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結局一週間経っても秘書は姿を見せず、連絡も寄越さず、遂には手書きの辞表が郵送で送られてきた。
あまりにも不自然だが、澪が言うには辞表の筆跡は間違いなく彼女のものであったらしい。言質を取られたことを察して逃げた可能性もやはり否めない状況だ。
しかし直接その眼を見て言葉を交わした甚爾の所感は、あの女は別の人間に口を封じられた、である。
とはいえ死体は未だ発見出来ず、居住も引き払われ、事実上秘書は失踪した。実に煮え切らない幕引きである。
だが、澪は仕切り直して黒幕を見つけ出そうとは言わなかった。彼女も秘書の失踪の不自然さを察している筈なのだが、あの日以来、話題にも上がらない。
つまり澪の沈黙は「父親を殺したのは秘書であり、真相は解明した」という結論なのだ。
だが甚爾は彼女の結論に疑問を呈さずにいる。
彼は複雑な念に囚われていた。身内の裏切りを知れば知るほど、彼女は悲しみに苛まれる。だから彼女が満足したのなら、これ以上その身に危険がやって来ないのなら、復讐など終わればいいと。
だからと言って、期間の終了を打ち明けないのは、まだ呪詛師が送り込まれる危険性が残っているという懸念と、このまま惰性で澪との生活を続けたいと言う邪念が包含しているからであった。
どちらの感情にも折り合いがつけられないまま、ひと月近くが経過した。良いのか悪いのか、秘書が失踪してから刺客がやって来なくなった。
時雨によると、その日以来暗殺の要望は取り下げられ、今も新たな依頼は上がっていない。
そうして二人の間に、いよいよ終幕の空気が漂い出す。
ある朝、食事の支度をしている彼女を見遣れば、また新たに蠅頭が纏わりついていた。
何も言わずに近づいてそれを祓うと、手を止めた澪が振り向く。
「あ、禪院さん。おはようございます。いつもありがとうございます」
澪は晴れやかな笑みを浮かべ、そして少し困ったように首を傾げた。
「……禪院さんのおまじないがないと、私、大変かも知れないですね」
「何が」
「貴方に出会った日を境に、この身の軽さを知ってしまったので」
彼女が甚爾に心を許し、過去を語ってくれるようになってから得た推測だが、彼女に呪霊が纏わりつくようになったのは、恐らく物心が付いて間もない頃からだ。
あそこまで大量に蠅頭を引き連れるまでに至ったのは、恐らく代表に就任してからだろうが、幼い頃から常に呪いに苛まれていたのだ。それどころか、苛まれているという実感さえ日常となる程、他人の嫉妬や害意は彼女の生活に深く根付いていたようである。
「軽いと言うのは少し違うかも。こんなにも私は自由なんだって、貴方のおかげで知れたんです。……だから」
不意に言葉が途切れる。彼女が何かを堪えるように強く拳を握ったのが見えた。
「……ねぇ、禪院さんって下のお名前は?」
「…………甚爾」
「甚爾さん、かぁ。……ふふ、甚爾さん」
嬉しそうに笑えば、その途端つぶやかれた名前に温度が与えられたようだった。
「もうすぐ出来ますから、待っていて下さいね」
料理に向き直った彼女の小さな背を見下ろし、彼は不意に伸ばしそうになった手を引き戻した。
未だ彼は身内の葛藤に決着がついていないのだ。そしてその感情がなんというものなのか、その正体さえ分からずにいる。ひどくもどかしかった。
食事を終え、まだ席を立たない内に、ゆくりなく澪が深々頭を下げてきた。
「甚爾さん。約五ヶ月の間、私を守って下さり、本当にありがとうございました」
「……オマエ、このまま代表を続けんのか」
「ええ。甚爾さんが経営権は断固として不要と仰ったので。……進めたいプロジェクトも沢山ありますし、それに。これからもお父さんの会社を守り続けたいから」
真摯の色を浮かべながら、彼女は目を細めた。
確かにひと月の間、安全な日々が続いた。けれども黒幕の存在を否定できるだけの安心材料など、あってないようなものだ。甚爾が側を離れた途端、暗殺依頼が再開するかも知れない。
それでも敢えて、今後の身の危険について触れないのは、未解決でも構わないという諦めに思えた。
加えて、この契約が終われば互いが全くの他人に戻ってしまう事を彼女は受け入れているのだ。
その態度は、二人の間を繋いでいたのは依頼と報酬しかない、と断言されているように感じる。もしも自分が金にしか目がない男だと認識されているのだとしたら、少々心外だ。不満を孕んだ視線を外すと、少しの沈黙が生まれた。
いつ澪が終わりを告げてくるのかと待ってみたものの、一向に言葉が発されない。
自分から切り出しておいて、最後はこちらに投げる気なのか。
そんな静かな文句を眼差しに湛え、改めて澪の双眸を見遣ると、その目に涙が浮かんでいたのを認めた。
にわかに不満の心はどこかに消え去り、ひとえにその悲しみを止めてやりたいという殉情に、彼は口を開いていた。
「澪。残念な知らせがある」
すると彼女は潤む目を瞬かせる。
「秘書の遺体が見つかったんだと」
「とうじ、さん……」
「契約条件は"父親殺しの犯人を明らかにするまで"だったが、黒幕は他にいるって事だな」
当然、秘書の遺体発見など偽りだ。しかし完全な嘘でもない。
すると澪はにわかに立ち上がって、甚爾の元へ駆け寄ると、彼が立ち上がる間も無く、上に乗って抱き縋ってきた。
「本当は、もう貴方を巻き込みたくないんです。貴方は強いと分かっていても、危険にさらしたくない」
身を寄せる小さな体が震えていた。
「でも、それでも私は……甚爾さんから離れたくない。……ごめんなさい」
彼もまた身を寄せる彼女を受け入れるように、その背に手を回す。
「勘違いすんな。こっちは大金がかかってんだ。送金前にオマエが死んだり、バレて契約を無効にされたらかなわねぇんだよ」
首元に埋めていた顔をぱっと上げた澪は、目を丸くしている。
「甚爾さんって。……素直じゃないんですね」
「どこが。ついさっき素直に事実を申告しただろうが」
「ふふ……そうでしたね。……ありがとう。甚爾さん」
結局彼女は泣いてしまった。悲しくても嬉しくても彼女は泣くのだと知った。いくらなんでも涙腺が脆すぎやしないか。思わず穏やかな笑いが生まれる。
「泣くなつったろ」
眦からはらはらと零れる涙を雑に指で拭い、それから彼は顔を近づけた。
ほんの僅かな視界の暗転と、口唇から伝わる温もりが心地良い。
名残惜しさを残して離れると、澪が大きな目をさらに丸くして甚爾を見つめた。それから時を交わさず、頬を退紅に染め上げて、たおやかに緩む。
嬉しげに目が細められた途端、そこからまたひとつ涙珠が落ちる。彼が身を落としていた箱庭は、もう跡形もない。
やがて溶け落ちる箱庭
END_2022.0410_