- ナノ -


(11話)



 母は紅茶を二人分煎れると、テーブルについた。

「紅茶でよかった?」
「うん。ありがとう……」

 母の向かい側に座りながら、紅茶を一口飲んだ。

 ……気まずい。今まで一緒に生活してきて、こんなふうにテーブルに向かい合って座るのは初めてだ。母だって、何を話していいやらわからないという顔をしている。

 無理もない。私たちは血の繋がりも無い、形だけの家族なんだから。

「……かっこいい子ね。背が高くて。……スポーツとか、やってるのかしら?」
「……うん。……バレーボールをやってる」
「…………そう」

 ほら。会話がもう終わってしまった。

「…………こっちの大学に行きたいのは……彼がいるから……?」
「…………うん」
「そっか……彼氏か……ナマエちゃんもそんな歳になったんだねぇ」

 ふっと笑いながら、母が言った。

「あんなに小さかったのに、なんかあっという間ね。年を取るわけだわ。……昔……ナマエちゃんを引き取ることが決まる少し前にね、子供ができにくいってわかったの」
「……え?」
「当時は複雑でね。私も結婚したばかりでまだ若かったし……。私に子供ができないのに、なんで他の女が産んだ子供を育てないといけないの、なんて思ってた」

 初めて聞く話に、思わず息を呑んだ。……知らなかった。そんな事情があったなんて。そんな環境の中、母は一体どんな気持ちで私の世話をしてきたんだろう。

「そんな中引き取った子は、無愛想で、あまり喋らなくて。楽しいんだか楽しくないんだかよくわからない子だった。正直、どうしたらいいかわからなくてね。……ただ、あなたは自己主張が無いかわりにわがままを言うことも無かったから、子育てをしてきて困ったことは無かったけど……今思うと甘えてたのね、何も言わないでいてくれるあなたに」

 ふう、とため息をつきながらそう言った母の表情は、今まで見たことないものだった。
 私の知っている母は、近寄り難くて、冷たくて、こんなふうに話をしたこともなかった。そんな母が今、私の前で隠し事がバレた子供のような、居心地の悪そうな顔をしている。なんだか不思議だった。

「……思えば初めてかもしれないわね。あなたが自分で自分の意見を言ったの。……もっとちゃんと話を聞くべきだったわ」

 ごめんなさいね。母は小さな声でそう言った。

「……お父さんに話してみましょうか」
「……いいの?」
「ええ。なんて言うかはわからないけどね。でも話すだけ話してみましょう。あ、彼氏のことは伏せてね。あんなカッコいい彼氏がいるなんて知ったら、お父さんいじけちゃうわよ」

 そう言って、母はクスクスと笑って紅茶を一口飲んだ。

「本当はね、娘と恋バナとか、ちょっと夢だったんだよね。……今更かもしれないけど」

 ほんの少しだけ気まずそうに、母はそう言った。
 母は私に甘えていたと言ったけれど、自分も同じだと思った。関わるのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、ずっと父のことも母のことも避けていた。きっと私も、何も言わないでいてくれる父と母に甘えていたのだと思った。

「今からでも……遅くないんじゃないかな……」

 小さな声で呟くと、母は「……そうね」と言って笑った。



***



「ほんで? どやった? 親父さん」

 会うなり少し緊張した表情で、治君はそう言った。黙って首を振ると、治君はあからさまに落胆した顔をして項垂れてしまった。

「たった四年だから平気って言ってたのに」

 クスクスと笑いながら言うと、治君はムスッとした顔でため息をついた。

「それはそれ、やん。こっち住んで会えるんやったらその方がええし……」
「仕方ないよ。四年だけだから、我慢しよう」
「……なんでそんな平気そうなん……?」
「え?」
「ナマエは平気なんやろ。俺がおらんくても」
「んー? 平気ー」

 いじけた顔をしながら、はぁー、と大袈裟にため息をつく治君の頬っぺたをグリグリと突っつきながらそう言うと、治君はふっと吹き出した。

「逞しなったなぁ。ちょっと前まではピーピー泣いとったんに」
「人生長いからね。ほら、私、百歳まで生きるし」
「そら長生きおばあちゃんやな」
「治君も長生きしてくれなきゃ困るよ」
「せやなぁ。ほんなら一緒に長生き爺さん婆さんになろか」
「うん」


 あれから、父とも話をした。

 ずっと仕事が忙しかった父とは、必要最低限の話しかしたことが無かった。普段なら学校の成績を見せたり、その程度だ。そしてつい先日、大学に進学しようと思っていると相談したところだった。興味も無いのか、父は「そうか」と言ったきりだった。そんな父だから、案外こちらに残ることを許してくれるんじゃないかと思っていた。

 ……甘かった。母の助言のとおり付き合っている彼氏がいることは伏せ、就職もこっちでしようと思っていること、生活力を鍛えるためにも一人暮らしがしたいこと、などを織り交ぜて説得を試みたが、父の答えはノーだった。


「やっぱりアレなんかなぁ。一人暮らしがあかんねやろなぁ……。女の子やもんなぁ……。うちに下宿、なんてのはもっとあかんやろうし……」
「……それがね、一人暮らしはしてもいいんだって」
「は? ほんならなんでこっちの大学はあかんの」
「遠いからだって。物騒な事件が多いから、その……遠いと……心配なんだって。すぐに駆けつけられないからって……。一人暮らししていいっていうのも、同じマンションの別フロアの部屋なの。……それって一人暮らしって言うのかなって疑問なんだけど……」

 言いながら、なんだか恥ずかしくなってくる。てっきり父は私になんて興味ないんだと思っていたのに、蓋を開けたらこんなに……。

「ハハハ! 父ちゃんめっちゃ過保護やん」
「……私のことなんて興味無いんだと思ってたのに。なんか恥ずかしい……」
「一人娘やで。興味無いわけないやろ。……つーか別のフロアて何? なんやすごいな……」
「なんか、部屋をいくつか人に貸してて、同じマンションの部屋がもうすぐ空くから、そこに住みなさいって」
「え、何部屋もあんの」
「さあ……知らない……」
「……ナマエってむっちゃお嬢様なん……?」
「……さあ……?」
「さあってなんやねん。自分の家やぞ」
「だってそういう話したことないもん。わかんないよ。まぁでも、ほら……親のお金だし。大学まではお世話になるけど、その先はあんまり関係ないよ」
「ほんまかぁ……?」
「本当だもん……」

 まぁこの先路頭に迷うことがあったとしても、餓死しない程度の援助は受けられるだろうが、できれば就職後は親に頼らず自分の力だけで生きていきたいと思っている。

「……許してもらえるんかなぁ」
「なにが?」
「いや、こっちのこと」

 よくわからないことを言いながら、治君はいつもと同じように私の頭を撫でた。



***



 高校三年生の一年間は、あっという間に過ぎた。

 治君は高校まででバレーボールを辞めると言っていただけあって、より一層バレーに力を入れているようにも見えた。
 昨年春高二回戦で敗れた烏野高校とは、春高三回戦で再び相まみえ、接戦の末勝利を勝ち取った。

 春高が終わってしまえば卒業は目前で、治君は地元の専門学校へ。私は予定どおり東京の大学へと進学を決めた。


「……明日は卒業式か……なんやあっという間やったなぁ……」

 治君はしみじみと噛み締めるように言うと、小さくため息をついた。

「卒業式の後はバレー部の人たちと集まるんでしょう?」

 たしかそんなことを言っていたはずだ。卒業した先輩も何人か顔を出してくれるのだと言っていた。当然そちらに参加するものと思っていたのだが、治君はどこか不貞腐れたような顔をしてポツリと呟いた。

「……行かん」
「えっ……?」
「最後やし、ナマエと一緒におる」
「えー……でも私……サキちゃん達とカラオケ行く約束しちゃった……」
「はぁ!?」
「だっ、だって! 最後の日はバレー部の人たちと一緒にワイワイするのかなって……思って……」

 みるみるうちに治君の顔が不機嫌そのものになってゆく。そして、これまた大袈裟にため息をついた。

「……足らん」
「え?」
「愛情が足らん。四年も離れ離れやねんぞ? 最後くらい一緒に居たい思うてくれへんの?」
「いや、あの治君……?」
「だいたいナマエは――」
「治君ってば!」
「なんや!」
「引越し……月末なんだけど……」
「……は?」

 鳩が豆鉄砲を食ったような顔をして、治君は口を開けたまま固まった。

「……月末?」
「うん。お母さんの仕事の辞令が出てから引越しだから……その……月末移動……言わなかったっけ?」
「……聞いた気もするわ」
「……そういうわけなので、荷造りはしなきゃいけないけど、明日からしばらくのんびりできますよ……?」
「……そおか。ほんなら明日は部活の方顔出すわ」

 ほんの少し居心地悪そうに呟く治君が可愛くてこっそりと笑うと、治君は「バレとるで」と言って私の脇腹を突っついた。



***



 それからの二週間、私たちは時間の許す限り一緒に過ごした。治君の家で料理を作ったり、私の部屋で二人きりの時間を過ごしたり。だんだんと近づいてくる別れの時期を前に、治君も私も次第に口数が少なくなっていった。


 そして、とうとう引っ越し当日を迎えた。


 治君が駅まで見送りに来てくれると言うので、父や母とは時間をずらして違う新幹線で帰ることにした。付き合っていることを隠しているわけではないが、なんとなく気恥ずかしいのと、しばらくの間離れ離れになる彼との時間をゆっくり過ごしたかったからだ。


 待合ロビーの椅子に座りながら、彼の肩にもたれかかる。繋いだままの手がやけにギシギシする。手だけじゃなく身体中が強張っているのが自分でもわかった。

「……十分前やし、そろそろホーム上っとくか?」

 返事のかわりにぎゅっと彼の手を握る。

 嫌だ。やっぱり嫌だ。離れたくない。駄々をこねる子供のようにジッと動かずにいると、治君が小さくため息をついて立ち上がった。

「……ほな、上行こか。大丈夫やて。東京なんてすぐやん。……会いに来てくれるんやろ?」
「……うん」


 ホームへ上がると、同じ新幹線に乗るのであろう人たちが疎らだが集まってきていた。

「あ、忘れるとこやった。これ、お土産な。新幹線で食うて。あともう一個……」

 私に小さな包みを渡すと、治君がおもむろに鞄をガサガサと漁り始めた。

「どうかした?」
「もう一個渡すもんがあってん」
「渡すもの……?」
「ちょお待て……お、あった。あー、忘れてきたかと思て焦ったわ。ほれ、手ぇ出せ」

 言われるままに両手を上に向けて差し出す。

 治君は少し呆れた顔でそれを見つめてから、私の左手をそっと取った。その手をクルリとひっくり返すと、指にそっと何かを差し込んだ。見ると、シンプルな銀の輪っかが、薬指に収まっていた。

「……えっ!」
「これやるわ。安もんやけど。……まぁ虫除けやな。そのうちちゃんとしたの買うたるから、それまで待っとって」

 バカみたいに口をパクパクと開閉することしかできず、治君を見つめていると、みるみるうちに治君の顔が紅く染まっていった。

「……な、なんか言えや……」
「だ……だって……えー……サイズ、なんで分かったの?」
「……ナイショや」

 ポリポリと頬を掻きながらそっと目を逸らす。
 
 再び手元の指輪に視線を落とす。あーダメだ、泣きそう。泣かないって決めてたのに。

「あ、ナマエ。あかんで。泣くな。俺まで泣きたなるやろ」
「だって……こんなのズルい。っていうか! 指輪買うなら私だって治君の分買いたかったのに!」
「ハハハ! ほんなら次会うた時に俺の分買うて。この指輪で俺のお財布はすっからかんやし」
「わかった。……約束ね?」
「おん。……お、電車くるで」

 見ると、ちょうどホームに乗る予定の列車が入ってくるところだった。

「……ほな、またな」
「うん。元気でね。あんまり侑君と喧嘩しちゃダメだよ」
「……なんで最後の最後でツムやねん。もっと他に話題あるやろ……」

 いつもと同じ嫌そうな顔をして、はぁーっと大きなため息をつく治君を見て、思わず小さく笑う。

「ほら、乗り遅れんで」
「うん」

 発車ベルが鳴るのと同時に新幹線に乗り、振り返る。治君の顔が心なしか寂しそうに見えた。いつも私を家まで送ってくれる時に、別れ際に見せる顔だ。

「治君!」

 続きを待つように、治君が眉間に少しシワを寄せた。

 『またね』も『さよなら』も違う気がした。ほんの少しだけ、別々の場所で頑張るだけ。これは別れじゃない。

「……行ってきます!」
「……おう! はよ帰ってくるんやで!!」

 治君の言葉と同時に、プシューっという音を立てて扉が閉まる。ゆっくりと遠ざかっていく彼に手を振ると、治君も大きく手を振った。
 彼の姿がだんだんと小さくなってゆく。完全に治君の姿が見えなくなっても、私はその場を動かなかった。




 どれだけの時間そうしていたんだろう。気がつけば次の駅を知らせる車内のアナウンスが聞こえてきて、ハッと我に返る。

 しっかりしなきゃ。そう自分に言い聞かせながら、新幹線の切符を取り出した。記された番号の席に座って一息つくと、急に寂しさがこみ上げてきた。涙がこぼれそうになり目頭をそっと指で押さえた時、見慣れないものが視界に入った。

 さっき貰った指輪が左手の薬指で控えめながら光っている。

 まるで、一緒に居るから泣くなと言ってくれているようで、なんだか心強かった。


 私、頑張るよ。治君。


 心の中で呟いてから、治君が持たせてくれた包みを取り出した。そっと開くと、あの日と同じようにおにぎりが二つ入っていた。

「作ってくれたんだ……」

 片方を取り出して一口かじると、口の中に梅の味が広がった。

「ふふ……美味し……」

 やっぱり治君のおにぎりを食べると元気になる。きっとこれから、たくさんの人が治君のおにぎりを食べてこうして元気になるんだと思うと、なんだかたまらなかった。



 治君に出会って、色んなことを知った。

 美味しいものを食べると元気が出ること。何か一つ楽しみなことができるだけで、いつもと同じはずの世界が輝いて見えること。一人で食べるご飯より、好きな人と一緒に食べるご飯の方が、より一層美味しく感じること。

 そして、誰かに愛されると、自分のことも好きになれること。自信が持てること。

 治君と出会う前の私は、一人で立つことすらままならなかった。倒れるのが嫌で、隅の方でうずくまっていた。
 でも今は違う。治君がくれたおにぎりを食べながら、私は一人東京へと向かう。もちろん寂しさはあるけれど、負けてなんかいられない。早く一人前になって彼の元へと帰って、お爺ちゃんお婆ちゃんになるまで一緒に歳を重ねていく。こんな楽しみなことが他にあるだろうか。

 そんなことを考えていたら、さっきまでの泣きたい気持ちはどこかへ行ってしまった。


 さて、東京に着いたらスーパーにでも寄ろうかな。調理器具は治君と一緒に選んだものが届いているはずだから、食材を買って帰ろう。治君が教えてくれたお料理を私一人でも作れるようになって、次会うときにビックリさせるんだ。

 そんなことを考えながら、手元のおにぎりをもう一口かじる。


 治君のくれたおにぎりは、あの日と同じ味がした。


(end)
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