誠の恋をするものはみな一目で恋をする
 カーヴェは眉間に皺を寄せ、何度も唸るようなため息を吐き続けていた。彼にそんな声を出させている元凶となった人物は、彼のことなど気にも留めずに凪いだ表情で手元の分厚い本を読み続けている。煌びやかな金の髪を揺らし、青年は己の眉間に指を添えてゆっくりと揉み込む。それから、本を読み続ける男にようやく声を掛けた。
「君は正気なのか?」
「何の話だ」
「さっきの! 彼女のことだよ!」
 カーヴェは先程あった出来事を思い起こしながらも、彼女の名前を出したことによりやっとこちらを向いたアルハイゼンに改めて睨むような視線を向けた。彼は本を閉じ、カーヴェに向き直る。正気を疑われたことに不服そうな表情を浮かべながら。
「何もおかしい事はないだろう」
「あるだろ!」
「ない」
 即座に否定の言葉が出たが、カーヴェはそれで納得するわけがなかった。何故ならば、この特殊極まりない精神構造を持つ男が、一目惚れなどというまるで普通の人間のような衝動を己の前で見せるとは一切思っていなかったからだ。他のまともな人間が相手であれば、これは失礼な表現だったかもしれない。だがしかし、有象無象の他人に興味を持たず自身の人生をより良くするためだけに生きているような男が、全く知らない女性相手に一目見ただけで惚れ込んでしまうなど、まるで天変地異の前触れなのではないかと思うくらいには不可思議なことなのだ。少なくとも、アルハイゼンという男の人間性をよく知るカーヴェにとっては。それもよりによって、自身が頻繁に交流する友人に対してなのだから、当然警戒だってする。
 アルハイゼンが一目惚れしたという相手、カーヴェの友人でもある彼女はごく普通の学者の女性だった。生論派アムリタ学院の卒業生であり、便宜上心理学者である彼女は、特徴があるとすれば非常に小柄な体格だろう。小鳥、あるいはリスやウサギのような雰囲気を持つ彼女は、確かに庇護欲が湧くような小動物的可愛らしさを備えている。とはいえ容姿端麗というには少々地味な、本当にどこにでもいる普通の女性だった。何故この男が彼女に一目惚れなどという現象を発生させてしまったのか、カーヴェには全く理解が出来ていないのである。
「本気であの子と関わりを持とうと思っているのか?」
「悪いか?」
「質問に質問で返すな! じゃあ悪いって返すぞ!」
「君の許可は必要ないだろう。君は彼女の何なんだ。何故俺が彼女に好意を持つことに嫌悪感を抱く?」
「べ、別に嫌悪感とかいう訳じゃ……」
 咄嗟に否定の言葉を零したが、実際のところは殆ど図星だった。嫌悪感とまではいかないが、心の何処かで嫌だと思う自分がいることを、カーヴェ自身も自覚している。そもそも彼女と会う時は、出来るだけ他の知人の視界には入らないような場所を選んでいたはずなのだ。友人関係において独占欲を抱くことは些か抵抗感があるが、かといってカーヴェ自身が彼女に対し恋愛感情があるかと言われれば、全くもって無いのだ。きっとこの感情は彼女ならもっと上手く言語化することができるだろう。とにかく、カーヴェにとってあの女性との交友関係は出来るだけ他人に介入されたくないものだった。自分が鍵を忘れて外出するなんてミスをしてしまわなければ、またはアルハイゼンが鍵を届けに来るなんていう気まぐれを起こさなければ、彼女と彼があのような邂逅の仕方をすることはなかったというのに。
 
「なら、君も彼女に好意があるのか?」
 カーヴェはひやりと背筋が冷たくなるような感覚を覚える。アルハイゼンが鋭い視線を彼に向けていた。その質問に対して、カーヴェはもちろん自信をもって否定の言葉を出すことができる。とはいえ、こんな風に警戒の目を向けられてしまっては、すぐに言葉にするのが憚られてしまった。誤解を植え付けるわけにはいかないと、我に返ったカーヴェは敵意を向ける目の前の男を嗜めるように口を開いた。
「それはない」
「ほう、彼女が魅力的には見えないと?」
「なんで否定しても怒られるんだ! あの子はそうだな、友人でありカウンセラーみたいなものだよ」
 カウンセラー、という単語にアルハイゼンは考え込むように右手を顎に添える。彼女が心理学を研究していることは説明を受けたが、そういった理由も含まれた付き合いなのだろうか。確かにこのカーヴェという男も、自己矛盾という難解な要素を抱えている特殊な精神構造を持つ人物だ。カーヴェをよく知らない人々は、彼を「明るく天才肌の芸術家」だと認識しているだろう。だが彼女がカウンセラーだというのならば、そんなカーヴェに内包された複雑な精神構造を理解しているということになる。出会ったばかりの己と違い、彼女とそれなりに親密な関係にあるカーヴェに対し、アルハイゼンはどことなく悔しさを覚えた。
「彼女を愚痴の捌け口にしているのか?」
「そんなこと言ってないだろうが! 時々会って互いの近況を話し合ったりしてるだけだよ。まあ、その度にメンタル面のアドバイスをもらったりするけど……」
「……」
「そんな目で見るな!」
 呆れたような蔑んだ目を向けてくるアルハイゼンに、カーヴェは頭を抱えて大きく溜息を吐いた。本当に、何故こんな人の心に配慮がない男が彼女に一目惚れなんてしたのだろうか、カーヴェにはそれが不思議で堪らなかった。
「……正直、自分でも理解が追い付いてはいない」
「ん?」
「君は経験があるか? 一目見て、視界から外したくないと思ったことを。なんとしても手に入れたいと考えたことを」
 どこに目を向けているのか、焦点の定まらないぼんやりとした瞳でアルハイゼンはそう呟く。否、目の前にある何かを見ているのではなく、彼が出会ったばかりの彼女の姿を思い描きながら言葉を発しているのだろう。今までに見たことのない彼の様子に、カーヴェはどうにも落ち着かない感覚に陥った。
「君、正気か? もしや熱でもあるのか?」
「俺は正気だと言ってるだろう。いや、正気ではない自覚があるのが正しいか、俺は狂っているかもしれない。だが三日経っても、恐らく消えることはないという確信がある」
「……本気で一目惚れなのか」
「ああ、何故だかは自分でも分からないが。むしろ、君はどうしたらいいと思う?」
 普段は山のような知識の引き出しから言葉を選び、正論という武器で殴りかかってくるような男が、まさか自分に質問を投げかけている。それも、彼との会話であれば絶対に発生しないであろう、恋の衝動に対する問いかけだ。カーヴェはあまりにもあり得ない状況に、くらくらと眩暈がしてくる。本当に目の前のこの男は自分がよく知るアルハイゼンなのだろうか。彼とはそれなりに長い付き合いであり、彼の嫌な部分をたくさん見てきたはずなのに。こんな風に迷い子のように瞳を揺らし、困り果てた雰囲気を醸し出す彼に、思わず手を差し伸べたくなってしまっている。困った人を見過ごすことが出来ない性格であることを自覚しているカーヴェは、ありえない状況の連続にとうとう頭を抱えてしまった。
「彼女の言ったとおりに、三日後会いに行けばいいさ」
「そのつもりでいる」
「言っとくが、あの子を傷つけたら許さないぞ。ちゃんと誠意ある態度で挑めよ。君は基本的に上から目線で物事を言うタイプだ、傲慢な態度はやめたほうがいい」
「……努力しよう」
 出来るだけ容赦なく指摘したはずなのに、アルハイゼンが素直に返事をしたことにカーヴェは狼狽えてしまう。やはり本当に正気を失っているとしか思えない。だがしかし、ここまで彼が素直だということは、それだけ本気で自身の衝動に向き合おうとしているのかもしれない。そう思うと、根が善人のカーヴェは彼のことを強く言えなくなってしまうのだ。願わくは、彼らが双方傷つくことなくより良い方向に歩みを進めてくれますようにと、カーヴェはそう祈ることしか出来なかった。
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