今どこにおるん? 外?』
「あー……うん。ちょっとお散歩」
『は? 散歩いう時間やないやろ。今どこにおるん? 危ないし迎え行くわ』
「へ、平気だよ。……もう、帰るとこだし……じゃあ……」
『おい電話切んな! 切る前にどこにおるんか言え!』
「…………いつもの公園」
『すぐ行くから絶対にそこにおれよ! ええな!?』



 電話を切って数分後、肩で息をした治君が怖い顔をして現れた。

「治君……あの……」

 私が何か言うよりも前に、治君は私に駆け寄り強く抱きしめた。

「何を考えとんのじゃお前は! なんでこんな時間に一人でこんなとこおるん!? なんで何も言わへんの!? なんかあったんなら一人でどっか行く前に俺に言えや!」

 耳元で治君の声を聞きながら、涙が溢れて止まらなかった。治君の大きな手がそっと私の背中に触れる。私が泣き止むまでずっと、治君は私の背中を撫でてくれた。


 治君から、ほんのりと石鹸の匂いがする。髪もいつもよりぺしゃんこで、きっと急いで駆けつけてくれたのだと思った。

「落ち着いたん?」

 ようやく泣き止んだ私の頭を撫でながら、治君は私の顔を覗き込んだ。

「おお! ナマエ化粧しとらんでよかったな。サキやったら今頃パンダみたいになってんで」
「ふふ……サキちゃんはそんなに厚化粧じゃないよ」

 思わず小さく吹き出しながら治君を見上げると、治君の目が優しく細められた。

「泣いた顔もべっぴんさんやな」
「そんなこと思ってくれるのは治君だけだと思う」
「しゃあないわ。ベタ惚れやし。……ほんで? そのべっぴんさんは何があったん?」

 様子を窺いながらそう言った治君から視線を逸らす。

「……来年、東京に戻るんだって……お父さんの転勤が終わるから……。大学は、東京にしろって……。……ねえ、どうしたらいい……? 私、治君と離れたくない……」

 再び視界が滲む。会いたくなっても片道三時間。遠すぎる。そんなに離れて、うまくいくわけがない。それに、治君にズブズブに甘やかされた私は、治君無しでは生きられない気がする。治君に会えないなんて寂しくて死んでしまう。

 何も言わずに黙り込んだ治君を不思議に思い見上げると、治君は眉間にシワを寄せ難しい顔をしていた。

「……治……くん?」

 何か言ってよ。治君は私と同じ気持ちだよね? 寂しいって、思ってくれるよね?
 縋るように見つめていると、治君が小さくため息をついた。

「来年か……来年のいつ? 三年やし途中で転校なんかせんよな? 受験もあるし……」
「多分……来年いっぱいは居られると思うけど……」
「ほんなら大学の間は遠距離か……」
「え……?」

 なんでそんなに普通でいられるの? 治君は平気なの? 寂しいのは私だけ? そんな疑問が浮かんでは消える。

「就職はこっちに来るんよな? 就職も東京でせんよな?」
「え……と……就職はこっちを……考えてるけど……」
「ほんならほんまに大学の間だけやな」

 言い聞かせるようにそう言うと、治君は私の手を握ろうとした。伸びてきた手を反射的に避けると、治君は少しだけ固まってから、様子を窺うように私の顔を覗き込んだ。

「ナマエ……?」
「…………治君は……なんで平気なの……?」
「平気なわけないやろ。でも……」
「じゃあなんでそんなふうに言うの!? そんな……全然平気みたいに……っ! 治君は平気なんでしょ!? 私が居なくったって!!」

 静かな公園に、私のヒステリックな声が響き、消えてゆく。まるで駄々をこねる子供のようだと思った。ほら、治君だって困ってる。どうやって宥めたらいいか、わからなくて困ってる。そんな顔だ。

「ごめん……忘れて」
「……なぁ、ナマエ。ちゃんと話――」
「ごめんね、ちょっと頭冷やす。……はは……ダメだね、てんで子供で……」
「ダメやないって。なぁ聞いて。あんな? 俺は……」
「ごめん。今……治君と話したくない」

 自分の駄目さを、幼さを、目の前に突きつけられて、どうしていいかわからない。治君と離れなければいけない恐怖と、大人にならなければという理性が鬩ぎ合って、私の居場所だけがない。このままだと、今度こそ治君に嫌われる。
 立ち上がりその場を離れようとした瞬間、治君の大きな手がいち早く私の手首を掴んだ。

「ちょお待って。ちゃんと話……」
「やだ。聞かない」
「は? なあ! ちょっと待てって! 最後までちゃんと聞けや」
「平気。ちょっとパニックになっちゃっただけ。大学四年くらいすぐだよね。……だから、大丈夫。就職はこっち来るし、また一緒に居られるもんね」
「おま……っ! ええかげんにしろや!!! 話聞け言うとるやろ!! 相変わらず強情な女やな!!!」

 耳元で大声で怒鳴られ、キーン、と高い音が耳の奥から聞こえる。思わず目を丸くして治君を見上げると、悲しそうな目をした治君と目が合った。

「なんで何でもかんでも自分だけで解決しようとすんの? なんで俺の話を聞いてくれへんの!? 今絶対誤解があるやん! 俺とナマエの間に! 頼むから……話くらい聞けや……」

 掴まれた腕が痛い。でも、それよりももっと治君の方が痛そうな顔をしていた。



 再び治君の隣に座ると、治君は大きく息を吐き出した。

「…………俺な、ナマエとは、しわくちゃの爺さん婆さんになるまで一緒におりたいねん」

 聞こえてきた意外な言葉に、思わず目を丸くすると、治君が小さく笑った。

「長いよな。人生八十年やで。残り六十年とちょっとや。そんだけずっと、ナマエと一緒におりたい。……せやから、そのうちの四年なんか、あっという間やと思わん?」
「…………お嫁さん?」
「ハハ。せやね。ホンマはこんなガキの戯言やなくて、ちゃんと自分の力つけて一人前なってから言いたかってんけど……お前暴走しよるし。人の話聞かへんし。勝手に悪い方向に突っ走りよるし。ちゃんと言っとかんとろくなことにならへんからな」

 私が想像していたよりも、遥かに壮大なスパンで私たちの今後について考えてくれていたことを、今初めて知った。

「せやから、頑張ろうや。大学は出てた方が絶対にええと思う。後から行くんは難しいで。……行きたい言われても、俺は出してやれんやろうし。せっかく自分でやりたいこと見つかったんやから、使えるもん全部使たれや。絶対に給食の先生になって。……俺も頑張るから。会いに行くし、寂しいけど、そうやってお互い頑張ろうや」

 な? そう言って私の頭を一撫ですると、治君は私を抱き寄せた。治君から漂っていた石鹸の匂いが、そっと私を包みこんだ。

「……私が会いに来る。治君に」
「俺かて会いに行くわ」
「だめ。治君は忙しいでしょ? ……私が来るから、ちゃんと待っててくれる?」
「ほんま強情やな。……じゃあ会いに来て。ちゃんと待ってるわ」
「うん。待っててね」



***



 治君に送ってもらいながら家に着くと、ちょうど家から母が出てくるところだった。

「……お母さん?」

 慌てた様子で出てきた母に声をかけると、母は驚いたように目を見開いた。

「こんな時間にどこ行ってたの! 心配するじゃない!」

 すぐ後ろに居た治君を見て、母は不審そうに眉を寄せた。

「どなた?」
「あ……クラスメイトの宮治君。遅いからって送ってくれたの……。治君、えっと……お母さんです……」
「はじめまして。同じクラスの宮治いいます。ナマエさんとお付き合いさせてもろてます」

 ペコリと頭を下げながら言った治君に少しだけドキッとしながら母を見た。母は面食らったような顔をして、あら、そう。などと繰り返していた。

「ごめんね、治君。遅いのにありがとう」
「ほな、またな。ほな、俺はこれで失礼します」
「ああ、はい。ご丁寧にどうも……」

 深々と頭を下げる治君と同じように、母も頭を下げた。


 治君を見送ると、母が小さな声で呟いた。

「彼氏、居たのね……」
「えっと…………はい……」
「とりあえず、中入ろうか。少し話しましょう」

 そう言って、母は家へと入っていった。


『しわくちゃの爺さん婆さんになるまで一緒におりたい』

 私もだよ、治君。そう心の中で呟くと、不思議とさっきまで感じていた不安が消えていくような気がした。
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