帰ってきた彼
 ――仲間を、信じきれなかったってことか。
 ユーリは静かに思い返す。
 操られたノアが立ち尽くしたあの時を。彼女の覚悟を、意志を。
 ノアが手にしたナイフを見た時、ユーリは駆け寄ったエステルの身に危険が及ぶと察知した。しかしそんなことは無かった。あの切っ先は、初めからノアが自分自身に向けて握ったもの。
 ふざけんな。ユーリは胸の中で叫んだ。
 ノアの危うさには随分昔に気付いていた筈なのに。釘を刺してきたつもりだったのに。それでもノアは、自分の命を投げ出すと言う馬鹿をした。彼女はずっと、覚悟していたに違いない。その時が来れば命と引き換えにでも事を成す覚悟を。
 ふざけんなよ。ユーリは何度も叫んだ。
 仲間が抱き続けた諸刃の心を、気付いてやれなかった。そのせいで、最後の最後で彼女を信じてやれなかった。きっと聡い彼女のことだ、ユーリの心など見透かしていただろう。だからこそ――笑った。
 その笑みは、青年の心に棘となって残った。棘を抜く前にノアの体は海へと投げ出され、自分もまた、海へと落ちていった。直前に青褪めたソディアと目が合った。そう言えば、彼女の手から血の付いた短剣が滑り落ちていくのも認めた。
 脇腹に強烈な痛みと熱を覚えながら落下する最中、ユーリは遠くにノアの幻を見た気がした。
 ――おまえもこんぐらい痛かったのか? それであんな動き回るなよ……。
 彼女らしいと苦笑したいところだったが痛みで頬は引きつり、意識もどんどん遠のいていく。
 此方へ手を伸ばしてくる幻を見つめながら、彼は思った。
 ノアに会いたい。
 気付けなかったことの許しを請うのではなく、言い訳をするつもりでもなく。
 ただ、仲間で在りたい。
 彼女が最後まで、そうであったように。
 オレも、ノアと仲間で在りたい。
 ――ユーリ。
 ……名前を呼ばれた気がした。
 瞼が酷く重く、少ししか開けない視界。これでは見えていないのと一緒だ。次いで体を起こそうとしたが、腹部に鋭い痛みを感じて動けなかった。

「……本当に……あり……いました」
「……に応え……だ」
「でも……」

 聴覚は辛うじて覚醒しつつあった。すぐそばで誰かの話し声がする。聞き覚えのある声だ。ひとつは女、ひとつは男。しかしユーリが記憶を辿っているうちに、話は途切れてしまう。
 どちらの足音だろうか。小さなそれが、少しずつユーリから遠ざかる気配がした。その音が一度止むと、また女の声がした。
 少し気の弱くて、優しい声。

「ゆっくり休んでね、ユーリ」

 はっきりと聞き取れたそれに、ユーリははっとした。
 信じられなかった。
 まさかと思った。
 もう二度と聞くことはない筈だった、その声音に耳を疑った。
 扉の開く音がした。
 体は動かない。身体自体が大きな重石になったかのようだ。無理に身体に力を込めすぎたろうか。ずきりと腹が痛む。
 ――待ってくれ。
 再び扉の音がする。ユーリは焦った。間に合わなくなってしまう。また手遅れになってしまう。
 ――待ってくれ!
 ようやっとユーリが起き上がると、薄暗い部屋の内装が視界に入る。どうしたことか、海に落ちたはずのユーリは、ザーフィアス下町の自分の部屋にいた。軋む古びたベッドの寝心地も、間違いなく自分の部屋のそれだ。脇腹の痛みを堪えながら視線を落とすと、ベッドの上に見慣れない本があった。気にはなったもののそれどころではない。痛みをいったんやり過ごし、ドアの方を見る。
 そこには思わぬ人物が立っていた。薄暗い中でも淡く輝いているかのような白く長い髪の美丈夫。デュークだった。

「目が覚めたか」
「……そうか、あんたが助けてくれたのか」
「その剣を失う訳にはいかなかったからな」

 ベッドの側に立て掛けてある宙の戒典を見つめながら、デュークは答える。彼らしい返答にユーリは苦笑した。

「まあいいさ。それでも礼を言わせてもらう。……ついでに聞くが、さっきまであんた以外に誰かいなかったか?」
「寝惚けているようだな。その本でも読んで目を覚ますと良い」

 嘆息しながらデュークに即答され、ユーリはそれ以上何も追及できなかった。確かにノアの声がしたと思ったが幻聴だったようだ、相当今の自分は参っているらしい。渋々言われた通りに本を開き、目を通してみる。
 本には、満月の子とザウデ不落宮の関係について記されていた。古代の指導者であった満月の子たちは、自らの命と力をザウデに注ぎ結界を作り、星喰みの脅威から世界を救ったのだという。

「ザウデ不落宮は満月の子の命で動いてたのか?」
「星喰みを招いた原因は人間にあり、彼らはその指導者であったという。償い……だったのだろう。そして僅かに生き残った満月の子が始祖の隷長と後の世界の在り方を取り決めた。帝国の皇帝家はその末裔だ」
「それが帝国の起こりって訳か。だからザウデの鍵ともなるその剣が皇帝の証になるんだな」

 デュークの声音に初めて感情の波を感じながら、ユーリは頷いた。今まで幾ら引き留めようとも過ぎ去っていった相手が丁寧に自分の疑問に答えてくれるというのは不思議な気分だ。

「エアルを用いる限り星喰みには対抗できない。あれはエアルから生まれたものなのだから」
「……あんたもあの星喰みを止めるつもりだった。だからエアルクレーネを鎮めて回ってた。違うか?」

 ユーリの推測に、そうだ、とデュークが頷く。揺らがぬ紅の瞳を見つめながら、ユーリは更に疑問をぶつける。

「何で帝国やギルドに協力を求めなかったんだ? そうすればアレクセイを止めることだって出来たかもしれない」

 デュークの声音はまた感情を封じたものへと戻り、

「私は始祖の隷長に身を寄せた。人間と関わり合うつもりはない。それに人間たちは決してまとまりはしないだろう」

 人間への期待は微塵もないことを表した。
「ならどうしようってんだ? 星喰みは古代文明だって手に負えなかったんだろ」ユーリは引かない。
「方法はある」答えるデュークもまた動じない。部屋を出ていこうと踵を返していた。
 苛立ちながら、ユーリは胸に抱いているデュークの矛盾を突いた。

「あんた、人間嫌いみたいだけど、オレたちだって人間だぜ? なんで宙の戒典を貸してくれた? なんで協力してくれたんだよ」

 話している最中ずっと抱いていた疑問だった。人間と関わらないと言いながら、現に彼はユーリに剣を貸し与え、宙の戒典のついでとはいえ命を救ってくれた。剣の回収が目的ならば、人との関わりを立っているならば、ユーリをわざわざここまで運ぶ必要もなかったはずだ。今しがた見せてくれた本だって、協力のひとつともとれる。
 ……そう言えば、デュークはユーリを救い出した時、ノアを見なかったのだろうか。本当に剣の回収のためにユーリを引き上げる必要があっただけで、ノアのことは知らないのだろうか。だが以前デュークはバクティオン神殿でノアの窮地を救ってくれたと聞いている。ならば……。
 ユーリが言い募るより先に、デュークが応じる方が早かった。

「お前たちだけが敢えて始祖の隷長と対話を試みた。だから……いや、もはや終わったことだ」
「……何をするつもりだ?」
「私は世界を、テルカ・リュミレースを守る」
「どういう――」

 それ以上は言葉にならなかった。脇腹がまた強く痛み、部屋を出ていくデュークを追うことはおろか呼び止めることすら叶わなかった。だがユーリは確かに感じ取っていた。
 デュークの言葉に宿る、強い覚悟を。
 ……痛みが落ち着いてから、ユーリはゆっくりと動き出した。壁伝いに歩きながら部屋を出、階段を降りていく。市街地へと続く坂道まで歩いていくだけでやっとだった。すっかり日が暮れている。
 脂汗を滲ませながら彼は、坂の向こうから響いてくる懐かしい声と足音に顔を上げた。
 足音はユーリからやや離れた位置で止まった。
 花色の髪の少女と、隻眼の犬。

「エステル? ラピード……?」

 呼ばれたひとりと一匹は、「ユーリ!」「ワン!」叫びながらユーリへと駆け寄ってくる。エステルは感極まり彼へと抱き着き、その存在が幻ではなく本物であることを確かめた。

「ユーリ、ユーリですよね。お化けじゃないですよね、ちゃんと影ありますよね」
「生きてる、生きてる。だからちゃんと痛いってばよ」
「良かった、本当に良かった……」

 感動しながらもエステルはすぐにユーリの腹部の傷に気付いた。慌てて離れた彼女は、階段に座ったユーリへすぐさま治癒術を施す。エステルの術に呼応して、ノアが以前彼女に渡した結晶のペンダントが淡く輝く。ノアは“あまり持たないかもしれない”と言っていたが、随分活躍しているようだ。

「ラピードったらこんな時間に急に外に走り出すんですよ? もうびっくりしちゃいました」
「サンキュ、もう大丈夫だ」

 エステルの術をそう言ってやんわり止めたユーリは、ラピードを見た。ラピードは珍しく落ち着かない様子で周囲を見渡し、鼻をひくつかせていたが、程なくして何かを諦めたようにふたりの元へと戻ってきて座った。
 治療を終えたエステルも、ユーリの隣へ腰を下ろす。まだ彼の傷を心配しているようだ。

「傷……やっぱりザウデから落ちたときのです?」
「ん? ああ、まあそんなとこだ」
「でもほんとに良かったです」
「悪かった。心配かけたな」

 ユーリの言葉に首を振り、早くみんなにも伝えてあげたい、とエステルは微笑んだ。
 そこでユーリが皆の現状を尋ねると、エステルは丁寧に説明してくれた。
 リタとジュディスは共にザウデの調査。古代の遺跡ということで調べたいことが沢山あるらしい。パティもフィエルティア号の整備をしながら二人を手伝っているそうだ。
 カロルとレイヴンは、ザウデの出現をきっかけに再び帝国とギルドの関係が怪しくなったためダングレストへと戻っている。ヨーデルもこのことを悩んでおり、フレンも日々奔走しているのだという。

「みんな、頑張ってんだな」
「ユーリたちがいなくても、自分たちにやれることをやろうって」

 ユーリは、エステルが静かに涙を零すのを見て胸を痛めた。
 涙を拭いながら、エステルは続けた。

「きっと……きっと生きてるからって。フレンなんか……船で何度も何度も探して……でも」

 先の“ユーリたち”という発言と、彼女がペンダントを握りしめる仕草で、おおよそ見当がついてしまう。

「ノアが……見つからないんです。あの怪我で海に落ちて、そのまま……ずっと……」
「クゥーン……」

 ラピードも小さく鳴いて項垂れた。
 ユーリも、そうか、と短く返すのみであった。
 部屋で聞いた幻聴が本物であってほしいと願った。だとすればノアは生きていて、この世界のどこかにいることになる。いるならば、探せる。何が何でも見つけ出す。そして金輪際あんな真似はしないように約束させる。自分が判断を誤ったことも話したい。「ユーリが気に病まないでよ、アレは仕方ないでしょ」なんて笑って済まされそうだが、話さなくては此方の気が済まない。
 ちゃんと仲間であるという確信を新たにするために、ユーリなりにけじめをつけたいのだ。
 口ごもるユーリに、エステルは震える声で語る。

「カロルが、ノアの壊れたペンダントを直してくれたんです。ノアに返したいって言ってました」
「ゾフェルの時におっさんが持ってたアレか」
「はい。……ザウデでノアが落としていったナイフも、わたし、ちゃんと拾いました。それも返してあげたいです」

 ペンダントを握りしめていた手をそっと開く。ノアがエステルを護るために作り上げた結晶。純粋な仲間の想いが詰め込まれたそれ。その淡い輝きに視線を落としながら彼女は続けた。

「このペンダントがこうして無事な限り、ノアも無事に決まってますよね」
「……そうだな」

 ユーリの同意は気休めのものではない。彼もまた、ノアの無事を願い、信じていた。それがどんなに絶望的な願いか判っていても。今まで散々無謀や無茶をしでかしてきたノアなのだ。彼女ならば何度奇跡を起こしてもおかしくはない。――起こしていてくれなくては。
 エステルは、ユーリが自分と同じ思いであることに安堵したように微笑みを零した。

「ですよね。ノアが戻ってきたら、改めてお礼を言わなきゃいけません」
「その前に無茶したことは怒らなくていいのか?」
「あ、それも勿論忘れずにします!」
「ワンッ!!」

 ラピードの同意も受けて、二人の表情は更に明るくなる。……が、ユーリはまだ病み上がり。時間もすっかり夜だ。これから何か活動するには向いていない。
 エステルはゆっくり立ち上がると、ユーリを顧みた。

「今日はもう休んでください。今すぐ会いに行かなくても、リタたちもカロルたちも、きっと大丈夫ですから」

 ユーリは瞬きした。エステルが釘を刺さなければ、今すぐにでもリタやカロルたちの元へ顔を出そうと思っていたからだ。

「承知しましたよ」

 エステルとユーリのやりとりを暫く見守っていたラピードは、区切りがついたところでまた何かを探すように周囲を見渡した。すっかり暗いこともあって、ゆっくり部屋に戻るユーリと、別れて城へ戻るエステルはそれに気づかない。
 この最中も、ラピードは確かに感じ取っていた。
 ――近くに残されたノアの匂いと力の残滓を。
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