したたかな涙
5

 午後七時を回った辺り、彼女と会社を出て帰路に着く。現在まで特に問題は起きていない。澪の自宅は本社と同じ港区にあるのだが、これから甚爾も同じ場所へ向かう。
「余っている部屋を自由に使っていいので、仕事外の時間も同じ家の中で寝泊まりして守ってもらえないか」と頼まれたからだ。
 私邸警備は常駐しているものの、これまで父親の意向で自宅の中にまでは入れておらず、父亡き今もその方針を変えたくないのだそうだ。しかし甚爾に限っては、邸宅に入っても構わないのだという。
 彼としては相手の事情などどうでも良く、むしろ頼まれるまでもなく元より彼女の自宅に転がり込むつもりであった。
 目下ほぼ文無し且つ住居もない。どうせ金持ちの邸宅なら、互いの生活に支障をきたさず生活可能なゲストルームの一つや二つ、備えてあって当然だろう。便宜上ボディーガードを名乗っているが、正規の職業に属していない彼には、そもそも要人警護に当たっての厳しい規律は存在しないのだ。
 申し出を受ける条件として「客人として丁重に扱うのなら、プライベートの警護もやってやらんこともない」と冗談めかして言えば「勿論しっかりおもてなし致しますのでご心配なく!」と、てらいもなく笑顔を返された。こういうのが純粋というのか、どうにも調子の狂う女である。

 いざ到着した邸宅を前に、甚爾は思わず目を見張った。想像以上の景観だった。外観は西洋の宮殿建築風で、エントランスをはじめ、中も個人宅とは思えない優美で上等な内装。個人宅ではなくもはや迎賓館だと言われた方が納得がいく。
 家の中を案内されるものの、まず始めに立ち入ったリビングダイニングは、一般宅のそれとは広さも設備もかけ離れている。例えるならホテルのロビーラウンジだ。
 かろうじてアイランドキッチンや冷蔵庫があるので、家らしさは垣間見えるものの、あえてそういう意匠にしているのか、まじまじ見なければ室内に溶け込んでいて生活感は薄く見える。
 最後に案内されたのが、これから甚爾が寝泊まりする部屋だった。言わずもがな、ここも高級ホテルの洋室といった様相で、バストイレ付きはさる事ながら、衣服をはじめとした必要な生活用品まで用意且つ各家財に収納済みだそうだ。
 この準備の良さから予想するに、彼女も始めから甚爾が申し出を断らないのを見越していたのではなかろうか。天然で純粋そうに見えて、案外強かなのかも知れない。

「今から夕食を作るので、少しお時間頂きます。食事はお部屋に運べば良いですか?」
 別々で食事を取っても護衛に障りはないだろう。ただ、この広い部屋で一人食事をするというのは、丁重なもてなしに慣れないが故に、落ち着かず居心地が悪そうに思えた。ならば、ラウンジにしか見えないあの広いダイニングでも、澪と二人で食べた方が多少はマシかも知れない。
「……いや、オマエと一緒でいい」
「いいんですか!?」
 おもむろに彼女は目を丸くし、ずいと甚爾に近寄った。彼女は興味や関心を惹かれると急に他人との距離を測れなくなる模様だ。
「なんでそこで喜ぶ?」
「だって、一人でご飯を食べるのは寂しいじゃないですか」
「一緒に食うのは家族でもない赤の他人だぞ」
「他人じゃないです。禪院さんは私のボディーガードですから」
「…………ならいい」

 彼女の感性は当分理解出来そうにない。無意味だから解ろうとも思わない。当人同士が何の問題もないならそれでいいと、身内の議論を惑溺に嵌る前に放棄した。
 食事が出来るまでの時間をダイニングで待つ事にした甚爾だったが、澪はその辺りのソファーに座って寛ぐ事なく、何故かキッチンへ向かって歩いていく。そして当たり前のように冷蔵庫から食材を取り出し、調理器具を用意し始めたのである。

「って、オマエが作んのかよ」
「ええ。驚きました? 極力食事は自分で作っているんですよ」
 時折見せる子供っぽい挙動を思い出すと、自炊をそつなくこなす姿がいまいち想像出来ない。若干の不安を抱きつつ隣に行き、その手元を見下ろせば、一応それらしく物は揃っている。だが器材は立派でも、それを扱う人間がポンコツでは宝の持ち腐れだ。
「警備や管理、それから清掃などは大変なので人を雇っていますが、自室はきちんと自分で掃除をしています。あと、衣服も自分でクリーニングに出しています!」
 何故か少し誇らしそうに言われたが、これを褒めてやるべきなのかは彼にはよく分からなかった。
「金があるなら全部任せとけばいいだろ」
「あまり生活力を無くしたくないんです。何でも人に任せきりでは、不自由な事もこれから出て来るかも知れませんし」
「ああ……。花嫁修行の一環って事か」

 揶揄うつもりで言ったものの、一気に顔を真っ赤にされた。たったの今まで淀みなく喋っていたのに、突然そんなウブな反応をされても、こちらも反応に困る。
「さ、さて! お話はこれくらいにして、早く作らないと!」
 見るからに動揺しながら彼女は忙しなく手を動かし始めた。あまり茶々を入れて怪我でもされては面倒なので、少し離れたソファーで寛ぎながら待つ事にした。
 少し時間を置いて横目に様子を伺ってみると、彼女はもう落ち着いていて、手慣れた様子で調理を進めている。どうやら料理ができるのは本当らしかった。

 小一時間経って、テーブルに並べられた料理に、甚爾は本日何度目か分からない驚愕を受けた。見るからに手の込んでいそうな洋食がテーブルに並んでいたのだ。
 肉の煮込みと、同じ皿に添えられたじゃがいものすり潰し、鮮やかな橙色をしたスープ、それからトマトや葉野菜などを具にした、一見パウンドケーキに見える名称不明の料理もある。
 それらが各々店で提供されるものの如く飾り付けられており、素人が一時間程度で作ったとは考えられない出来であった。「今日は気合を入れて頑張ってみました」と澪は胸を張って見せたが、そういう次元の話ではない。
 実際に食してみても、整った見た目に違わず美味かった。しかし自炊とはいえ、材料にそれなりの金が掛かっていそうなのは明白だ。
 生活力云々と語っていたが、これでは仮にいずれ家庭を持ったとて、同等かそれ以上の金銭感覚と財源がある相手か、あるいはこの生活水準に順応できるハイクラスのヒモでも連れてこないと苦労しそうだ。と、彼は柄にもなく余計な考えを抱いたのだった。

「禪院さん」
 食事を終え各々の部屋へ戻る折柄、不意に澪は甚爾を呼び止めた。食事の最中は軽やかだった声音が、嘘のように寂しげな呟きだった。
「禪院さんも、私が父を殺したのだと思いますか?」
「は?」
「昼間、父が亡くなった場所を言い当てたではないですか。会議の間、色々と調べていらっしゃったのでしょう?」
「オマエの線なんて始めから考えちゃいねぇよ」
「そう……なんですか?」
「多少策略家らしい腹黒さはあるんだろうが、人を手に掛けられる人間じゃない」

 正直、いの一番に疑うべきは彼女だ。父親が死んで最も得をしているのは誰かを考えれば妥当である。
 現状会社も傾く様子も無く、事実警察や身内にさえ怪しまれている。よって甚爾の返答は主観の域を出ない。
 別に澪に傾倒しているつもりは一切ない。ただ、彼自身にもよく分からないが、そう思いたいという願望が口をついて出た。実にらしくない反応である。誰に咎められているのでもないが、バツが悪く感じて視線を逸らした。
「こっちは金で雇われてるんでな。オマエだけじゃなく、自分の危険回避の為に判断材料を集めてるだけだ」
「……ありがとうございます」
 彼女は安心したように張り詰めた表情を崩した。
 話を聞いていたのかと呆れる程に、噛み合わない返答である。しかし、その顔があまりにも無防備で、みごとに毒気を抜かれた彼は、返す言葉が何も浮かばなかった。

「父の大切なものは、この会社でした。けれど、それを卑劣な行為で奪おうとした人間がいるのなら。……私はそれだけが許せないんです」
「父親の死に報いたいのか」
「いいえ。誰の為でもない、個人的な復讐ですよ。父を死に追いやった人間にだけは、何があっても私達の全てを渡しはしない。単なる利己ですね」
 澪にとって、余程父親の存在は大きかったのだろう。父親の大切なものが自身の会社だと言う点は少々引っかかりがあるが、その疑問を安易に紡がせない程に、語る眼差しは静かな憤りを孕んでいた。
 こんなにも鋭い眼光を湛えた顔も出来るのかと、感心めいた情が湧いて、彼はただ正視していた。
 すると、澪は怒りを瞳の奥へと仕舞い込んで、困ったように寂しげに笑う。
「……降りますか?」
「今更だろ。復讐とやらが終わるまでは付き合ってやる。……ただ」

 普段なら、依頼人の目的や理由など知っても無駄だからだと興味を持ったことさえなかった。しかし、無駄と知り得ていても彼の口唇はもう一つ、疑問を投げかけていた。
「復讐を終えたその後は――
 にわかに甚爾は口を閉ざした。無意識に彼女の思考の深みへ踏み込もうとしていた己に気づいたからだ。踏みとどまった彼に、彼女はひどく優しげに眼差しを綻ばせた。

「言ったでしょう。資産を全てお譲りしますと。それだけです」
 己のその後を語るつもりはない、そんな小さな拒絶が内在する眼であった。
 しかし見えざる壁を作る彼女に反して、目的さえ果たせれば死さえも覚悟しているのではと、甚爾は無意味に勘繰った。
「金を受け取った後は、依頼人が死のうがどうでもいい」それが彼の身内にある常識だ。今までは意識せずとも順守していた思考が、彼女の微笑ひとつで崩れてしまった無力の事実に彼は困惑した。
 そんな内心を知ってか知らずか、彼女は不意に軽い調子で手を叩く。

「あ、そうだ。ご所望でしたら、経営権もお譲りしますよ」
「……こっちは赤の他人で、その上素人だぞ」
「狡猾で卑劣な人間より、余程信用出来ます」
 彼女の怒りの程は何となく知れたものの、その感性はやはり理解出来ない。澪が強い嫌悪を向ける相手より、金だけの為に無関係の人間を殺めてきた甚爾の方が、余程狡猾で卑劣に違いない。多少抜けている性格とは言っても、甚爾がこれまで行ってきた所業の分別はついているだろう。
「そんな未来が来たら社員が泣くな」
「我が社の社員は優秀かつ聡明でタフですから大丈夫です。早々に見切りを付けて声の掛かっている競合へ移るか、取締と結託して正攻法で権利を奪いに来ると思いますよ」
「結局泥沼になんじゃねぇか」
「それはそれで楽しいですよ。各方面の問題をどう回避しようか、ここを死に物狂いで回転させるの」
「面倒くせぇよ。それに生憎、金は使い倒す方が慣れてるんでな」
 するとみるみる内に澪は憐れむように眉尻を下げる。
「ああ……。ことごとく博打に負けてしまうんでしたね……」
「……あの野郎」
 十中八九時雨が余計な事を吹き込んだのだろう。舌打ちを交えると、それを見て澪は小さく声を弾ませた。

……失言の後、早々に他愛のない会話へと切り替わったことに少しだけ安堵した。もしも、彼女がその心の内を曝け出していたら、どんな反応を返したか。自分自身でも想像がつかなかったからだ。

薄命ではないおまえ