したたかな涙
4

 数十分が経過し、プロジェクト会議とやらが始まる時刻となった。しかし甚爾は澪を会議室へと見送るも、同席はしなかった。
 事件の犯人探しに、多少はこちらも動いてやる必要がありそうだからだ。
 仕事内容は護衛だけだと割り切る選択肢はあれど、このまま四六時中澪に張り付いているだけでは、いつまで経っても金を得られないという懸念があった。
 警察が調査を難航させている上に、呪詛師が噛んでいる案件ならば、大枚叩いたとて個人が容易く全貌を明らかにさせられる筈がない。案外同業の視点の方が浮き彫りに出来るものも多いだろう。
 不本意だが、千六百億の為ならば軽微な労働だ。

 今の所、同じフロアには呪術や術師の気配も感じられない。流石に白昼堂々大勢の目の前で標的を呪い殺す馬鹿はいないだろうから、会議中ならば澪から離れても問題はなさそうだ。
 会議室に向かう道中、好奇の視線が痛い程だったので、そろそろ社内では、新代表が素性の知れない男をボディーガードとして連れ歩いている件はいかがなものかという噂話が広まっているだろう。
 信憑性はともかく、話の繋がりで澪と父親の的に位置付けられる人間の情報も、いくつか上がってくる筈だ。
 噂話とて、火のないところに煙は立たない。怪しい人物の名をいくつか得られたら、その周囲を詮索する事で、少しずつ彼女の人間関係を紐解き、真相に近付いていく算段だ。
 監視カメラの死角を選びながら、会議終了の時刻まで、甚爾は各共通スペースを渡り歩いたのだった。

 結果として情報は大量に入手出来た。むしろ量が多すぎてどれが真実なのかをさばけない程だ。彼女が手をこまねいている理由も分からなくはない。
 端的に言うと、怪しい奴が多すぎる。
 監査と役員の一部が癒着している可能性が高いだとか、各チーム長は、時折打たれる突拍子もないイベントやプロジェクトに振り回されたり、澪の父からややパワハラめいた扱いを受けており心労が絶えなかったらしいだとか、秘書の女は自分より年下で出来の良い小娘に嫉妬しているだとか。
 父娘に恨みを抱えていそうな人物が山程いる。加えて競合他社にも二人を陥れようとしている代表や会長がごろごろといるそうで、そこまで調べ上げるとなると、相当の時間や手間、人員が必要となる。だが社外の人間まで調べる余裕は現状無い。

 まだ澪達の会議は続いている。ならばまず内部の上役連中の嫌疑を確かめようと、彼は上層階へ登っていったのだった。
 とはいえ、社内で堂々と代表の陰口や不満を叩く経営陣の姿など、そう簡単に見られる訳がないだろう。ひとまず今日は誰がどの役職についていて、どの場所に滞在する傾向にあるかを確認しておくだけでいい。
 そんな心持ちで偶然通りかかった役員用の会議室をふと見た時、ガラスの向こうで、スーツを着こなしたいかにもな男達が集っていたのである。

「…………マジか」と思わず口に出しそうになるのを飲み込んだ。
 代表不在で経営会議などの重要な談義しているとは考えにくい。まさか澪が会議に出席しているのをいい事に、こちらで陰口会議でもしているのではなかろうか。
 早速男達の話を気付かれないように聞き込んでみると、実に辟易する内容であった。

「代表に着いてきた男は本当にボディーガードか? 何だあの目つき、誰が紹介したんだあんな男」
「個人的に雇ったそうで……まだ情報が無いんです」
「全く。得体の知れない人間を社内に引き込んで……。父親の件を軽く見てるんじゃないか」
「軽くどころか、なんとも思ってないんじゃないの。母親の時もそうだったけど、ちょっとばかり落ち込んだ振りしてすぐ仕事に戻って来たでしょ。肉親だってのに、全く。血は争えない薄情さだよね」
「……四年前に母親がいなくなって、次は父親が不審死。世間にはくも膜下で急死という事にはしているが……。薄情というより、どうにもあの娘には何かありそうじゃないか」
「おいおい。そんなきな臭い疑いがある人間が代表で良いのか? 我がグループは。とんでもない不祥事が発覚する前に、どうにかして失脚させられないの?」
「それは難しいですね。例の事件、真っ先に代表が捜査対象になりましたが、現状白です。それに先だっての取締総会も上手いこと根回しされて、あっさり彼女の代表就任が決定してしまいましたし。我々には打つ手なしです」
「いつかの汚職疑惑のなすり付けも、見事に躱されましたからねぇ。やはり見かけによらず切れますよ、あれは」
「娘の皮を被った狐だな」
「違いない。まあ表立った問題が無い今、現状は大人しく従っておく他ないという事だね」
「うん、それが妥当かな。就任会見以降もウチ評判良いよ。株価も安定しているし。むしろ上昇傾向でもある。野心を出さず、お狐様を丁重に祀っておいた方が、僕達も安泰かも知れないよ」

 そんな締め括りに一同は笑っていた。実にくだらない井戸端会議である。
 社員の噂話では、特に監査役と専務が怪しいと言われていたが、あの狸オヤジ共の内のどれかを指しているのだろう。

 澪は若い社員からの信頼は厚い。しかしそれに反して歳も役職も上に行くほど敵が多い。取締役に年寄りが多いのは父親が取り仕切っていた頃からの名残らしく、簡単には排除出来ないらしい。
 こんな泥沼の経営陣を相手に、若い女がよくここまで渡り合って来たものだ。そして、澪が父親の死を何者かの企みと真っ先に結び付けた理由がよく分かった。
 全くもって生き難い世界に身を置いている女だと思った。自分だったら面倒事に巻き込まれる前に、さっさと逃げ出すだろう。
……実際、似たような世界から逃げ出した結果が、この有様だが。

 そんな訳で、甚爾が澪の元へ戻るのと同じく会議は終了し、特に問題が起こる事もなく執務室へと戻って来た。
 チーム長は所属部署のフロアに戻り、秘書は未だに甚爾を信用していないという睥睨を残し、ドア一枚隔てた隣室に引っ込んでいる。
 引き続き澪が仕事に精を出す一方、甚爾はこの部屋の至る所にある、臭跡とも残穢ともつかない違和の正体を探っていた。
 秘書やチーム長は執務室を後にする際、しつこい位に「何かあればすぐに叫んで下さい」と澪に念を押していたが、警戒すべきは内部の人間共だろうが、と悪態の一つでもついてやりたい所だ。

 なんと、本棚や照明の縁の裏側などを調べていけば、巧妙に隠された盗聴器がいくつも見つかったのである。
 どれも機種が異なるので、どうやら同じ人間が仕掛けたのではなさそうだ。あまり考えたくはなかったが、敵が一人ではない線も濃厚になってきた。

――……もう少し泳がせた方がいいか。

 幸い澪は、背後にいる甚爾の行動を全く気に留めず、集中してパソコンと手元の書類に向かっている。盗聴器は取り外さず、彼女にも報告しないまましばらく過ごす事にした。

「澪」
「……ん!? は、はい……!?」
 勢いよく振り返った彼女は、椅子を転がす勢いで慌てて立ち上がった。ただ普通に呼んだに過ぎないので大袈裟に反応されてもこちらの方が疑問である。
「何だよ」
「あ、いえ。ちょっとびっくりして……、どうかなさいました?」
「オマエの父親はここで死んだのか」
「……。……ええ」
 鈍い動作で座り直した澪の声が沈んだ。
「その日は、些細な事で口論になってしまいまして。私は突き飛ばされて転んでしまい、……顔を上げた時にはもう、父が倒れていました」

 呪術絡みの死因と見て相違はなさそうであるが、やはり澪の言葉を聞く限りではその犯人が呪詛師とは断定しづらい。
 呪術師のみならず、呪霊の中にも、上級に位置付けられる強力なものは呪術を扱えるからだ。父親が過去、上級呪霊と何らかの接触があり、その際にマーキングされた呪いが時間、または特定条件によって発動し、呪殺に至ったという可能性も否めない。
 やはり初日では真相を明らかにするのは難しい。まずは盗聴器を仕掛けている連中がこれからどう動いてくるかを見定める事に注力した方が良いだろう。
 適当な返事を返し、これからの立ち回りを思案し始めると、澪も大人しくデスクに向き直り、自身の作業に戻った。

紫陽花を食む狐