したたかな涙
8

 ふた月ほどが経ったある日の朝方、玄関付近で物音がしたので見に行くと、スポーツウェアを着た澪の背があった。彼女は明らかに外へ出ようとしているが、一体何故自分を呼ばないのか。無警戒な行動に甚爾は顔をしかめる。

 式神を使う呪詛師を追い払って以来、これまでにもう九人の刺客が送り込まれてきた。当然全ての呪詛師は暗殺失敗を喫している。
 その内の二人が単独、また別で三人が結託し邸宅に忍び込もうとしたのだが、敷地内に踏み込ませる事なく、甚爾は全員を排除した。在宅を狙った輩には命の保証はしないと暗に警告したつもりである。
 二ヶ月前までは、いかなる時でもどんな手段を駆使して狙って来たとしても、一度だけは死ぬか引くかの選択肢を平等に与えるつもりだった。だが時が経つにつれ、この家で過ごす時間を壊されるのだけは許容出来ないという不可解な感情の結果がこれだ。

 不殺生の条件を無視した行動だが、申告しない限り彼女はその事実に気付くことはないだろう。片付けは時雨を使って首尾よく済ませている為である。
……ちなみに、最初に刺客を縊った際、秘密裏に仲介役を呼び付けて後始末を頼むと、凄まじい剣幕で睨まれた。しかしここへ来て澪に依頼解消を叩き付けられようものなら、金銭及び労力共々不利益を被る時雨としては、どうしたって甚爾と共犯にならざるを得ない。
 それを知っているからこそ、甚爾は仲介役をこき使っているのは言うまでもない。

 警告の甲斐があったのか、三人まとめて始末して以降の刺客の侵入先は総じて社内である。
確か、昨日また新たに雇われた暗殺者は、帰宅の折を狙っていたらしく、本社の地下駐車場に潜んでいたのを思い出した。
 何かしらの信念を掲げ徒党を組んでいる連中はさておき、金欲しさに裏サイトで稼ごうとする輩は、数も少なく仲間意識というのはないものの情報網は密接だ。代表の自宅に近付くのは、失敗した時のリスクが高すぎるという共通認識が十分広がっているという兆しかも知れない。

 そういう訳で、不知である為に澪の認識下では自宅は安全地帯だと定着していても致し方ないのだ。
 それは一切の報告をしていない甚爾に問題があるのだが、だからといって家なら安全と過信されては困る。何者かに命を狙われている自覚は常に持って然るべきだろう。
 呪殺を生業とする者全員が全員思慮深く賢いとは限らない。中には呆れる馬鹿もいるので、今後も在宅や就寝時間を狙ってくる者を完全に抑止する事は出来ないのだ。
 甚爾はあえて気取られないような足運びで至近距離まで歩み寄り、唐突にその背に声を落とす。

「どこに行く気だ」
「わっ……!? ぜ、禪院さん!?」
「一人で外に出るな」
「も、申し訳ありません。……敷地内なら大丈夫かなと、思って……」
「あの庭で何する気だったんだよ」
 服装からして体を動かす目的がありそうなのは見てわかる。だが、それが今までにない行動だから疑問なのだ。習慣化された行動なら敢えて問いはしなかったが、何かを隠そうとしている様子が引っかかる。
 澪は口ごもって大層言いづらそうに狼狽した。
「あの、じつは。最近自分でも驚く程にとても食欲が増してですね……」
 それだけで大体察したが、一応言葉を待つ。
「……自然な事ですが体重も順調に増えていまして。このままだと、見苦しい姿になってしまうと危惧しておりまして。それで庭内を走ろうかと……」
「言うほど心配する事か?」
 軽く全身を見ても、さして太っているという所感は抱かない。むしろ出会った二ヶ月前は細すぎる方だった。贔屓目なしに今の方が適度に肉が付いて、肌艶も良くなり、見栄えは更に整ってきていると言ってもいい。

「……禪院さんは、気になりませんか?」
「全く。逆にもう少し肉をつけた方がいいくらいだろ」
「ほ、本当に……? 気を遣ってくれています? 私、着痩せするタイプだったかも……」
「なら脱いで見せてくれんのかよ」
「ぬっ……」
 軽くからかいの笑みを向ければ、顔を淡い血色に染め上げて澪は盛大に首を横に振った。
 やや強引ではあったが、己の体型に問題が無いのは納得したらしい。それでも体を動かしたいから一緒に庭を歩こうと誘われ、あまり気乗りはしないが甚爾も連れ立って外へ出た。

 芝生が敷かれ、木々に囲まれ、そして噴水まである庭は、中規模の公園に等しい。
 まさか自分にこんな穏やかな時間を過ごす日が訪れるとは思わなかった。澪と並んで歩きながら、ぼんやりと彼はそんな事を考えていた。
 勿論、周囲への警戒は怠っていない。それでも、これまでの彼には一時たりとも平穏の享受が許された事はなかった。
 朝露にぬれたあちこちの芝の葉が、粒の光を纏って輝いている。目覚めたばかりの空気は夜の冷たさと、微かに湿った草木の香りを帯びて肌を撫でてくる。
 そして小鳥の鳴く音が聞こえると、突然手を引かれた。澪の望むままに付いて行けば、梢にとまった小鳥を指差した彼女が嬉しそうに笑った。

「時々遊びに来てくれるんです。鳴き声が独特だからすぐに分かりました」
 耳を澄まして目を閉じる彼女の姿体に、木漏れ日が閑やかに揺れている。葉擦れの音も小鳥のさえずりも、造化の妙の全てを彼女が奏でているようだった。
 己の外に広がる、数多の世界の美しいものたち、それらが澪を通して初めて見えた気がした。

9

 澪の依頼を受けて四ヶ月。
 飽きもせず入れ替わりに現れる呪詛師を追い払うのにも随分慣れた。三日前に映えある二十人目を追い払った所だ。金で動く呪詛師の長所は、不利益を嗅ぎ取った瞬間、即刻手を引く潔さだ。
 奴らの大半は、自分は命を躊躇いなく奪う癖に、己の命は乞うてでも守ろうとする。当然依頼人に義理など持ち得ない。これが功を奏した。
 そろそろ澪の落命を望む人物も焦り出す頃合いだろう。
 痺れを切らした本人が直接動き出してくれれば彼の思惑に嵌ったも同然だ。もう澪の父親を殺した人間の目星はついている。罠も仕掛けた。あとはゆっくりと獲物が掛かるのを待つだけだ。

 この日は少々早く目覚めたので、たまには食事の支度を手伝ってやろうかとリビングへ行くと、また彼女に蠅頭が二、三くっついていた。夜の間、形を成すまでに成長したのだろう。
 およそ一月。彼女に纏わり付く蠅頭を祓っても、それ位の期間でまた呪いが集まってくるのである。

「澪、ちょっと止まってろ」
「あ、やっぱり! なんだか体が重いなあって思ったんです」
 短刀を部屋から持ってきた彼は、そう呼びかけ鞘から抜く。すると澪は姿勢良く立ったまま甚爾の方を向いた。
 すぐさま軽く振って呪いを祓う。こうして澪に集まる呪霊が顕現する度に祓うのも習慣になってきた。初めて目の前で刀身を出した時は驚かれたが、今では彼女は甚爾が短刀を手にすると「お願いします」と背筋を伸ばして待ち構えるようになった。
 小型とはいえ刃物を向けられているのに、この警戒心のなさには呆れる。
 だが、彼女が甚爾に全てを委ねざるを得ないのも、致し方ないのである。
 彼は澪に呪霊の存在を未だに伝えていない。体が時折重くなる理由を全く知らないまま、軽くなる理由も知らないままでいるのだ。
 勿論彼女に何がどうなっているのかと問われたことはある。そうすると決まって甚爾は「そういうもん」とはぐらかしてきた。追求を諦めた澪は、質問をしなくなった代わりに、甚爾が呼び掛けると大人しく身を委ねるに至ったのだ。
 頑なに呪霊の存在を教えようとしないのは、彼女の元に好き勝手に集まる負の感情も、歪な姿の呪いも、彼自身が認めたくなかったからなのかも知れない。

「やっぱりすごいですね。禪院さんのおまじない」
 ありありと尊敬じみた色を瞳に表す彼女に、甚爾は少々目を見張った。
 しかし、その小さな驚きはすぐに胸懐の奥へしまい込む。
「……おまじない、ね」
 穿った受け取り方をすれば、彼女の一言を随分な皮肉に感じたかも知れない。けれど、彼女は何も知らないからこそ、陰りのないその言葉はなんとなく聞き心地がいい。呪術を扱えない落伍者たる自身を、彼女だけはそう思わずにいてくれるのだと、そんな希望さえ抱いた。

「あ。禪院さん。ちょっと、待って下さい」
 出掛ける間際、呼び止められた甚爾が振り返ると、ゆくりなく身を寄せてきた彼女が、額を彼の胸元に添えて頭を預けてきた。
「なんだよ」
「元気の充電です。……ふう。おちつく……」
「それ意味あんのか」
「……はい。効果抜群です。どんなマッサージもセラピーも療法も、貴方には敵いません」
「んな訳ねぇだろ」
 呪霊を祓っているのとは異なり、こんな事に何の意味があるのかを彼は見出せない。リラクゼーションを求めるのなら、彼女が連ねた手段の方が余程効果があるだろう。しかし澪は緩々と首を振る。
「ほんとうです。こうして、禪院さんの側にいるって感じるだけで。身体も、心も穏やかになるんです」

 あり得ない。そう頭の中で返答しながらも、澪の声は世辞でも媚態でもなく、本気であるように聞こえる。つまる所、そう言われて悪い気はしなかった。
 控えめに彼の体に手を添えた彼女へと、気付けば彼もまた触れていた。
 頭の上に掌をそっと乗せると、澪は目を丸くしながら顔を上げて見上げてくる。羞恥じみた居た堪れなさに甚爾は目を逸らしながらも、髪をゆっくりと撫でた。
 すると許容を理解した彼女は、彼の胸元に頬を埋めて背に腕を回してきた。

 これ以上受け入れてはならないと分かっている。それでも、触れずにはいられなかった。柔らかに抱きすくめれば、彼女の悩ましくも幸せそうな吐息がもれる。
「あたたかい……」
 もう後戻りは出来ないかも知れない。それでもいいと思い始めていた。

それは近くではなく
側にいるということ