救出
 波に呑まれながら漂うしかない。気を失ったノアを、海は少しずつ暗い所へと導いていく。
 ……突如、その体は勢いよく引き上げられた。
 急な上昇と衝撃に、ノアの体は思い出したように節々の痛みを訴え始める。げほげほと海水を吐き出した。状況を理解するよりも早く体はそのまま陸地へと運ばれていく。

「な、に……」

 そっとノアは草の上に下ろされた。下ろされたのはノアだけではなかった。隣でも似たような音がしたのだ。虚ろな目を必死に凝らして、彼女は、隣を見つめる。
 白く血の気の無い肌……今さっきまで共に戦っていた青年の面差し。

「ユー、リ!!」

 潮水と血にむせながらもノアは這いずりながらユーリに寄っていった。彼の腹部から赤いものが滲み、草を染めている。ぞっとして反射的に治癒術を唱えた。すぐに息を確かめる。……弱い。呼吸が不十分であると判断したノアは、直接呼気を送り込んだ。十年以上前に繰り返し習った救命措置の方法を、まるで常に繰り返してきたかのように確実に彼女は続けた。教えてくれたのは記憶も朧になりつつある両親、そして、義眼の技師たちだ。
 繰り返していると不意にユーリは水を吐き出した。慌ててマッサージの手を止め、ノアは改めてユーリの容態を確認した。出血は止まっている。呼吸も落ち着いた。ただ、目覚めるまではまだ休息を要する状態だ。溺れたこともだが、刺し傷が見た目以上に深かった。もうひとたび治癒術を施し、はあ、とノアは大きく息を吐いた。

「良かった……ユーリ……」

 彼のおかげで自分の体のダメージを意識せずに済んでいる。軋みのように響き続ける激痛に意識を持っていかれずに、自分を保っていられる。
 ざわ、と風が起きた。大きな影が落ち、ノアは反射的に顔を上げた。
 ――竜がいた。
 大きな竜は、ノアたちの目の前に降り立つ。その背には何故かデュークが乗っていた。呆然としながらも、ノアは竜への既視感から必死に記憶を辿る。かつて竜と会った場所は限られていたから、すぐに思い当たる。カドスの喉笛のエアルクレーネが活性化した際に現れた、ノアへと語り掛けてきた女性の声を持つ竜だ。
 竜の背から降りてきたデュークは、ノアの元へ歩み寄ってくる。

「生きていたか」
「ユーリと私を助けてくれたのは、デュークさん……たち、ですか」
「ここで宙の戒典を失う訳にはいかなかった」

 呟いてデュークは、ユーリが握りしめたままの皇帝の証へ目を落とす。
 彼らしい理由だった。しかし、それならば剣を持つユーリだけで良かったはず。ノアの疑問を察したのか、デュークは続ける。

「お前が再び死ぬ必要は無い」
「デュークさん、私のこと詳しいんですね……」
「……始祖の隷長を通して、私はお前が幼い頃に顔を合わせたことがある。お前の母、父とも。そして我々は共通の願いを抱いた。人との関わりを絶った私にとって、人との最後の繋がりだった……。それだけだ」
「いつか、お話聞きたいけれど……それは今じゃないですよね」

 ふらりとノアは立ち上がった。竜とデュークを交互に見つめ、ノアは「有難うございました」と深く頭を下げる。それから海へ向かって進んでいった。それは歩みと言うには鈍すぎる。体を引き摺って、一歩ずつ、ふらつきながら懸命に海を目指す。

「何をするつもりだ?」

 当然黙ってデュークが行かせるはずもない。
 ノアはまさか止められるとは思っていなかったと言いたげな顔で、小さく、呟く。

「……私たちが無事なら、アレクセイも助けられるはずです」
「災厄を解き放ったあの男を救うというのか」

 咎めるデュークの声に、ノアは苦笑した。
 自分でもどうして自然と歩き出したのか、そんな思いが浮かんだのか、不思議でたまらなかった。アレクセイがノアに齎したのは、家族と記憶の喪失、義眼の魔導器。彼女の人生が歪む理由そのものたちだった。
 それでも、ノアはこのままアレクセイを見捨てることが出来なかった。

「アレクセイは星喰みを見て泣いてました。こんなはずじゃなかったっていう顔をしていました。ならまだやり直せるかもしれないです。それに……」

 デュークを振り返りながら、ノアは精いっぱいの笑みを浮かべる。

「私は意地が悪いから、このまま死んで投げ出させるなんて、楽な方法を彼に選ばせたくないんです」

 呆気に取られたようにデュークが目を丸めたのは一瞬のこと。いつものように憂いを帯びて伏せられた紅い瞳が、嘆息と共に閉じられた後、開かれる。
 すっと歩み出たデュークは、ノアの肩を掴んだ。

「私たちが行く。お前はじっとしていろ」

 ありがとう、と呟くより先に限界を迎えたノアの意識は途切れ、体は前方へと傾いでいった。デュークはその体をしっかり受け止め、ユーリの隣へと運び、寝かせた。ユーリもノアもかなりの重傷だ。ユーリの傷はノアの治癒術によって幾らか癒されたとはいえ重いことに変わりはない。一方のノアも、体中のエアルをアレクセイとの戦いで刺激され、かき乱され、今こうして人の姿をとっていられる状態が奇跡と呼べる。
 デュークは急いで三度、ザウデの海へと向かった。
 ……デュークがアレクセイと共に戻ってくると、ノアは跳ね起き、瀕死のアレクセイへ治療を施した。

「良かった、魔核に潰されてしまってたらどうしようかって……」
「だとしても傷が深い。お前の治せる範囲か?」
「治しますよ。今の世界の状態と私なら、何とかなりそうですから」

 星喰みをちらりと見上げ、再びノアはアレクセイへと視線を落とす。弱々しいながらも規則的な呼吸を取り戻し、もう安心だろうと判断してからようやっとノアは術の行使を止めた。自身の肉体のみならず精神も悉く痛めつける結果になったが、それでも、ノアはこの選択を後悔していなかった。
 もしアレクセイを救えるとすれば、きっと、ノア以外の仲間もそう選択するのではないか……。考えながら脳裏に過ぎったのは旅の始まりと等しいハルルの花の色。
 術を行使した反動で、ノアの体はいつも以上にざわついていた。星喰みの封印の楔が解き放たれつつある世界。それは、彼女にとってもどうやら良くない現象を齎すようだった。
 勿論、見守っていたデュークも異変にすぐ気づく。
 ノアの髪がエアルと反応し、白く染まっていく。ノアには止められなかった。ちりちりと視界の隅で瞬くものを抑えつけながら、彼女はデュークを顧みた。

「……デュークさん、お願いがあります……」


◆◆◆



 ノア、ユーリ、アレクセイ、そしてデュークを背に乗せた竜は、ゆっくりと空に羽ばたいた。
 向かう先は帝都・下町。ユーリの故郷だとノアが聞いている場所である。下町の宿の部屋の一つが彼の住処なのだと旅の最中、語らう中で知った。そこにユーリを運んでほしいとノアは申し出たのである。仲間は既にザウデを去っているとデュークから聞き、ならばせめて彼の故郷で休ませるべきだとノアは思い至った。海から引き上げられてすぐはとても動かせる状態ではない怪我人だらけだったため、移動まで随分と時間を要した。その怪我人のひとりのノアが休まずユーリとアレクセイを交互に癒して、ようやく漕ぎ着けた段階だ。デュークも手助けしたものの、大半はノアが言っても聞かずに役目を引き受けていた。その為にノア自身の治癒はだいぶ遅れているが、気丈にもデュークに笑ってみせるほどである。デュークは何も言わなかった。
 帝都の側に竜が降り立ち、デュークがユーリを担ぎながら歩く。まるでデュークはユーリが何処に住んでいるのか知っているように迷いなく歩くので、ノアはただただそれについて行くだけだった。
 依然聞いたユーリの話通り、下町の宿屋らしき場所へ辿り着く。脇に備え付けられた階段を上り、奥へと進み、デュークはノアを振り返った。視線で促されるまま、ノアはその扉を開ける。
 ……一目見て、ノアはそこがユーリの部屋であると確信した。犬用の寝床、練習用の剣。壁に貼られた、街の子供が描いたと思われるユーリとフレンの似顔絵らしきもの。ユーリの生活の名残が見られる空間だった。
 寝床へユーリを寝かせたデュークに、ノアは礼を述べた。

「本当に有難うございました」
「お前の一族に力を与えた、かつての始祖の隷長の意志に応えたまで。そして、私なりのけじめというだけだ」
「それでも、有難うございます。デュークさんがいなかったら、死んでいたから」

 扉に手をかけるノアを、デュークが目を細めて見やる。

「……行くのか」
「はい。此処で癒すには、私も、アレクセイも目立ちすぎるでしょ? ……そろそろ人の姿をしているのも苦しいんです」

 名残惜しくはあった。仲間と離れ離れになる苦しみは一度味わった。再びが来るとは思いもしなかった。だが、このまま帝都のそばにいてはいけない。不安定な自分の力と向き合いがてら、アレクセイの目覚めを静かに待つため、ノアはすぐにも別の場所へ移動するつもりだった。なるべく帝都から離れるべきだろう。しかし、今の自分でどれほど遠くへ動けるだろうか。

「ゆっくり休んでね、ユーリ」

 振り返らずにノアは部屋を飛び出し、狼となって駆けて行った。
 ……――帝都を出、竜とアレクセイの元へ戻る。ノアの姿を認めた竜は、直接脳内へと響く声で語り掛けてきた。

「本当に良いのですか」
「だいじょぶですよ。今は結構混乱してるでしょうから、帝都から幾らか離れたら落ち着いて治せると思います」
「アレクセイではなく、私はあなたに問うているのです」
「尚更です。育ち柄、ひとりでアレコレするのは慣れてますから。それに何より、私はまずこの世界にこの体を合わせなくちゃ……みんなと合流したところで何も出来ません」
「……狭間の者よ」

 竜の声は寂しげだった。

「あなたはしなくてもいい無理を己に強いている。まるで仲間と会いたくないかのように。何かから逃げているようにも思える」
「逃げかもしれないです。でも、私、アレクセイを死なせたくないの。ザウデから落ちる時に、この人が泣いていた意味を……確かめたいの……。もう逃げなくて済むように」

 優しい分、竜はノアの痛いところを突いてきた。ノアがこれから野に潜み、ひっそりとアレクセイの治癒に取り掛かることを止めようとしているようだった。
 アレクセイの意識は依然戻らないが、確かに生きている。世間の治癒術者の手に負える範囲を超えていたし、力の使用で命を削るエステルを頼る考えは毛頭ない。ひとりでアレクセイを癒す。そして、アレクセイの真意を今一度問う。彼の涙を見てから踏み出せなくなった足を、動かすために。

「記憶のしがらみを、今ここで、ハッキリと無くしてしまわなくちゃ、私は進めないんです」

 ――ありがとう、優しい竜さん。
 ノアはそう言ってアレクセイを背に乗せると、帝都の向こうの森へと駆け出して行った。
 竜は狼の背が見えなくなるまで、静かに、見送っていた。……狼が消えて暫くすると、デュークが戻ってきた。竜の視線を辿って森を見つめ、彼は口を開いた。

「……行ったようだな」
「ええ。母親によく似た頑固な子です。それでも彼女が必要ならば……」
「ああ。私たちに止める権利はない」

 デュークと竜もまた、帝都をすぐに去った。


◆◆◆



 狼が辿り着いたのは、かつて移動要塞ヘラクレスが穿った山の大穴だった。森の中に突然円形状に岩肌が露になっている様は、テムザ山で見た人魔戦争のクレーターに似ていて、その威力を大いに物語っていた。これが街に当たらなかったのは不幸中の幸いと言える。
 その穴の側でノアの体力は尽きた。もう少し進めなくもない、しかし、進んでしまえばアレクセイの治癒に使う力が無くなってしまう。出来る限り帝都から離れており、エアルを集めやすい場所の確保という目的は達成ということにして、アレクセイの体をそっと地面へ下ろした。
 勿論、このまま草の上に寝かせておくつもりはない。
 ノアは小さな歌を紡いだ。歌はノアにとって、術のひとつでもある。親から受け継いだ歌は、始祖の隷長との盟約で得た特性は、すぐに効果を発揮した。エアルが呼応し、光の結晶が形成される。エステルへ贈ったペンダントのものと同じもの。アレクセイを包むように結晶は広がり、結晶と結晶は光を放ち、繋がっていく。治癒の力を注ぎやすくし、守るための結界の出来上がりだ。力を注ぎやすいということは、アレクセイの状態もより詳細に伝わってくるということ。

「魔物の攻撃にもだいぶ耐えられるように作ったし、これで良いよね」

 改めて治癒術をかけながら、ノアはほっとしていた。
 傷はほぼ治りつつある。いつ目覚めてもおかしくない。ただ、本人に目覚める“意思”があるか否か。

「アレクセイ……」

 不思議な気分だった。
 化け物と自分を罵り利用した相手を救おうとしている。かつてはこの手で始末することすら考えたという相手を。彼が星喰みの出現に狼狽し、自身の行いに涙したというだけで、その決意を自分は翻してしまった。
 でも、やはりノアは思うのだ。

「エステルならきっと……生きて罪を償え、って、言うよね」

 周囲を巡りながら、同じような結晶を生み、設置していく。今度は、ノアとアレクセイを魔物の襲撃から守るための結界を作らねばならない。
 そう言えば、彼女に渡したペンダントはまだ壊れずに済んでいるだろうか。ザウデの足場が壊れてから、皆は無事に引き返せただろうか。今一体どうしてるのだろうか。
 ノアは仲間を案じた。ちょうど結晶の設置が終わり、ドーム状の不可視の壁が出来上がった。
 ――ようやくこれで落ち着けるかな。
 アレクレイの元へ戻ったノアは、彼の傍らに蹲ると、ゆっくりと瞼を閉じた。
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