紅差す緑の
 青年は衝撃を受けていた、自分が今目撃したものは果たして現実のものだったのだろうかと。アーカーシャが失われた昨今、スメールの大人たちも徐々に夢を見るようになったわけだが、今自分が見ているのはまさしく明晰夢の類なのではないだろうかと疑うくらいには。
 青年は、この知恵の殿堂に調べ物をしにきただけのただの学者だった。故に今自分が見たものに対して、本来ならば何かしらの行動が取れる立場ではない。目の前の人物と特別面識があるわけでもなく、有名人であるその男を一方的に知っているだけなのだ。だとしても、ある程度の近距離で見てしまい、なおかつ狼狽えているその男と目が合ってしまったのだから、青年は彼に恐る恐る声をかける選択肢しか取ることが出来なかった。
「どうしたのですか、アルハイゼン書記官……」

 時は遡り、昼下がりの知恵の殿堂。午前中は資料室に籠もり自身の業務をしていたアルハイゼンは、教令院の学者達に呼び出されて昼前に一度表に出なければいけなかった。彼としては面倒臭い申請などは全て却下したかったが、文句など言っていられない仕事というのはいくらでもある。結局学者たちの要望を確認するために外に出ずっぱりになった彼は、その後資料室に戻る前に一度知恵の殿堂に訪れたのだ。何故ここなのかというと、理由はもちろんある。先日提出された彼女の研究レポートを息抜きがてら読むためだ。このレポート自体はすでに教令院に原本が保管されており、あの草神様まで目を通しその内容に対して好意的な感想を述べていたらしい。そのまま読んでしまってもよかったが、せっかくなら各資料を参考にしながら読み解いてみたい。彼は知論派出身ではあったが、生論派で取り扱っている分野の知識がないわけではない。とはいえ、やはり専門外の知識であれば自身の知識を用いて推論するよりも、事実情報を照らし合わせながら読むべきだと彼は思っていた。

 そうして資料となる書籍を広げながら、彼女のレポートに手を付け始めてからしばらく。読みやすい文体のレポートは、時折他者のインタビュー内容や自身の体験談を交えて纏められていた。当然アルハイゼンの報告内容も含まれており、彼の名を伏せて掲載されている。それらは別に、彼にとっては問題がなかった。嘘偽りのない事実であり、自身を研究対象として使用していいという許可も出しているからだ。しかし、このレポートの問題はそこではなかった。彼が今までに一度も聞いたことのないような、彼女の心理状況や身体の状態などが非常に詳細に纏められていたのだ。読み進めれば進めるほど、その内容が自身に当てた恋文のようなものだと、彼は途中で気づいてしまう。こんな場所で迂闊に読むべきではなかった。かといって、一度読み始めたものを中断してしまうわけにもいかないし、資料と照らし合わせながら読みたいという自身のこだわりも捨てられない。自身が唯一愛を贈った彼女の書いたものであればなおさら。故に彼は、数万字にも及ぶ彼女からのラブレターを、意地と根性で読み続けることしか出来なかった。
 
 彼女の文章、その言葉は他人に理解してもらいやすくするために工夫を凝らしながらも、決して回りくどくはない読み手への優しさのこもった文体だった。難しい現象に対し、知識のないものにもわかるような例え話を多用しつつも、しっかりと事実を述べているように見受けられる。恋愛感情などという憶測で語られがちなテーマで、このように纏められていることに関しては素直に上出来だと彼は感じていた。 
 ただ、故に、彼女の体験談の方も読み手に事細かに伝わるような内容でまとめられている。これが提出されているということは、彼が読むより前にすでに何人もの学者がこのレポートに目を通しているのだ。なんならクラクサナリデビ様も読んでいる。絶賛していたと噂にもなっている。すでに自分たちが交際しているという情報は教令院中に知れ渡っているし、彼はそれを悪いことだとも思っていなかった。だから尚更、この文章を目に通したせいで普段なら感じることのない羞恥心が、珍しく自分に湧き上がっていることをアルハイゼンは感じていた。それは有象無象の他人にこのレポートを読まれたことではなく、他人の目に触れても構わないといった態度で、彼女が自分への愛を書き連ねていることにだ。
 時折顔を覆うように額に手を当て、溜め息を吐きながらもなんとか読み進める。約六万弱にも及ぶそのレポートを読み終えた時には、自身の顔に熱が溜まっているような感覚を彼は感じていた。そして、俯きながら大きくため息を吐き、顔を上げたところで見知らぬ学者の青年と目が合ってしまったのだった。
 
「……」
「あの、書記官? 大丈夫ですか?」
「レポートを、」
「はい?」
「レポートを、読んでいただけだ」
 声を掛けてきた青年に、アルハイゼンは目を逸らしながらそう返すことしかできなかった。それも当然で、今の彼は羞恥と歓喜とその他諸々の複雑な感情が絡んだ心理状態になっている。まさか見知らぬ人間に目撃され、なおかつ心配そうに声を掛けられるとは思っていなかったのだ。その動揺は青年の方にも伝わったようで、彼は書記官の貴重な赤面する様を目に焼き付け、伝染したように狼狽えてしまった。
「ど、どんな!」
「は?」
「どんなレポートだったんですか! 貴方がそんなに狼狽えるほどに過激な内容だったのですか! 学者としては非常に気になり」
「声が大きい、君はここが何処だと思っている。周囲の迷惑になるだろう」
 興奮気味に詰め寄ってきた学者の青年を見、瞬時に落ち着きを取り戻したアルハイゼンはどうにか青年を宥めようとする。しかし残念ながら、当然この大声では周囲の視線など簡単に集めてしまっていた。この場に留まっていても面倒事が降り掛かってくるだけだと悟った彼は、書類を手に持ち資料の本を片付けるために席を立つ。その後ろを学者の青年が追いかけるが、アルハイゼンは青年のことなど気にも留めずに手早く元の位置に本を戻した。それでも興奮を隠しきれない青年は知恵の殿堂を去ろうとする書記官を呼び止め、ようやく振り向いた彼にもう一度頼み込んだ。
「概要だけでもいいんです!」
「読みたければ規定通りに申請して写しを取得してくれ」
「ええっ、そもそもどのレポートかもわからな……というかそれを見せてくれてもいいじゃないですか……!」
「断る」
 青年は、さすがにしつこく詰め寄ってしまった事を察した。振り返ったアルハイゼンが嫌悪感を隠さない表情で己を睨んでいるからだ。それでもやはり、青年はどことなくアルハイゼンに対して違和感を覚えていた。この書記官が、何故かレポートの束を大事そうに抱えていたからだろうか。青年の心の中にふつふつと罪悪感が湧き出てくる。彼はあのレポートに書かれた内容を噛み締める必要があったのに、自分はきっとその邪魔をしてしまったのだと。
「本日の業務は終了だ、俺は帰らせてもらう」
「あ、はい……すみませんでした……」
 青年は深々と頭を下げ、踵を返し去っていく書記官を静かに見送った。頭を上げた青年は改めて先程の彼の様子を反復する。あれはどう見たって、照れている様子だったのだ。彼にそんな表情をさせるような人物なんて、青年の脳内にはたった一人しか出てこない。否、この場にいた誰もが彼女の姿を思い浮かべていた。ここ最近の教令院でずっと噂になっていた、彼と共にいるのを度々見かける小さな恋人の姿を。
 
 斯くして、この青年と知恵の殿堂にいた学者たちのお陰で、該当のレポートに関する身も蓋もない噂話が教令院中に広まってしまったのだった。
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