- ナノ -


(4話)



 無理やり胃にゼリーを流し込んで、トイレを出るが、教室に戻りたくなかった。
 普段排泄をするところで食事を摂るという行為が、生理的に受け付けない。なんだか胃がムカムカする。それに罪悪感がハンパない。別に悪いことをしたわけでもないのに、どうしてだろう。

 ……宮君に会いたくない。

 とりあえずブラブラと校内をうろついていると、旧校舎へ続く渡り廊下が目に入った。その先に、薄暗い階段が見える。人気も無く、一人になるにはちょうど良さそうだ。


 階段を登ると、屋上へ続く踊り場には案の定人っ子一人居なかった。午後の授業はここでサボってしまおう。たまにはこういうのもいいだろう。

 冷たい地面に腰をおろし、息を吐き出す。少し埃っぽいのが、自分にはちょうどいいように思えた。


 ……逃げてしまった。宮君から。

 宮君は優しい。なんで私なんかに構ってくれるのか、理由はわからないけど。でもきっと、あんな話をしたからだろうと思う。そして、同じ境遇の別の子がいても、宮君はその子に優しくするんだろうと思う。

 そんなふうに考える卑屈な自分にも嫌気が差す。可愛くない。だからきっと、誰も私を愛してくれないんだ。お母さんも。お父さんも。


 ふと、誰かが階段を上がってくる音がした。

「おん? なんやサムの女やんか」

 そこには、宮君は宮君でも、違う方の宮君が立っていた。せっかく一人になれそうな場所を見つけたのに。

「……なんで居るの」

 小さな声でそう言うと、侑君が顔を少し顰めたのがわかった。口調が刺々しいのが自分でもわかる。
 侑君のことは別に嫌いでも苦手でもない。先日宮君の家でゲームをした時も楽しかった。でも、今は誰にも会いたくない。心がささくれ立っている。……放っておいてほしい。

「ああん? 生意気な女やな。なぁ、こんなとこで何しとるん?」
「……一人になりたくて」

 ツンと顔を背けながらそう言うと、目の前の男はケラケラと笑った。

「なんやサムと喧嘩でもしたんか」
「そんなんじゃ……それに、宮君とは別にそういうのじゃないし」
「家まで来といて何言うとんの。全然面白んないで」
「……別に面白くなくて結構です。本当のことだもん。……宮君が優しいのは、私にだけじゃないでしょ」

 ため息混じりにそう呟くと、侑君が一瞬固まったのがわかった。

「……は?」

 私を睨みつけるように見据える侑君を見て、背筋がゾッと凍りついた。

「……それ本気で言うとんのか?」

 地を這うような低い声に、喉の奥でヒュッと音が鳴った。

「その程度なら、サムにちょっかい出すんやめろや」
「べ、別にちょっかいなんか……!」
「十分出しとるやろ。あーあ。サムが珍しく飯以外のもんに執着しとる思たら。お前みたいなつまらん女に入れ込むやなんて、サムは阿呆やな」
「なっ! なんなの!? なんであなたにそこまで言われなきゃいけないの!?」
「バレーの邪魔やからや」

 再び、侑君の鋭い眼光が私を真っ直ぐに射抜く。

「中途半端なもんはいらん。邪魔なだけや。俺らの邪魔すんなら、女かて容赦せんからな」

 そう言い捨てて、侑君は去っていった。


 突然の嵐にあったように呆然と座ったまま、侑君の去っていった方を見つめる。
 心臓がバクバクする。以前宮君に手を握られたときとは違う。恐怖で足元から凍り付いてしまいそうなくらい、ゾッと背筋が凍った。


「……邪魔、か…………」

 思えば、いつだって私は誰かの邪魔者だった。母と暮らしてた頃は母の。今だって、義理の母親に歓迎されてないことくらい、さすがにわかる。父は仕事で全然会えないし、きっと私に興味も無いのだろう。

 
 母親が死んだ時、何も考えなかった。……考えたら、死にそうになるから。母の人生は一体なんだったのか。母は私と一緒にいて、幸せだったのか。私がいない方が、母は幸せだったんじゃないのか。事故だったけれど、本当は自殺で、その原因は私だったんじゃないか。そんなことを考えていたら、息ができなくなった。

 今まで普通に生きてこられたのは、母とそれほど仲が良くなかったからだろうと思う。思い出すのは、いつも面倒くさそうな顔で私を見下ろす姿だ。休みの日にどこかに出かけたことなんて無かった。楽しい思い出も、特に無かった。そう、母のことは好きじゃなかった。だから別に平気だった。

 深く関わらなければ傷つくこともないのだと、母が死んだときに学んだ。


 もし、これ以上宮君に深入りすれば、きっとこの先痛い目を見る。宮君がたとえ今この瞬間、私のことをほんの少し好きでいてくれたとしても、ずっとなんか続くわけがない。宮君みたいな『特別な人』が、私のことなんか愛してくれるわけがない。

 今のうちに宮君から離れないと、私は生きていけなくなる。


「お、ほんまにおった」

 階段を上がってくる足音と共に、ひょっこりと先ほどまで見ていた顔が現れ、思わず顔が引きつった。

「まだ何か用なの?」

 そう問いかけると、彼はキョトンとしたような顔で私を見た。その反応を見て、あることに気づいた。

「あ……ごめんなさい。間違えちゃった。宮君だったんだ。……はは」

 同じ顔ということと、さっきまで一緒に居たことで咄嗟に侑君だと思ったが、よく見ると治君の方だった。

「ツムとおったん?」
「私の方が先に居たんだもの。……あの人が後から勝手に来ただけ」

 宮君は困ったような顔で笑った。

「なんや怒っとるな。ツムがなんかまたいらんこと言うたんやろ」
「……別に。……あの、何か用?」
「便所行ったっきり戻って来んから心配やんか。飯は? ちゃんと食うたんか?」

 問いかけに小さく頷く。

「なら良かった。……で? 何があったん?」

 私の隣に座り、宮君が私の顔を覗き込みながら言った。

「……え?」
「なんかあったやろ。ツムのことやなくて。もっと他に」

 まるで全てを見透かすような視線に、思わず顔を背けた。

「……どうしてそう思うの?」
「今日朝から変やったもん。せやから何かあってんやろなって思っとった」
「そう……」
「ほれ、白状せぇ。何があったん?」

 話すのは若干気が引けるが、きっと宮君は話すまで納得しないのだろう。そんな顔をしている。先日身の上話をした時と同じだ。

「…………本当は、今日……おにぎりを作ってこようと思ったの」

 チラリと宮君を見ながらそう言うと、宮君は少し驚いたような顔をしてから、何も言わずに続きを待った。

「間に合うように早起きもした。ラップも用意して、エプロンもつけて、作ろうと思ってたの。そうしたら……母親が降りてきて……止められちゃった」
「……止められた? なんでや」



『なんなの一体……こんな朝早くにやめてよね』
『あの……お昼ご飯に、おにぎりを作りたくて……』
『あー、やめてやめて。今更料理しない私への当て付けってわけ? お金なら渡してるでしょ? ハイ、足りないならそう言いなさい』

 そう言って、母親は台の上に千円札を一枚置いた。

『そ、そういうつもりじゃ……』
『そこ、片付けといてよ』

 私の話などまるで耳に入らないといったように、鬱陶しげにため息をつきながら、母親は仕事に出かけていった。



「……そのまま無視して作ってもよかったんだろうけど……なんか気が削がれちゃって。……ごめんね、せっかく宮君に教えてもらったのにね」
「なんで謝んねん。……なんも悪くないやろ」

 私の手をギュッと握りながら、宮君が言った。

「朝ね、コンビニに行ったの。ご飯……買わなきゃいけないから。……でもね、食べたいものが無くて。何を買えばいいのかもわからなくて……」
「で、結局何買うたん」
「…………飲むゼリー」
「はぁ?」

 隣から不機嫌そうな声が聞こえた。宮君は大きな大きなため息をついて、「これだから目が離せん」と呟いた。

「あ、わかった。それで教室出てったんやな」
「なんとなく宮君に見られたくなくて……」
「そんなん気にせんでええのに」
「……どこで食べたかは聞かないで。……お願い」
「……わかった。聞かんどく」

 そう言って、宮君は再びため息を一つついた。

「なんや大変やなぁ……」
「仕方ないよ。ほら、私の家じゃないし。でもね、将来家を出たら、何でも自分の好きにできるでしょう? それまでの辛抱だよ。こうして学校に行かせてもらえるだけでも、十分ありがたいしね」
「ほんならまたうちで作ろうや。時々でもええやん。オカンも大歓迎や言うとったし」
「あー……ううん、やめとく」

 宮君を見ないようにして言った。

「だって、おかしいでしょ? そんな頻繁にお邪魔するわけにいかないよ」
「なんでや」
「……っていうか、もうやめない? 私に構ったって、宮君には何もメリット無いでしょ?」
「は? なんや、急にどないし――」
「ほっといてくれないかな。どうしてそんなに私に構うの? 言ったでしょ? 宮君、目立つって。宮君みたいな目立つ人に気まぐれに構われると、それだけですごく目立つの。現に何人かから宮君とのこと聞かれてるし。そういうのって……私みたいな一般人には迷惑なんだよね。私が可哀想な身の上話したから同情してくれてるのかもしれないけど、そういうのいらないから。だから……ほっといてよ」

 宮君の方を見ないようにして一息にそう言うと、一呼吸おいて宮君の低い声がした。

「……はぁ? 何やそれ。迷惑? 同情? 本気で言うてんの?」
「ほ、本気だよ。当たり前でしょ……」

 しばらくの間黙っていた宮君が、ふう、と大きく息を吐き出した。

「ああそうか。なんや迷惑かけてすまんかったなぁ。ほんならこれでしまいや。……もう二度とお前なんかに話しかけたりせんから安心せぇや」

 宮君はそう言い捨てて、階段を降りていった。

 声だけで、どれほど怒っているかがわかる。泣き出してしまいそうになるのを、必死に歯を食いしばって耐えた。せめて宮君が居なくなるまで。そう思って息を止めて、足音が聞こえなくなるまで待った。

 ようやく足音がしなくなる頃には、もう堪えきれなくなっていた。

「……ふっ、……ううー……」

 嗚咽と共にボロボロと涙が溢れて止まらない。

 本当は嬉しかった。おにぎりも、何もかも。でもこれ以上一緒にいたら、絶対に私はダメになってしまう。もう今だって、宮君と一緒にいたいと思ってる。何をしていても、いつも宮君を目で追ってしまう。それくらい宮君のことが大好きなのに。これ以上――

「アホかー!!! 泣くくらいなら最初から言うなや! ほんのちょびっと傷ついたやろ!!!」

 いきなりの大声に慌てて顔を上げると、そこには肩で息をした怖い顔の宮君が立っていた。

「なっ! なんで!?」
「なんでやあるか! バッレバレの嘘ぶっこきよってからに。女やなかったらぶん殴っとるとこやぞ!」

 こめかみに青筋を立てながらそう言うと、宮君は私の隣にドカッと座った。

「ほんっまに世話の焼ける女やな」
「だって……」
「だって、なんやねん」

 ムスッとした顔で宮君が言った。

「だって! 宮君が優しくするからじゃない!!」
「はぁ? 優しくして何が悪いんや。俺は人に優しく生きるって決めてんねん!」
「そんなふうに優しくされたら、かっ、勘違いするでしょ!?」
「はぁ!?」

 心底ワケがわからないといった様子で、宮君は眉間にシワを寄せた。

「勘違いてなんや」
「か、勘違いは……勘違いよ」

 ますますわからないというように、宮君の眉間のシワがより一層深くなった。

「……み、宮君が何考えてんのか、全然わかんない。宮君は…………私のこと、好きなの……?」

 恐る恐る問いかけると、宮君はポカンと口を開けてこちらを見た。ものすごく嫌な予感がする。

「……ああ……そうやな……」
「えっ、ちょっとよくわかんない。どっち?」

 宮君の沈黙が怖い。……私は早まってしまったのではないだろうか。この反応を見ると、本当になんとも思われてなくて、私を構ってたのは、ただの可哀想な捨て猫を可愛がる程度のものだったのかもしれない。そんな気がしてくる。

「……そうか。好きかもな。気づかんかったわ……」

 まるで眼から鱗という感じで、ポカンとした顔で呟いてから、宮君はハハハ、と笑った。

「嘘でしょ……」

 ダメだ。早まった。恥ずかしすぎる。恥ずかしさだけで死ねるレベル。羞恥のあまり思わず手で顔を覆い、膝を抱えた。

「何しとんの」
「ちょっと恥ずかしさと戦っています。お気になさらずに」
「時々妙なこと言うなぁ」

 再びハハハ、と声を上げて笑うと、宮君はポツリと言った。

「……俺な、飯食うとる時が一番幸せやねん」
「……うん」
「それやのに、いっつも仏頂面で飯ともいえんようなもん食うとる女がおってん。最初は、なんでいつもあんな顔しとるんやろー? って思っとったんやけど、段々美味いもん食わしたらどないなるんやろー? って興味が湧いてな。……その子におにぎり食わせたったら、言うてん。『美味しい』て」
「…………本当に美味しかったからじゃない?」
「フッフ。せやろな。……そん時の笑った顔が忘れられへん。今思えば、あん時から好きやったんかなぁ……」

 宮君はそう言って、目を伏せた。そして私の手を握りしめて言った。

「聞いとるか? 自分のことやで」
「……はい」
「……好きや」
「…………はい」
「ほんなら俺と付き合うてくれる?」
「……でも……」
「でも、何?」
「……バレーの邪魔したくない」
「邪魔? なんやそれ。やっぱツムに何か言われたんやろ」

 ふるふると首を振ると、宮君は納得したように頷いた。

「たしかに邪魔かもしれんなぁ」

 ほら、やっぱり。そう思いながらため息を一つつく。

「もし、付き合うてくれへんのやったら、アイツ俺のこと好きなはずやのに、なんで付き合うてくれへんのやろってずっと考えて、バレーが手に付かんようになるかもな」
「えっ? だ、ダメだよ! そんなの……」
「せやから、バレーの邪魔したないなら、大人しく俺と付き合えや。それで解決やろ」

 な? 簡単やん。そう言って、宮君が笑う。

「……つまんない女だよ?」
「お前くらいおもろい女おらんで」
「料理だってできないし」
「そんなんまた一緒にやったらええやん。そのうちなんでもできるようになるわ」

 そう言いながら、宮君は私のことを後ろからグイッと抱き上げ、スッポリと包み込むように抱えた。宮君の膝の上にちょこんと座るような姿勢に驚いて振り返ると、宮君の楽しそうに細められた目が見えた。

「逃さへん言うたやろ」

 まるで獲物を捕らえるかのような目つきに、全身がゾクッと震えた。

「も……もう逃げないよ……」

 逃げられるわけもない。ここまで甘やかされて、逃げ場なんかどこにも無いじゃないか。

「お? 覚悟決めたんか」
「……そうするしかないんでしょう?」
「賢明やな」

 そう言って、楽しそうに宮君は笑う。

「……あのね、宮君……」
「ん?」
「……私も、宮君が好きだよ」

 チラリと後ろの宮君を見上げながら言うと、宮君は嬉しそうな顔で「知っとるけど?」と言ってニンマリと笑った。
prev next

Back  Novel  Top