鉤素
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「将来は、何になりたいですか?」

 と、少年は首をかしげた。その顔を照らす街灯は白過ぎて、なんだかとても不健康に見える。
 年上の刑事に向かってする仕草や質問としては、かなり違和のあるものだった。足立もそう思ったらしい。不満げに鼻を鳴らすと、少年とは別の意味を持たせて、首を横に傾けた。
「ええ? やだなあ、何の話?」
 言葉こそ柔らかかったが、顔を顰めているため足立の瞳は左右で見える面積が違った。普段なかなか見られないような嫌な表情だったが、少年はその顔にさほど気後れすることなく、もう一度足立にこう聞く。
「将来の夢ですよ。やっぱり手品師ですか? きっと、似合うと思います」
 今度こそ少年の質問が自分にそぐわないものだと確信したのか、足立は呆れたように口を開いて手をひらひらと振る。まるで煙をかき回すようなその手の動きは、足立が苛ついた時の癖だった。彼が話題をはぐらかそうとしている前振りでもあると、少年は知っていた。足立は基本的に身振り手振りが大きい男だが、人を従わせようとした時、殊更それは大きくなるのだ。
「あっはは、僕もう27だよ? 今更将来の夢もないでしょ。そういうのは菜々子ちゃんに聞いてあげなよ。あ、そういえば菜々子ちゃんの将来の夢って」
「ずっと何もないんでしょう?」
 だから少年は、この後の足立がどう話題を変えようとも仕方ないほど、自分の言葉を無理やりぶつけた。動きも言葉も丸ごと無視して、ただ暴力的に足立をねじ伏せるのはなかなか楽しかった。
 足立は存外、暴力に弱い。振るわれるのも、振るう誘惑に対してもまるで耐性がないのだ。きっと彼の育ちや、元々持っている性質がそうさせるのだろう。
 案の定反論もすぐには出てこないので、少年はゆっくりと笑ってから大きく息を吸い込むことが出来た。
「分かりますよ、分かってるんです。俺達の時間軸が有り得ないほど短いってこと、認められないわけじゃないんです。どうしたって、埋められない空白が膨大にあって、だから俺は、ほんの少しでもそれを埋めることが出来ないかって、考えてるんです。ずっと。妄想でも、空言でも構わないから、過去を教えて欲しい。未来を語って欲しい。そうでもしないと、俺達は千切れるにも短すぎる。ねえ、お願いです。お願いします」
 その息だけではとても足りなかった。少年の長すぎる、早すぎる話に足立は不審そうに眉をひそめる。まるで真意が汲み取れない、といった表情で、これからの出方を図りかねているようだった。
 少年はそんな僅かな足立の余白に忍び寄る。急に一歩二歩と足立との距離を詰めると、逃げを打つ前に足立の体を抱きすくめた。
「……は? な、おい!」
 これも、足立にとっては暴力にしかならないのかもしれなかった。いつものらりくらりと少年の言葉や気持ちを避けてきた足立も、その腕をすぐに振り払うことは出来なかった。突き放そうと少年の胸の辺りを押すが、咄嗟の抵抗よりももっと強く、少年は足立の体を抱きしめている。びくともしない。
 足立は言葉さえうまく紡げなかった。今までの会話の流れから、あまりに不自然で予測から外れたその行動に混乱し、始めに言うべき言葉や対応がまるで思いつかないのだ。
 やがて足立は、ここでどうすることが自分にとって一番得なのか、どうしても少年の動向を知るを必要がありそうだと考えをまとめ、出方を見ることにした。少年の胸についた手は離さないまでも、力を抜き、息を潜める。
 しかしその選択は、完全に不正解だった。少年は、もう言葉を話す必要などなかったからだ。

 足立よりも上のほうにある少年の頭から、不可解な音がした。くちゃり、という粘着質な音は、口を開いたから、という原因で鳴るには大きすぎる。かといって、少年の頭でないところから鳴るには、近すぎる。足立は今までそんな音がする人間の頭に出遭ったことがなかった。
 そしてそれは、急激に訪れた。
 始め足立が感じたのは、耳鳴りだった。ゴオッという、低い耳鳴り。それが耳鳴りでなく風の音と気付いたのは、急に地面が遠ざかる感覚を得た後だ。どこまでも、どこまでも自分の体が持ち上がっていく。さっきまで立っていた地面が、見下ろすまでもなくそこにはなくなってしまった、その浮遊感。小さな人形のように、体が自分の意思とはまるで関係なく動かされていくのは、酷く奇妙な気分だった。
 背中に回されていた腕の感覚は広がって、やがて足立は、少年の体温を背中一面で受けていた。それどころか、少年の手のひらと、胴体、心臓のごく近くに挟みこまれて、ただ呆気に取られる。その鼓動のなんと大きなことか。全身が丸ごと震える振動。彼の一拍一拍が、じっとりと緊張を煽る。
 100メートル。少年は今や、町中のどの建物よりも巨大で、雄大だった。
 その姿を恥じ入るようにドキドキと鳴る胸から、少年はそっと手を離す。落とさないように慎重に、食玩のような足立を確認するために手のひらに顔を寄せると、足立はやはり理解が間に合わないのか、近づいてくる顔をただ眺めていた。
「目を凝らしても、表情が分かり辛いですよ」
 風の唸るようなその声は、ほんの小声にも拘らず、足立の体をびりびりと振るわせる。その段になって、ようやく彼は「わああ!」と一声叫んだ。
「お、お前、なに!? やめろっ! 離せェ!」
 あまりに近く、あまりに大きなその瞳の少し下。少年の口の存在が、酷く足立を怯えさせた。少年なら、足立を飲み込んでしまうことくらい、平気でやるだろうことは直感していた。自分の体を支えているその手のひらさえ、少年がほんの少し悪意を持てばあっという間に自分を握りつぶしてしまえることも、足立の恐怖を煽る。
「そんなに怯えないでください。それに、このまま下に落ちるほうが怖いと思うけどな」
 なんとかしてここから逃げ出そうとしている小さな足立がおかしかったのか、少年は猫のように喉を鳴らしながら言い聞かせるようにそう言った。足立はそれこそ顔面蒼白になって、少年の指に縋ろうと立ち上がりかける。けれど、起伏が激しい肉の上は歩き辛く、ほんの数歩進まないうちに足立は転んで動きを止めた。
「取って食ったりしませんよ。足立さん、お願いします。あなたのことを教えて欲しい」
 少年の声はやはり倒れた体を痺れさせ、立ち上がろうという気を失わせる。もしも立っているとき少年が声を出したら、倒れてしまうように思われた。
 どうやら今のところは危害を加える気はなさそうだと踏んだ足立は、とにかく少年を満足させるべきだという方針を選んだ。今の状態で自分に出来ることなどたかが知れていた。まずは解放してもらわなければどうにもならない。
「……いいよ。何でも教えてあげるよ」
 猫なで声で言えば、少年は途端に目を見開き、輝かせた。人の瞳がこんなに雄弁に語るものかと、少し物珍しい気持ちでそれを見つめると、少年は恥ずかしそうにツイと目をそらした。いつもより殊勝な態度は多少足立の機嫌を上向きにした。
「将来の夢、だったっけ? うん、そうだねえ。僕は元々公務員志望でさ。銃を撃ちたかったから、その中でも警察を選んだ。つまり、今の職業がそのまま将来の夢だった、ってことかな」
 とにかく聞こえがいい言葉を言ってやればいい。思ってもいないことで満足させられるのだったら、自分の中を曝け出すよりはるかに楽だ。足立は自分の回答が正解だと信じて、少年に向かって笑う。けれど、それは少年の求めた回答ではなかった。
「それは知ってます。もっと、もっと俺が知らない話をして欲しいんです」
 大きな目玉が、また足立をまっすぐに見つめる。自信ある回答が思いのほか不評だったことに聊か慌てながら、足立は笑みを崩さずにああ、と呟いた。
「なるほどねえ。でも、本当にそれ以外ないんだよね。忘れてるだけで、野球選手、とかだったのかな」
「……分かりました。じゃあ、これからのことを。足立さんはこれから、何になりたいですか?」
 一つの質問をこなすと、すぐに次の質問が降ってくる。まるで面接だ。足立はうんざりしながらも、答えを探り始める。
「ええ〜? 別に、今となってはなー。……こういうのはさ、やっぱり菜々子ちゃんとか君たちくらいの年齢のほうが、答えようがありそうだよね。君は?」
 自分が答えられないのは、少年の目的がいまいち掴めないからだ。傾向と対策。思い出したくもない言葉を頭に浮かべながら、足立は巨大な少年にそう聞いた。
「それとも、君らくらいの年になると分かんなくなっちゃったりするのかな?」
「俺は、」
 ぐらりと、手が揺れた。足立は咄嗟に悲鳴を飲み込んで、手の下降に置いて行かれない様必死に少年の手に縋りついた。上に上がるときと違い、降りていく感覚は酷く空虚で不安定だ。内臓が置いていかれそうな感覚に足立が身震いするのに、少年は気が付かない。それほどに、彼も必死だった。
 足立の質問は、一つの答えだった。
「俺は、大きくなりたかった。足立さんに子供だといわれないように、大きく、あなたよりも大きくなりたかったから」
 少年の体が大きく揺れる。足立はいよいよ限界だと思い、ぎゅっと目を瞑るが、下降は緩やかに続き、やがて止まった。
「けど、俺たちにはそういうものは用意されていなかったんです。俺たちに与えられたのはこの一年。この形。あなたも同じ。過去も未来も、やっぱりないんですね」
 もう一度小さく上に持ち上がった後で、足立は背中に懐かしい硬さを感じる。恐る恐る目を開けてみると、そこはコンクリートの地面だった。足立を置いた手は、再び上空へと戻っていく。呆けてしまうほどに、あっけない開放だった。
「それでも俺はそれに縋った。この長さに」
 ふふ、という笑い声も、はるか頭の上から降ってくるとまるで現実味がなかった。足立が立っているのは見知らぬ場所だったが、とにかく道である。もううんざりだと立ち上がると、足立は遮二無二駆け出した。出来るだけ少年から離れたい。それに、どこかで人ごみを見つけて、それにまぎれてしまえばあの大きな少年は、すぐに自分を見つけられないだろう。自分の目立たない姿かたちを感謝しつつ、足を動かす。
 少年はそんな足立の姿を、はるか上のほうから悲しげに見つめていた。
「だけど、あなたが俺に縋って、上ってきてくれれば、一緒にいてくれれば、まだ……」
 かかってくれないだろうか。少年はため息を付いた。彼の目からはあまりにゆっくりとしたスピードで遠ざかっていく背中は、ただただ、現実に向かっている。もうすぐ足立は、目を覚ますだろう。そして山野真由美をテレビに入れる。足立透は人を殺す。

「だって、あなたのゲームは始まった時から詰んでいる」

 少年は悲しげにそう呟くと、もっともっとと、もっと高く、大きくと、望むままに体を膨らませた。人を、建物を、町を押しつぶしながら、もっともっと、願いのままに。
 どこで足立を押しつぶしたのか、少年には分からなかった。けれど大きくなり続ける体が地球からはみ出して、宇宙まで放り出される頃になると、ただ心地がよく眠たかった。
 あくびを一つすると地球が口の中に入ってしまったので、ついでに飲み込んでおく。胃の辺りがぽかぽかとして、こんなに暖かいのに、と少年は一人凍えた。


※  ※  ※


 蝉の鳴き声で目を覚ます。
 体中が寝汗でじっとりと湿っていて気持ちが悪い。生あくびをしてから、足立はのそのそと起き上がった。今日も遣り甲斐も未来もない仕事にいかなくてはならない。衣食住を守るという目的の外に、何の意味も見出せない仕事、ひいては人生。
 どうなっても構わなかったが、今はまだ、もう少し。この事件が手の中にある限りは。
 じっと床を見ながら、歪んでいく口元を自覚する。口元を押さえて少し屈むと、足立は床になにやら輝くものを見つけた。
「なんだ……? 糸?」
 それは、銀色の細い細い糸だった。指先でそっと摘み上げると、柔らかく指に纏わる。随分長く、よく光る糸で、まるで身に覚えがない。
 何かの繊維にしては少し太いし、まっすぐ過ぎる。裁縫の糸にしては透明感があり、材質すら良く分からない。知っている材質で一番近いのは髪の毛だったが、まさかこんなに長い、こんな色の髪の毛などあるはずがない。
 あまりに光を透かしては美しく輝くので、足立は少し考えて、それを輪の形に括った。首によく馴染みそうな感じがする。食い込むというよりは、柔らかく首の肉と溶け合いそうな、そんな気がする。
 これを首に、強く巻き付けたい。糸ごと手繰ってどこかへ引っ張り上げて欲しい。
 思いがけない欲求に、足立は逡巡した。
 けれど、この部屋の天井には、糸を固定できる場所がない。それを用意するのは面倒だった。自分の手で巻きつけるのは、どこか理想と離れてしまう。かといって部屋以外の場所でそんなことをやるものではないということは百も承知だった。
「うーん……。いいや」
 しばらくは真剣に考えていた足立だったが、やがて持ち前の飽きっぽさで答えが出ない状況に飽いてしまい、するするとその糸を引っ張ると、あっさりゴミ箱に捨ててしまった。手からなかなか離れようとしないその感触は、蜘蛛の糸にも似ていた。
 馬鹿なことで時間をとったものだ。自嘲しながら伸びをすると、足立はつまらない仕事に向けて準備を始める。
 そうして彼は、今自分がどこにいるのか二度と知ることが出来なくなってしまった。


「……逃がしたか」











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