白狼の声
 とある大陸の、とある森。今しがた私は此処に移動してきた。ふう、と一息つくと、動物たちが側に集まってくる。彼らが忙しなく繰り返す声に、私はしどろもどろになってしまう。

「わ、わかったよ。デュークさんが呼んでるんだね。すぐ行くから」

 ……私は昔、雪の降る場所に住んでいたのだと、この間、デュークさんが教えてくれた。一年の半分以上は雪に包まれ、寒さ厳しいながらも美しい街だったのだという。いまいちぴんとこない、私の生まれ故郷。――残念ながら魔物の襲撃で街は失われ、廃墟にさえなれずに消えてしまったそうだ。
 何故彼は、私の知らない私のことを知っていて、私に語ってくれるのだろう。何も知らない私への哀れみとは違う気がした。だからと言って彼が世話焼きにも思えなかった。……多分、そうしたいからしているだけなのだ。彼は彼がしたいように接している。それだけ。彼は自然に生きている。とても羨ましいなあ、と私は思っていた。
 そして私も、随分と勝手の変わってしまった体がごくごく自然であれるような生き方を探すことにした。
 エアルへの順応性が異常なまでに高まった狼の体。最後の戦い以来、私は人のかたちをとることが出来なくなってしまった。正直、あの戦いの時点でギリギリだった。意志とは相反していく肉体。私の体は大きく人ではない方向へと傾いでいた。
 でも、この体で便利なこともある。魔物との意思疎通が可能になったのだ。ラピードさんと出来ていたことの幅が広がったらしい。この意思の波長を送り合って和解できる場合もあれば、敵対が解けない場合ももちろんある。魔物の意識へチャンネルを合わせるのにはコツが必要だった。それでも魔物と人間、同じ世界に住む者同士、折り合いをつけられたら、と。
 もちろん私は人に対しても形を変えながら思念を送った。みだりに魔物の縄張りに踏み込む者に警告をする。不必要な乱獲を狙う者に厳しく対処する。……怪我をさせたりしない程度に。これでも狩りを生業としていたギルドの娘だ。命は他の命を糧にしなければならず、完全に人と魔物の対立や命のやり取りが絶えることはないと知っているからこそ、共存を無視した意味のない戦いは、ない方がいいと願っている。
 特に今、人類は魔導器を手放したばかりで不安に違いないから。同じように、人間の動揺を魔物たちも感じ取っているに違いないから。どちらの生き物も、新しい在り方を見つけた世界に戸惑っているに違いないから。
 人間でもない、魔物でもない、そんなどっちつかずの私には、こんなことしか思いつかなかったし実行できなかった。

「ノア、また無茶をしたな」
「デュークさん……」

 森を進むと、険しい顔をしたデュークさんが此方を見ていた。

「その体をマナ化させ、世界を巡るエアルに乗って彷徨う……。あまりに危うい行為だ」

 溜息と共に漏れた呟き。私の身を案じてくれているのだと、痛いほどわかる。
 デュークさんの言う通り、私は体をエアルでも物質でもない状態……マナへと寄せて、エアルの流れに乗って彼方此方を移動していた。これがびっくりするほどのスピードで世界を渡り歩けるものだから、世界中を渡りたい私にはうってつけの移動方法だった。
 ただ、自分という物質を極限まで薄めるこのやり方は、下手をすれば私の全てがエアルに還りかねない。けれど――。

「大丈夫ですよ。この右目が、本当に危ないところまではいかないようにしてくれてますから」

 義眼魔導器。かつては混乱と憎しみの塊でしかなかったこれが、今ではすっかり馴染んでしまった。もちろんデュークさんは私がこれを得た経緯を知ってしまっているから良い顔をしない。

「その義眼の術式すら安定しないのだろう。元より、お前の潜在術式とは異なるものだ。無闇に頼るべきではない。お前の母もきっと同じように咎めるはず」
「デュークさんがじゃあ、私のお母さんがわりってことですか」

 私は十分に危機感を持っているつもりでも、デュークさんは険しい表情のまま。
 デュークさんとこうして話すようになって、いくつかわかったことがある。彼は幼い頃の私だけでなく両親のことを知っていて、そのために私の力に気付いていて、記憶を失った私を見て驚いて、ことあるごとに私と言葉を交わそうとしてくれていた。一体デュークさんは何歳なんだろう? 私よりも私のことや故郷に詳しくて、お母さんとお父さんととも知り合いで……。記憶をなくしてうろつく私を見て、どう思っていたんだろう?
 聞かなくても、今こんなに親身になってくれている時点で、答えはわかったようなものだけど。
 デュークさんの横に座る。私の毛並みとデュークさんの髪の毛は何だか似ている。デュークさんの髪の毛の方がずっと綺麗なこと以外は。

「……私はお前が消えることを望んではいない」
「私が消えると思ってるんですか?」
「お前は“いつ自分が消えてもいい”と、そう思っているようにしか見えない」
「思ってませんよ。私のなけなしの説得で人と魔物の争いが減るならって思えば、消えるわけにはいきませんもん」

 揃えた前足に頭をのせて、私は呟く。

「私のしていることは、意味がないのかもしれない。人が魔物への危機感を失いかねないかもしれない。でも魔導器を無くして一気に力を失った人たちを今、守るには、人と魔物の住み分けを何とかお願いしていくしかない。お互い、どちらも、この世界の一部なんだもの。どちらかが欠けたらいけない。だから、私に出来ることを一生懸命、してみてるだけです」

 デュークさんが納得してくれたかはわからない。それでも、ふと頭に優しい手のひらが触れたのに気づいて、ああ、理解はしてくれたのかなあ、なんて甘いことを思ってしまった。黙り込む私の隣に座って、私の頭をずっと撫で続けてくれるデュークさん。お兄さんがいたらこんな風なのかな。
 私にいたのは小さな弟と妹。とっても愛しい子たち。亡くした今でも、それは変わらない。もし生きていたら、カロルやパティと仲良くなれたかもしれない。そしてラピードさんに懐いて困らせたに違いない。リタやエステルとは同い年くらいかな? ユーリとフレンは面倒見がいいし、ジュディスもいいお姉さんって感じで接してくれたかも。レイヴンさんとは、きっと問題なく打ち解けるはず……。
 ――元気かな、みんな。
 最後の戦いの後、ひっそりと別れた仲間のことを、今でも思い出してしまう。
 離れる決意を固めたのは、あの戦いに挑む前の晩のことだった。私の力と術式の異変が大きくなっていて、いよいよ限界だと悟って。人ではなくなってしまうと、気づいたから。

「……でもなぁ……」

 本当はずっと一緒にいたかった。
 でも私の体は、この通り、世界の進化に置いて行かれてしまったから。
 こんな私では、みんなと一緒にいられないから。
 悲しいけれど、寂しいけれど、離れようと決めた。
 ついて行けなかった私のことを、みんなが嫌いになってしまわないように。
 いつか私のことを忘れても良いから、今までの私ごと嫌いになって欲しくなかったから。
 ろくに別れも告げずに来てしまった私を、どうか、どうか許してください。

「デュークさん……私、どうしたら良いのか判らなくなってきてるんです……」

 ……人から離れつつある私が、仲間と離れる決意をした私が、今こんなにも辛い本当の理由は、体を襲う変化のせいじゃない。
 ――力が勝手に研ぎ澄まされていくのにつれて、みんなと一緒にいた頃の記憶が、少しずつ朧げになっていくから。
 人ではなくなるのならば人であった記憶は要らないとでも言うように、私の力は私の意志を無視して侵食を加速させていた。それに逆らうように私はみんなとの旅を何度も思い返した。そのたび思い出せないことが増えていくことに酷く狼狽えた。交わした言葉、一緒に食べた食事、たくさんの時が、少しずつ白く塗りつぶされていく。
 でも、でも。私にはもうどうしようもない。
 私は変化に従うことを選んだのだから。
 ――だからって、記憶を再び手放さなきゃいけないなんて。
 いつかこうやって悲しみ恐れる心すら忘れてしまうんじゃないかと思うと、私は、怖くなった。
 その私は、本当に、私と呼べる生き物なんだろうか。

「ノア……」

 デュークさんは、私が人の体に戻る術を探してくれている。沢山の知識を持つ彼にすら前代未聞の難題。それでもデュークさんは諦めずにいてくれるのだ。
 私が声も涙も殺して泣くのを、デュークさんは、何も言わずに寄り添ってくれた。
 この世界を私を繋ぎ止めようとしてくれているかのように。
 身勝手でわがままな私に、寄り添い続けてくれた。
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