したたかな涙
6

 澪の護衛を始めて一週間、彼女を狙う刺客がついに動き出した。初めて社内で呪術の気配を感知したのである。執務室の本棚の一部が呪力を纏っているように見えたので漁ってみると、書籍の間に呪符が隠されていたのだ。それを取り出した矢庭、呪印の内から飛び出すようにして式神が現れた。
「御札? いつの間にこんなものが……」
 彼の手元を覗き込んだ澪は、顎に手を当て、呑気に首を傾げている。ひとまず彼女を棚と自身との間に押し込むようにして下がらせた。

部屋の中央を陣取る式神は、脚の長い蜘蛛に似た形状をしており、その体表は鉱物のような光沢がある。体躯を支えているのは四本の円柱型の脚だ。生物が有して然るべき目や口の類は無く、無機物と生物の入り混じった姿形である。
 甚爾の背丈を越える程の体長はないものの、それでも大型の部類だ。だが見掛け倒しで大した事はないと、彼は冷静に分析した。

「…………。禪院さん」
 やや臨戦体制に入った甚爾の様子で異常事態を感じ取ったのだろう。振り向けば、不安の色を揺らす瞳が彼を見上げている。
「問題ない」
 子供を諭すように軽く彼女の頭に手を置けば、その眼は忽ち頼りない色を打ち消し丸く開く。しかしすぐに剣呑な顔つきに戻ると、素直に頷きを返した。

 甚爾は式神に歩み寄りながら手早く体内の呪霊を出し、格納された刀剣の呪具を持つ。
 真っ向からこちらに向かって鋭い先端を突き伸ばしてくるその体ごと、難無く式神を一振りで両断した。肢体を支える脚が力なく揺らめくと、途端に体は左右に開いていき、跡形もなく霧散したのであった。

「あ、あの。終わった……のですか?」
 本棚の傍で佇立したままの澪が、恐る恐る首を左右に回しながら狼狽えている。
「まだだ。取り敢えずオマエは普段通りにしてろ」
 言い残して部屋を出ようとした彼であったが、慌てたように追いかけてくる足音の後、袖を弱く引っ張られた。
「でも」
「心配すんな。しばらくこの部屋には何も起こらねぇ」
「そ、そうじゃなくて……っ」
 軽く腕を引くと、容易く指の隙間から袖がすり抜けていく。途切れた言葉の続きを耳に入れず、彼は部屋を出た。

 向かった先は地下倉庫だ。中へ入って奥へ進むと、立ち並ぶ棚の一角にスーツ姿の男が一人、段ボールと向き合っている。
 社員を装っているが、体内を巡る呪力や残穢は隠せていない。この男が部屋に呪符を仕込んだ式神使いだ。相手は全く甚爾の存在に気付いていないのか、黙々と呪符を弄っており、どうやら次に襲撃する機会を伺っているらしかった。

 男に気取られない間際まで近付くも、甚爾は僅かに逡巡した。捕らえるのは容易い。しかし、その後如何様にすれば最良の戦略に繋がるだろう。依頼人の素性を吐かせるか、それとも依頼を放棄させて、しばらく様子を見るか、いっそ問答無用で殺めるか。
 判断を選び取るのに時間は掛からなかった。甚爾は呪詛師の背後へと回り込むと、その襟首を掴む。一気に頚椎を圧迫するまで力を込めた。
 相手は悲鳴も上げず、抵抗もせず、ゆっくりと両手を上げるが、手の内から伝わる脈拍は焦りと緊張で暴れていた。
 徐々に締め上げるように掴む力を強くしつつ、甚爾は低く告げた。

「選ばせてやる。死ぬか、潔く手を引くか」
「……分かった。この件には、もう関わらない」
 確と男の返答を聞いても甚爾は手を離さなかった。次第に男の手が震え出す。恐怖ゆえではなく、神経の麻痺と共に意識が朦朧とし始めているのである。それでも呻き声一つ発しないのは、己の言葉に偽りはないという必死の顕示なのだろう。
 呪詛師の足元が揺れ始めるのを認めると、甚爾は指に掛けた力を抜き、衣擦れの音も立てずに離れ去った。
 相手に一切姿を見せる事なく倉庫を後にした彼は、執務室へと戻る道中、仲介役に電話を掛け、通話が繋がるやいなや用件を冷然と述べた。

「例のサイトで今後澪の暗殺依頼が出て来るかどうか見張っとけ。依頼人の特定も忘れんなよ」
「おい待て。何を当然のように協力させようとしてんだ。俺はオマエの仲間でもなければ、まして探偵でもない。その辺の調査も含めてオマエの仕事だろうが」
「うるせぇ。しれっと仲介料二十パーも取りやがって。その分くらいは手伝え」
「二千億の大金を秘密裏に動かすには、こっちにも結構な出費と労力が要るんだよ」
「それでも四百はウマいだろ。いいからテメェも働け」
 数秒の無言が流れたが、やがて観念したように舌打ちが聞こえてくる。
「……これで失敗したら、金輪際仕事は振らないからな」
「誰に言ってんだよ。ガセネタ寄越すんじゃねぇぞ」
 言い終えると、甚爾は相手に小言も発させず一方的に電話を切った。

 そういえば執務室を出る直前も似たような事をしたと、不意に思い出した。
 澪は随分不安そうにしていたが、そのまま何の説明もなく置き去りにして来た。あの様子で大人しく己のやるべきことに手を付けられているだろうか。自然とそんな思惟が浮かんだ途端、彼の足取りは止まる。手の内の携帯を眺め、己の判断は失敗だったかと省みた。

 敢えて呪詛師からは何も情報を引き出さず、尚且つ手を引かせたのは、敵をもう少し泳がせてより精度の高い情報を得る為の策略だ。……策略に違いはないのだが。しかし、能率は悪い。
 何度も呪詛師を追い払うのを繰り返し、元凶の焦燥を煽り消耗させるには良策だが、故に攻防が長期となるのは必至。だらだらと長引く面倒な仕事は、彼の望む所ではない。
 とはいえ、甚爾にはいかなる呪詛師が来たとしても、護衛を全うする自負はあるし、また、澪の敵が複数である可能性を鑑みたら、大間違いの策でもない。
 しかし、それでも納得できないものが内に滞留していた。彼の判断材料の隙間には、彼女との契約を早々に終わらせたくないという我意が密かに紛れ込んでいるのだ。
 この不可解なたった一つの要素を否定し、排除したいのだが、ふと気付けば彼女を想念している。そんな己に気付いてしまった。

 深まる思案の渦に飲まれながらも歩みを再開させたが、とうとう身内の感情と決着をつけられないまま、執務室へ到着してしまった。ここまで来ては最早引き返す場所もない。
 億劫になる心持ちを腹の奥に押し込めて扉を開けた。すると奥の席で澪がすぐさま顔を上げ、慌てて駆け寄って来る。

「禪院さん……!」
「何かあったのか」
 彼女は緩く左右に首を振ったが、両手は所在なさそうに胸の前で彷徨い、心許ない眼差しは甚爾の肩や腕、足元などを目探ししている。
 視線が上に戻って来て再び交われば、彼女はゆくりなく眉を落として、今にも泣き出しそうな顔をした。
「……お怪我は、ありませんでしたか」
 言い淀んでいたのはそんなさもない事かと、彼は思わずため息をつく。
「あるわけねぇだろ。雇い主が護衛の心配してどうすんだ」
「それは……そうなんですけれど……」
「さっさと仕事に戻れ」

 至極そっけない素振りで彼女の机に向かって歩き出すと、背後から小走りについてくる音が追い掛けてきた。他に掛けるべき言葉があったかも知れないが、盗聴器の件もあるので、ここでは個人的な会話を避けた方が懸命に思う。そんなあたかも理にかなったような結論に逃げた。

……見上げる眼差しが語っていた。澪は甚爾を過小評価しているのでも、己の身の安全を惟ているのもない。ひとえに甚爾の無事を願っていた。そう言われている気がしてならなかった。
 彼女の瞳の奥に慕情めいたものがあると感じたのは、願望の透けた錯覚だろうか。

濁りも淀みも
愛すと言うのか