したたかな涙
7

 浅い眠りの最中「お父さん」と、澪の叫ぶ声が聞こえた。起き上がって時刻を確認すると、午前二時を回っている。
 昼間、式神を使う呪詛師を追い払って以降、特段問題は発生しなかった。帰路や家に着いてからも同様で、尾行や待ち伏せの様子もなし。未明の現在も、家の中にも周囲にも怪しい気配はない。だが、先程の声が空耳だったとは思えない。
 扉を開けて廊下の様子を窺えば、微かだが足音が聞こえてきた。その足取りは落ち着いていて、何かから逃げている風ではないので恐らくは放っておいても危険はなさそうである。大方リビングに水でも飲みに行った程度の些細な事だろう。
 だがその推察に反して、彼の足は様子を見に行くべく廊下へと一歩を踏み出していたのだった。

 暗いリビングを目探しすると、部屋の奥、窓際の縁で膝を抱えて座り込む澪の姿がすぐに見つかった。裾の長く広がった白い寝衣が、燐光を放つが如く月の光を集めて淡く映えている。
 近付いていけば、彼女の体が震えているのが分かった。

「……明かりくらい付けろよ」
 途端、肩を大きく振るわせた彼女が、弾かれたように顔を上げた。その頬は濡れていて、瞳の縁からはとめどなく涙が溢れている。次々と滑り落ちる雫が、月光を内に孕み白く光っていた。どこか居た堪れない心持ちになって、彼は無意識に目を逸らす。すると、夜の底に静かな声が落とされた。

「父の身に起きた事は。人智を超えていました。……私の目の前で……息絶えたその姿は。凄惨でした」
 何かに貫かれたように大きな穴が突然父の胸に空いて、そして、引き千切られるように裂けたんです。そう付け加えた声音はひどく小さく、怯えを包含している。

「父と口論になって突き飛ばされたと言いましたが、あれは嘘です」
 甚爾は視線を彼女に戻したが、もうその表情を確める事が出来なくなっていた。彼女はまるで醜いものでも隠すように、横向きに座り直していて、顔は窓の外に向かって背けている。
「突然、再婚を考えていると言われて……。冷静になれなかった。父は落ち着いて話をしようと何度も私を諌めようとしたんです。でも」
 堪えるように言葉を止め、そして次に紡がれた一言は哀しげに震えていた。
「……怖かった」

 それは「行かないで」と涙に濡れた一言と同じ響きだった。その矢庭、甚爾の脳裏に浮かんだのは出会った時に見た、俯く泣き顔だ。
「だって、私は。収益を生むだけの存在で。お父さんにとっては会社と資産が全てだから。……だから、私は大切にしてもらっていたのに」
 まるで堰を切ったように滔々と、しかし苦しげに息を途切れさせながら、彼女は罪を白状するように言葉を紡いでいく。
「私のたった一人の家族を、誰にも取られたくなかった。捨てられたくなかった。……どうか納得して欲しい、なんて言われてしまったら。それ以上拒否なんて出来ない。だから聞く耳を持たずにいたんです」

 花がくずおれるように澪は項垂れた。
 だが時を交わさず頭を持ち上げ、普段の調子に戻ったかのように、穏やかな声を響かせる。
「……私が、その願いを拒みさえしなければ。父は死なずに済んだんじゃないかって、そう思うんです」
 彼女は未だ窓へ顔を向けたままだ。しかし、その表情はどんな感情に染まっているか、今は分かる気がする。

 一つ、甚爾は真偽の定かではない話を思い出した。情報の出どころは、彼女の息のかかった役員で、その人物は澪を憐れむ発言をこぼしていた。
 彼女も口にしていたように、父親にとって、会社の存続と繁栄こそが第一であり、澪は企業をより成長させるための道具に過ぎない。娘の価値など、収益や権力に比べれば取るに足らないものだと捉えていたのでは、という見解である。
 もしもそれが真実ならば、そんな薄情な男の為にいちいち悲しむ必要がどこにあるというのか。憐れみ、羨望、心虜、苛立ち、彼の内では次第に様々な感情が綯い交ぜになっていく。

「……。泣くな」
 そして彼女の背に寄り添うように隣に腰掛けたものの、そんな陳腐な言葉しか出ない事に、彼自身がほとほと呆れ返った。女の扱いには慣れているつもりだった。しかし、今に限っては泣き濡れる女を扱う上での正答が、全くもって見えない。
 この凡庸な一言に意味などない。意味のない言葉でその場を繋ぐしか出来ないほど、泣き濡れる彼女を……己の感情をどう扱えばいいのか分からない。そんな情けない嘆きである。

「…………ないてません」
 戻ってきたのは不満そうな、それでいて、ひどくつたない呟きだ。さながら、子供が図星をつかれたのに、往生際悪く過ちを認めようとしないようである。
 それにつられて、甚爾も思わず大人気なく身内の不満が口をついて出た。
「オマエを利用して私服を肥やして、その癖どうせ親らしい事なんて何もしてねぇ奴だったんだろ。そこまで惜しんで義理を通す必要がどこにあるんだよ」
 澪は、ゆくりなく甚爾の方に体ごと向き直った。部外者の無遠慮な発言に、怒りの反論でも向けられるのかと思ったが、予想に反して至極彼女の表情は穏やかだ。
「……それでも、私の家族……私の父はたった一人だけだから」

 そうして彼女は切なげに笑った。理屈ではないということだろう。だが到底共感出来ない感情だ。しかし、その不器用さがどうにもいじらしく感じて、罪悪感というものを初めて抱いた。
 あまつさえ、その無償の情を受ける父親に対し、明白な「羨ましい」という感情が身内に灯るのを許していた。
 今更前言を撤回し謝罪するつもりはないが、これ以上彼女の意思を否定するつもりもない。けれど無神経が過ぎたという自覚はある。ならば多少なりとも反省の意は明示すべきだろうか。
 細い息をつき、澪の頭に手を置いて雑に撫でた。これが彼なりの最大限の譲歩なのである。

 すると、澪はおもむろに両手を甚爾の体に回して身を寄せてきた。その思いもよらぬ行動に、彼は引き剥がしもせずただ不動として、縋りつく姿体を見下ろすしか出来ない。
 彼は慰めてやろうなどという配慮はひとかけらも持ち得てはいなかったので、まさか急に抱き付いてくるとは予期していなかった。
 澪のこういう純粋さは呆れる程に危うく、そして当惑を招く。脆くつけ込みやすい女であると同時に、無自覚に相手の懐まで開かせ、入り込んで来てしまう女なのだ。
 だが、彼女はどうも慰めを求めているのではなさそうである。尚更彼は逡巡した。
 抱きしめ返してやればいいのか、それとも口付けの一つでも交わせばいいのか。しかしながら、そのどちらも澪は望んでいないのだろう。甚爾が何もせずにいると、胸元に顔を埋めたままだった彼女がゆるりと上を向き、双方の視線が交わった。

「禪院さんは、父に少し似ています」
 前触れもなく、澪は円やかに眦を細めた。
「とは言っても、私の父は貴方のように容姿端麗かと言われると難しいんですけれど」
 そうして次は弾んだ笑いを声に含ませる。
「声が、似ているんです。……だから、はじめに貴方と言葉を交わした時、嬉しいようで悲しくなって。どうしても堪えられませんでした」
「……そうか」

 そう零した彼の声が穏やかだったのは、澪の心の安らぎが、温もりを通じて溶け込んできた所為かも知れない。
 彼女が甚爾の体を離すまでの間、言葉などはひとつも交わさず、ひとえに寄り添う体温が染み込んでくるのを受け入れた。それは十数分にも満たなかったけれども、儚い間だからこそ時間が緩慢に流れているように彼は感じていた。

 停止したかのように滞る時の流れ。それと似て非なる感覚が彼の身内にある。
 もう二度と外界などに目を向けないよう、薄汚いものを寄せ集めて端正に作り上げた、諦めの価値観。
 その身内の矮小な世界は、俗世への期待と他人を切り離し、過度に接触せず生きていく為の箱庭とも言えよう。
 そこから逸脱せずに生きるという事は、期待も幸福も救いも得られない。しかし無意味に絶望する事もない。放恣にかまけて遊生夢死を全うするだけの至極簡単で無意味な堕落の設計だ。
 しかしこの小さな世界は現在、破壊の危機に陥っている。
 澪が心の内を見せる程、彼も同じように胸懐を開きそうになるからだ。
 それだけならまだいい。澪がもたらすであろう最たる危険は、関心を捨てた外の世界へと甚爾を連れ出そうとする事なのだ。……それは洗脳と言い換えてもいい。
 彼女の大きな眼の縁に、光を孕んだ涙が溜まり、揺れる。それが救いを求めんばかりに零れ落ちた時、彼の行動は箱庭の理性と乖離してしまう。
 もしも、あのきらめく雫に触れようものなら、たった一粒の涙で矮小の世界は溶け落ちるだろう。そして二度と戻る事は叶わない。それ程の凶器に思えてならない。

不確実だけが
鮮明に見える世界で