愛の種類とその効果、体験談を添えて
「恋をしても賢くいるなんて不可能だ、なんて言い得て妙ですね」
「俺のこの有様を見ればいい」
 わたしは今、レポートをまとめる為に今まで書いた大量のメモを整理している。メモは小さな付箋紙に走り書きしているものだらけで、これはずっと前からのわたしの癖だ。その付箋紙をアルハイゼンさんの腕や膝にいくつかくっつけながら、自分の膝に乗せられたバインダーに貼って仕分けをしている。ちなみにわたしが座っているのは、ソファに腰掛けるアルハイゼンさんの膝の間。彼はわたしのお腹に手を回したまま、わたしの肩に顎を乗せて作業を眺めながらぼんやりとしていた。こんなスキンシップはもうだいぶ慣れてきたし、彼はわたしが好き勝手に何かをしている様を眺めるのが好きだと言っていたから、わたし専用背もたれと成り果てている彼のことを今は気にしないでいる。彼がわたしに対してべったりなのは、もはやいつものことと呼べるようなものになっていた。
「アルハイゼンさんはわたしの事になるとおかしくなっちゃうんだもんなあ。でも自覚があるのがなんだか面白いですね」
「君も俺の事になると理屈で物事を考えられなくなるだろう」
「その通りです! それよりそろそろ離していただけません?」
「拒否する」
 澄んだ声色で即答される。やっぱりダメらしい。今日の彼はお休みらしく、朝から我が家に来てくれていた。わたしはいい加減にレポートをまとめる作業を進めたいのだけれど、アルハイゼンさんは恋人がするような事をわたしとしたいと言う。そしてお互いの妥協点を探り合った結果、彼に抱きしめられたまま作業をするという結論に至ったのだ。効率の点ではあまりよくない。大量のメモはテーブルに広げた方が明らかにやりやすい。でもまあ、せっかく朝から来てくれたんだし、彼にこうして触れてもらうのが嬉しいから、わたしは今こんな状態で作業をしているのだった。
 
 彼に自分の想いを告げてから、わたしたちの関係はなんだか少しだけ変わった。変わったと思っているのはわたしだけかもしれないけれど。実は今まで、わたしの方から彼にスキンシップをした機会はほとんどない。理由はもちろん彼と交際しているにも関わらず、彼に対して恋慕の感情を抱いている自覚がなかったからだ。でも今のわたしはできるだけ彼と触れ合いたいと思っている。羞恥心はもちろんなくならないけれど、人生なんて長くないのにそんなものに邪魔されて、彼と触れ合う機会が減るなんていただけない。それに何より、時々わたしが抱きついたりすると彼はすごく喜ぶのだ。そんなの何回でもしてあげたいじゃないですか。
 背もたれにしては逞しい彼の胸に背中を預け、両腕を前に突き出して伸びをする。わたしの集中力はすでになく、お腹がすいてきた頃合いだ。
「おひるごはん!」
「そうしよう」

 お昼のランバド酒場は案の定賑わっていた。わたしたちはいつも外の席より店内を選ぶことが多い。今日は何を食べようかな。シチューでもいいけれど、あの味付けならアルハイゼンさんの創作料理の方が好きかな。
 お互い食べたいものを頼みながら二階奥のテーブル席でまったりしていると、手前のテーブルから学生たちの会話が聞こえてくる。因論派の学生と知論派の学生が口論しているようで、時々互いの学院の悪口なんかも聞こえてくるものだから、わたしはなんだかそわそわしてしまった。
「生論派の学者としては、どう思う?」
「盗み聞きはよくないですよ、知論派の先輩さん」
 互いに目を見合わせて、聞こえてきた口論の内容にくすりと笑い合う。彼らは食事を終えたようで、口論を続けながらも席を立ち階段を降りていった。あんなに言い争っていたのに、お昼ご飯は一緒に食べるなんて仲がいいんだか悪いんだか。まるでどこかの誰かさんたちみたい。
 気を取り直して目の前のフィッシュロールに手をつけようとしたところで、よく知った声がわたしたちの名を呼んだ。視線を向ければそこにいたのは、階段を上がってきたばかりのセノくんだった。彼は手に食事と箱を持っている。あれはおそらく七聖召喚のデッキだろう、カードゲーム大好きだもんなあ。
「お前たちは昼食か」
「そういうセノくんはカードゲームですか?」
「ニィロウがバザールの子供達に勝てないらしくてな、稽古を付けていた」
 そう話すセノくんの背後から、赤い髪を揺らしてニィロウさんが姿を見せた。どうやらお昼休憩を取りに来た様子。せっかくだからと相席を持ち掛ければ、二人は快諾してくれたけどアルハイゼンさんはちょっとだけ不機嫌になってしまった。でもわたしはぜひニィロウさんとお話がしてみたかったのだ、許してほしい。
「ニィロウさん、先日はすみませんでした」
「ううん、気にしなくていいの! むしろ微笑ましくて、いいものをみたな〜って!」
「ああ、だからニィロウはあの日機嫌が良かったのか」
 ニィロウさんの発言に、なるほどとセノくんが納得している。あの日、彼女はセノくんと教令院の前で待ち合わせをしていただけだったらしい。ニィロウさんは先ほどセノくんが述べた通り、子供たちと遊ぶ七聖召喚での勝率を上げるためにセノくんに特訓をお願いしたんだとか。そして今日はまさにその特訓をしている最中で、七聖召喚で繋がる輪も凄いものだなあと感じた。娯楽を用いた円滑なコミュニケーション、題材にしてみようかな。でもそれならどうして、彼女は教令院の前ではなくアルハイゼンさんの家の前にいたんだろうか。
「あの日は院を出たところでニィロウと出くわして、君に会ってみたいと俺の家の前までついてきたんだ」
「心読みました?」
「顔に出ているよ」
 わたしたちの会話には興味がなさそうに持っていた本を取り出していたはずなのに、ばっちり会話を聞いた彼はわたしの表情も見ていたらしい。なんて人だ。わたしたちのやりとりが面白かったのか、ニィロウさんはくすくすと笑い声をあげていた。こんなに可愛い子が隣に座っている状況、なんだか緊張しちゃうな。わたしが委縮しているのが伝わってしまったのか、ニィロウさんはわたしに顔を向けながら満面の笑みでとんでもないことを言い出した。
「アルハイゼンさんがあなたのこと小動物って言ってたの、ちょっとわかるかも」
「えぇ……この人なに言ってたんですか?」
「私が言うより本人にもう一度話してもらった方が面白いと思うよ!」
「俺も聞いてみたいな、こいつの惚気」
「二人とも何言ってるんですか! そんなことするわけ……」
「いいだろう」
 本をぱたんと閉じてテーブルの隅に置いたアルハイゼンさんが、こちらを見つめながら腕を組んで姿勢を直した。いいだろうって聞こえた気がするけど気のせいかな。こんな人前で、わたし本人に向かって、惚気話を始めるってなんの拷問だ?
 それから彼はわたしの良いところ、可愛いと思っているところなどを流れるように話し始めた。わたし自身が全然自覚していなかった部分まで出してきて、聞いているわたしの頭は沸騰しそう。途中から「間食をする前に手を洗うことを欠かさない」とか「買い物をした時に店員に必ずお礼を言う」とか、そんな些細なことまで片っ端から褒め出す始末。このあたりは人間として当たり前のことじゃないですか! 褒める部分なんですか!? ニィロウさんはニコニコした様子でずっと相槌を打っているけど、セノくんは途中から飽きたのか頬杖をついて眠そうにしている。わたしもそんな態度で聞き流したかったよ。
「アルハイゼン、そろそろ終わりにしろ」
「まだあるが?」
「もう充分です! 聞いてるわたしが居た堪れない!」
「ふふふ、すごいなあ」
 どうしてわたしが絡むと彼はこんなにも様子がおかしい人物になってしまうのか。わたしだけが相手ならいくらでも見せてくれていいけど、他人にその様を観測されるのはどうしても恥ずかしくなってしまう。やっぱりわたしは第三者の目に映ってしまうこと自体が恥ずかしいのかな。この手の羞恥心については後日個人的に分析しておこう。
 
 午後も七聖召喚の特訓をするのだという二人と別れ、わたしたちも自宅へと戻った。帰路をのんびり歩きながら、帰り際にセノくんから聞いた話を思い出す。わたしも七聖召喚を始める時が、来るのかもしれない。
「きみがカードの絵柄になるなんて聞いてなかったです」
「特に話していなかったからな」
「アルハイゼンさんは七聖召喚出来るんですか?」
「ルールは把握しているよ」
 興味がなさそうに返されたけど、どうせ頭のいいこの人だ、ルールを把握している程度なんて言っておいてとても強いんだ。もちろんわたし自身は全くの未経験なので、彼のカードを手に入れたところで、初心者のわたしでは活躍させてあげられないかもしれない。わたしもセノくんに今度レクチャーしてもらおうかなあ。
 
 午後はまたわたしのレポート作業に時間をあてるつもりだったけれど、何度もアルハイゼンさんがスキンシップという名の邪魔をしてくるので、早々に切り上げざるを得なくなってしまった。さすがにいい年をした成人女性のおなかをつまむのはね、良くないと思います。触り心地がいいだなんて言われたけれど、そういう問題ではない。最近は家に籠りっぱなしだったから、運動もちゃんとしよう。
 それはそれとして、どうやら明日のアルハイゼンさんは少し仕事が忙しいそうなので、前もって癒されておきたいのだという。わたしに触れることが癒しになるのであれば、好きなだけ癒されていってほしいな。まあどうせ、明日も仕事が終わったらストレス解消目的で訪問されそうな気がするけども。
 
 アルハイゼンさんはその後も相変わらずわたしを膝の間に挟んだまま、今はわたしが開いている本に一緒に目を通している。そういえば、彼はこうして長時間の触れ合いを求めるけれど、あまり行動内容がエスカレートしてきたことがない。最初に抱きしめてきた時だってわたしが彼をけしかけたのだから。むしろ、わたしに対して何かをする時に気を遣って許可を取ろうとする人だ、もしかしたら様々なことを我慢しているのかもしれない。それはそれで、困っちゃうな。
 わたしは本を閉じてソファの端に投げ置き、おなかに回されていたアルハイゼンさんの手をどけた。立ち上がって振り返ると、わたしが離れたせいでどことなくむっとした表情の彼がわたしをじっと見ている。そういえば彼を見下ろせたことってほとんどないな。こうして座っているのに、大幅に目線が変わったりはしないから逆にびっくりする。わたしが小さすぎるだけ?
 このままだと彼が機嫌を損ねそうなので、わたしは彼の膝を両手で閉じてその上に乗ってみた。
「わあ、思ったより恥ずかしいですね」
「……急にどうした」
「アルハイゼンさんが何もしようとしないから、わたしからしてみようかなって……今ちょっと恥ずかしくて後悔してます!」
 同じ目線で見つめ合っているのが思ったよりも恥ずかしい。というか膝上に乗っているのに目線が変わらないってなんなんだ。先ほどよりも彼との身長差を感じ、こそばゆい気持ちが湧いてくる。肩に腕を回してアルハイゼンさんを見つめていると、珍しく彼の方が目を逸らしてきた。おやおや。
「きみは遠慮しすぎですよ」
「違う、これは遠慮ではない」
「じゃあ、我慢?」
「……その通りだ」
 思っていた通りの返答にわたしは苦笑いを浮かべた。彼はわたしに自身の欲深さを言い聞かせてくるくせに、なぜか行動には移そうとしない。おそらく彼に元々備わっている理性が働きすぎているのだろう。
 彼と交際を始める前に、カーヴェくんに言われたことを思い出す。アルハイゼンさんが理性というストッパーを失ったら、大変な事になるんじゃないかという可能性だ。あの時は確かに不安要素のひとつだったけれど、今のわたしにとってそれは違う。そんなものさっさと取っ払って、わたしにぶつかってきてほしいのだ。研究がどうとか論文がどうとかそんなものは関係なく、わたし自身がそうしてほしいだけ。
「……加減できる自信がないんだが」
「そんなもの考えないで、きみの全部が欲しいんだから」
 埒が開かないと思い、わたしの方から彼の唇を奪う。わたしって思ったよりも強欲なのかもしれないなあ、二人きりなら羞恥心よりも欲が勝ってしまう。とはいえ経験のないことをいきなり実践するのは難しいから、わたしは触れるだけの子供みたいなキスしかできなかった。
 顔を離すと、彼の瞳とかち合う。ぐつぐつと煮えたぎるように揺れている不思議な緑色の瞳は、初めて会った時のあの射殺すような目とどこか似ていた。いや、もっと鋭いかもしれない。煽りすぎた? それが狙いだけど!
「後悔しても遅いからな、今後の謝罪は受け付けない」
「し、しませんってば!」
 どうやらちゃんとスイッチが入ってくれたらしい、彼と笑い合ってそれからもう一度唇を寄せ合った。このまま彼とどこまで進展できるかな、経験はないけど知識はあるから、様々な想定をしながら彼の口付けに応じる。下唇を食まれ、薄く開かれた唇に彼の舌先が触れた。うわあ、これ、思ったよりも恥ずかしいぞ。
 このまま深い口付けをされるのだろうなと構えていたところで、邪魔をするかのように玄関のベルが鳴った。嘘でしょう、なんてタイミングだ!
「……」
「……お客さんですかねぇ」
「居留守にしよう、それがいい」
「そうもいきませんよ!」
 あからさまに機嫌を悪くしてしまったアルハイゼンさんを嗜め、彼の腕から抜け出して玄関の扉を開けた。その先に立っていたのは今一番現れてはいけないであろう人物であり、わたしがまずいと思うより前に、金の髪を揺らしながら酒瓶片手にアルコールの香りを漂わせる彼は、毎度のように喚くような声でわたしの名を口にした。もうだめだ、おしまいだ。
「か、カーヴェくん……」
「今日は暇か? 僕の愚痴を聞いてくれないか? 酒ならここにある!」
「帰れ」
「は? なんでアルハイゼンがいるんだよ!」
 声で瞬時に判断したらしいアルハイゼンさんが、いつの間にかわたしの後ろに立っていた。その声色はあまりにも冷たく恐ろしくて、わたしは振り向くことができそうにない。そのかわりに目の前のカーヴェくんを見ていると、彼は最初こそ嫌そうな顔を浮かべていたけれど、だんだんとその表情が絶望と罪悪感の色に染まっていった。わたしには見えないから多分だけど、普段とは比べ物にならないくらいアルハイゼンさんが怒っているのだろう。
「もしかして、とんでもない邪魔をしてしまったのか……?」
「そうだと思うのなら即刻帰れ」
「ご、ごめん、本当に申し訳ない! 僕が悪かった! 帰る!」
 酔いが醒めたらしいカーヴェくんは慌てて踵を返し、逃げるように帰ってしまった。さすがにわたしも今回ばかりはカーヴェくんを恨んでしまいそう、せっかくいい雰囲気だったのに。玄関の扉を閉めアルハイゼンさんに向き直ると、彼は邪魔をされた事に腹を立てているようで眉間に皺が寄っていた。
「ええと、仕切り直します?」
「……いや、後日にしよう。奴への怒りが収まらないまま君との思い出を作りたくない」
「んふふふ」
 そう嘆く彼がさすがに可哀想だったから、わたしは彼に勢いよく抱きついた。この人との時間はこれからたくさんあるのだから、そんなに急ぐ必要はないか。

 それからしばらく経ち、わたしはこの想定外に長い期間をかけた研究の成果を、気合いでなんとかレポートにまとめ上げた。内容はもちろん「愛の種類とその効果」について。これを改めて紐解くことがメインだけど、このテーマで自分の経験談も交えるなんて正直に言えば恥ずかしいことこの上ない。まあでも、恋愛にまつわる人々の悩みに対して、少しでも手助けが出来たらいいなと思う。それに、わたしが感じた様々な気持ちに嘘偽りはないのだ。
 


 そういえば、ちなみに。他の仕事の合間だったのか、なぜか知恵の殿堂でこのレポートに目を通してしまった書記官殿の絶妙に動揺した姿は瞬く間に噂になり、一体どんな破廉恥な論文が提出されたんだと大騒ぎになってしまった。わたしの渾身のラブレターが破廉恥なわけがないでしょうが!

 以上、わたしと彼の研究記でした。その後のことは、またの機会に!
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