したたかな涙
10

「澪。それ少し貸してくれ」
 早朝と午後一の会議を終えた白昼、執務室で澪の仕事の落ち着き具合を見計らい、甚爾は彼女のパソコンを視線で示した。
「いいですよ。どうぞ」
 彼女に席を譲られマウスをいじり出すと、澪が周囲をうろうろしながら物珍しそうな目でじっと見てくる。
「何」
「いえ、その席に私以外の人が座っているのを見るのは久し振りで、なんだか新鮮だなって」
「不似合いだろ」
「いいえ、とってもお似合いですよ! 禪院代表?」
 やたらと楽しげな声音はさておき、その言葉の響きはどこまでも自分の性に合わないと思った。会社だの責任だの社員だのと、抱えるものが多い役は向いていない。
 しかし、彼は敢えて腹心とは真逆の態度を示した。

「まあ悪くはない」
「おや、ちょっと乗り気になりました?」
「そうだな。お前に四六時中くっついて回ってたお陰で、多少業界の事情も覚えたしな」
「禪院さんにお任せしたら、今よりもっと大きな企業に成長するかも!」
「いやそれは買い被りすぎだろ」
 自嘲気味の笑いを含ませるが、澪は優しげに微笑を向け、緩く首を振った。心から信頼されているような気になって、危うくその眼差しに浸りそうになるのを振り払い、そろそろ本来の目的へと進む事にした。

「……澪」
 内密な話でもあるように指先で呼び寄せ、彼女を屈ませた。
「なんです……」
 そっと彼女の唇に指を当て、口を結ばせる。そのまま後頭と背に手を回して抱き寄せた。
「ぜ、……禪院さん……っ」
 彼女の耳元で、出来る限りの小さな声で囁き、すぐに体を離してやると、その面持ちは真っ赤に上気していた。

「わ……私、ちょっと席を外します……」
「着いて行こうか」
「だ、大丈夫です。すぐに戻ります」
「何かあればすぐに呼べ」
「はい……」
 可能な限り柔らかな声を出すように努めて言葉を交わせば、澪はややぎこちない素振りで扉に向かって歩き出す。そして一度だけ甚爾の方へ振り返り、少し大きめに開閉の音を立てたのだった。

 それから適当にニュースサイトを見漁っていると、扉を叩く音が鳴ったので返事をすれば、そこに現れたのは秘書であった。入るや否や、甚爾の姿を見遣った途端に眉根を寄せて、あからさまに不愉快だという顔をする。一方の甚爾は画面から目を離さずに淡白な姿勢を崩さない。

「何故貴方がそこに座っているの」
「ちょっとこいつを借りてんだよ」
「代表はどこ」
「さあな。社内にはいる。そのうち戻ってくんだろ」

 すると、突然嘲笑めいた笑い声が鳴る。
「……。懐柔は順調って訳なのね」
 甚爾が視線を彼女の方へ移すと、その表情は見たこともない嘲りの様相に歪んでいた。
「何の話だ」
「知ってるわよ。代表を誑かしてこの会社を手に入れるつもりでしょう? ボディーガードなんて良く言ったものだわ」
「だったらどうする。代表に告げ口でもするか?」
 口の端を吊り上げて見せると、女は余裕の笑みを返してきた。
「それは貴方次第ね。…………ねえ。貴方が欲しいのは権力? それとも財力?」
「端的に言えば金があればそれでいい」

「だったら話が早いわ。……私と取引しましょう」
 女は背を屈め、机に身を乗り出しながら卑しい笑みを近付けてくる。
「無理やり代表の地位を手に入れたって、貴方じゃすぐに潰されるわ。そしたら会社どころか手元には一銭も残らない」
「かも知れないな」
「何故か分かる? 経営の世界で大金を得るには知恵があるだけでは成り立たないのよ。必要なのは、人脈形成」
「周りくどい言い方すんなよ。つまりオマエも経営権が欲しいんだろ」
「察しが良くて助かるわ」

「なるほど。やっと尻尾を出した訳だな。……前代表殺しの犯人が」
「……それはちょっと違うわ。前代表が死んだのはあの子が邪魔した所為だもの」
「……。澪が?」
「私はもっと穏便に全てを手に入れるつもりだったの。それこそ、貴方のように代表に取り入って」

 言外にこれを理解した。
 秘書の女が澪の父親を殺した呪詛師を雇い、澪の暗殺を度々裏サイトで募っているのは、時雨を通して既知であった。
 しかし、澪が言っていた、父親の再婚の相手というのはどうやらこの女だったようだ。流石にそこまでは推察が及ばなかった。ともすると、初めから命を狙われていたのは澪であったのだ。

「狙いは父親の暗殺じゃなかったのか」
「ええ。私達にとって邪魔なのは娘だけだもの」
「あの人の愛も、金も、地位も。全部私が手に入れる筈だったのに。だから私はあの子の許諾なんていらないって言ったのよ。……なのに、馬鹿だわあの人。娘は説得出来ないし、その上庇って死んだんだもの」

 恭しく臥した眼差しは、追悼の意など全く持ち得ていない風であった。この女の風体は決して醜くはない。むしろ美しい部類の筈だが、眼前の顔付きはかつて彼が禪院の本家で見てきた醜い男達と同じにしか見えない。

「貴方達の信用関係は金が全てでしょ。それとも、忠義でも尽くす気になった?」
「ありえねぇな」
「だったら私と手を組みましょう。次の代表への根回しも出来ているから、報償の心配はしなくてもいい。必要なら前金も直ぐに用意するわ」
「軽く言うな。澪の依頼報酬は個人資産全てだぞ」
「二千億弱ってところ? 一年……いえ、半年時間をくれたら、それにもう五百上乗せするわ。もちろん、その間の衣食住はこちらで手配する。ああ、でも滞在場所は海外でもいい?」

 つらつらと語る女は至極楽しそうな面持ちだ。まだ甚爾が話に乗った訳でもないのに、ペラペラと忙しなく口が動く。しかし、彼はこの交渉を断るつもりはない。これなら十分だろう、と満足そうな笑みを浮かべた。
「まあまあ悪くはない」
「だったら交渉成立ね。始末の具体的な方法や日時はまた後で」

 甚爾は女が出ていったのを見届けると、書類の下に隠したボイスレコーダーを停止させた。
 そして、備え付けの収納扉を開ける。中で澪が膝を抱えてうずくまっていた。ゆっくりと顔を上げたその表情は、ひどく苦しげに涙を堪えている。
 そろそろこういう事態が発生するのを見越して、澪が部屋を出たように音で偽装していたのである。だがこの場に彼女を留まらせたのは間違いだったかも知れない。裏切り者が誰なのかを彼女自身にも見定めさせるつもりが、あの女が何でもかんでも喋り尽くしたのは誤算だった。

――にしても、悔しいでも腹立たしいでもなく、悲しい。か。

 父親の行動の意図が娘を庇う愛情によるものであった事実、最も信頼を置いていた人間の裏切り、それを一気に身に受けたのだ。
 四ヶ月前は怒りを露わにしていたというのに。いざという時には情けが勝る。心根の優しい彼女らしい反応だが、その姿はあまりに痛々しかった。

 せめて好きなように悲しませてやるのが慈悲かも知れないが、そうもいかない。盗聴器を通じて、あの秘書は然り、他の人間にはこの部屋の会話が全て筒抜けなのだ。
 そのお陰で秘書がまんまと術中に嵌ってくれた訳だが、それを相手に気取られてはならない。
 開こうとする彼女の口唇に人差し指を押しつけ、耳元まで顔を寄せる。
「これで終わりじゃねぇ。まだ泣くな」
 音を拾われない程度の声量で告げ、身を離すと、雑に目元を拭った澪は何度も頷く。
 そうしてしばらく時間を置き、澪に部屋へと戻ってきたかのように演じさせ、何も知らぬ振りを通した。
 努めて普段通りを保つ澪の様子を見ていると、胸中を強く圧迫される感覚に襲われたが、互いに今が耐え時である。

 次に秘書が甚爾の前に姿を現した時、いよいよ向こうから澪の殺害を企む確実な言質を取れる。上手く煽ってやれば、あれだけ口の軽い女なら、手を組む者が誰なのかも吐かせられそうだ。或いは、その人物も直接接触を図って来るかも知れない。

 しかし「後で」と言った割に、一向に秘書が現れない。
 何度か澪が席を外す機会を作ったというのに、それどころか澪の前にも姿を見せないのだ。
 部屋にも戻っておらず、誰に聞いても行方が分からなかった。
 こちらの策に勘付いて逃げたのかも知れないが、疑問が残る。あれだけ水を得た魚の如く語っておきながら、後になってその行動が間違いだったと思い直すものだろうか。
 考察する程に疑惑は浮かぶ。二ヶ月も要する高度且つ綿密なクラッキングを駆使せねば尻尾を掴ませなかった慎重な人間、それは本当にあの秘書だったのか。
 あの女は真相のごく一部に過ぎず、隠れ蓑にしている主犯がいるような気がしてならない。
 何せ、あの程度の消耗で手の内の全貌を晒してきたのが、実に意外だったからだ。己の考えは伏せて、まずは手始めといった具合に甚爾の狙いを引き出そうとしてくると踏んでいた。
 その為に、経営に興味があるといった素振りや、澪の懐柔を狙うような態度を何週間も掛けて盗聴させ続けたのだ。
 故にあっさり口車に乗ってくれたのは、それだけ相手が焦っていたと推察出来なくもないが、希望的観測の域を出ない。
 甚爾の頭の中で、秘書が逃げたという可能性の他にもう一つの憶測が浮かんだ。

 澪に何度か連絡を取らせてみたが、携帯に応答はなく、夜になっても折り返しさえなかった。
 確認すれば、どうも急遽体調を崩して早退した事になっていたと人伝に判明した。連絡が全く取れなかったのは、出先に一人でいる際に倒れ、更に本人の具合が相当芳しくなくて、澪に報告する余裕がなかったのだという。
 いよいよ黒幕の存在と、その人物に先手を打たれたという線が濃くなってきた。
 これ以上詮索するのは難しい。体調不良を持ち出されたら、過度に連絡も取れない。仕方なく、この日は諦めて帰路についたのだった。

 澪は自宅に戻ってきてからも決して悲哀の様を見せず平然を保っていたが、流石にこたえているのだろう。食事を済ませると、言葉少なに早々自室に入ってしまった。
 甚爾はそれを追いかけも引き止めもしなかった。向けられた背が、本心から一人になりたいと語っていたのを察したからだ。こんな折に自分がが求められない事をこれ程もどかしく思ったことはない。

 夜が明け、甚爾がリビングへと赴くと、昨日の痛々しい姿が嘘のように晴れやかな笑顔の彼女に出迎えられた。
「今日の朝は少しゆっくり出ましょう」
 昨日何度も見た作り笑いとは異なる清爽な微笑。見た所これは無理にこしらえた表情ではなさそうだ。
 しかし、こんなに早く立ち直れるものだろうか。一瞬そんな疑念がよぎったが、すぐさま思い出したのは暗闇で震えていた月夜の姿であった。

「……仕事に行くのか」
「もちろん。特に体に不調もありませんし。今朝も折り返しはなく、秘書が不在となってしまうので、その件も穴を自分で埋めねばなりませんから」
「一日ぐらい仮病でも使って休んでもいいだろ」

 彼が澪を引き止めようとする背景にあるのは、いつかの狸オヤジ共の井戸端会議だ。
 彼女は薄情だと侮蔑され、あまつさえ父親殺しを疑われている。彼女の立場は高いだけあって行動一つで大きく揺らぐ。
 盗聴器を仕掛けていた者の中に、澪を疑っている者もいれば、秘書の音信不通の元凶も潜んでいるならば、あの会社は魔境だ。まだ精神的に回復しきっていない彼女が行くべきではない。

「禪院さん。もしかして、心配してくださっているのですか」
「…………そういう訳じゃない」
「大丈夫ですよ。裏切られた事の悲しさも、逃げられてしまった事の悔しさも、まだ残っていますが。……でも、それ以上に、父が私をちゃんと愛してくれていた事を知れたから。……だから、父が救ってくれた命を私は懸命に燃やすのみです」

 口ではなんとでも前向きな事を言える。父親が澪を想っていた事実を知った今だからこそ、余計に悔恨が肥大するのではないか。
 己の感情を巧みに隠せる彼女の強さも、優しさが生む弱さも知っているからこそ、彼の身内にはそんな心慮が募っていた。
 猜疑が拭えない眼差しを向ける甚爾に、澪は観念したように、そして寂しげに眉尻を下げた。

「……母を四年前に亡くした時。私も父も絶望して、何も手につけられなくなりました。でも、このまま母だけではなく、父までも失うと思ったら、もっと怖くて」
 語り始めたその面持ちは、いつかの「怖かった」と零した声音と重なる。
「死に物狂いで奮起して無理矢理立ち直らなければ、きっと私は大切なものを全て奪われてしまうと思ったんです。だからでしょうか。何かに打ち込んでいた方が立ち直りが早いんですよ。その所為で薄情者だと思われてますけどね」
 もしかすると、彼女の耳にはあの下らない男共の言葉は全て入っているのかも知れない。好き勝手に広がる陰口を知りながら、それでも己の意志を曲げずにいる彼女を健気にすら思う。

「でも、別にいいんです。それは事実じゃないですし」
 そう言うと、彼女は閉ざした口唇を何故か恥ずかしそうにうねらせる。
「……禪院さんだけが、私のこと、分かってくれているから……」
 口篭らせながら、長く濃いまつ毛が白い肌に影を落とす。次第に顔をほのかに血色に染めあげ、面映そうにする姿は言葉を失うまでに清艶だった。

やまない雨も
晴れない雲も知った今