したたかな涙
3

 本社らしき高層ビルに近付くと、車は正面玄関ではなく地下駐車場に入って行った。どうもここは重役専用の出入り口のようで、軒並み高級外車が並んでいる。
 警備員の目が光る自動扉の前へと車を横付けすると、社員らしき男女が二名、入り口で待ち構えていて、停車するとスーツ姿の男が手早く彼女側のドアを開けた。

「では、お仕事開始ですよ」
 澪は慣れた様子でゆるりと降りる。甚爾もドアを開けて車外へ出ると、少し目を離した僅かな間に女の方が即刻澪の横を陣取っていた。男は少々距離を取って左後方に付いている。

「代表、建設地候補の資料の用意が整いました」
「ありがとう。早速、もらってもいいですか?」
「はい。……ところで。その方は……」

 スーツの女は澪に書類を手渡すと、訝しげな目で甚爾を一瞥した。
「禪院さんです。今日から私の警護をして頂く事になりました」
 この場でただ一人、澪だけが満足そうな微笑を浮かべており、反して彼女に付き添う男女は「正気か?」と言わんばかりに面食らっていた。

 しかしそれ以上の言及は一切なく、二人ともたちまち表情を引き締め、甚爾を横目で見るのをやめた。澪が決めたのなら受け入れようと努めている様子だ。
 エレベーターで上層階へ向かいながらの紹介によれば、女は秘書で、男は広報担当部署のチーム長という事だった。彼女と行動を共にする事の多い二人なのだという。

 執務室へ入るとその途端、わずかな血と死臭に出迎えられて、甚爾は眉をひそめた。だが目探ししても内部は清掃も整頓もされており、血痕などは見当たらない。
 臭いの濃さからして、遠くない過去に凄惨な人死があったのは間違いないが、表面上の処理は済んでいるようである。
 ふともう一つ。重要な気配がここに留まっている事に気が付いた。呪術を用いた際に残る痕跡、残穢がこの部屋に停滞しているのだ。
 つまり、この臭いの主たる人間は、呪殺によって命を落とした可能性が高い。

 彼は呪術師としての才能はない。しかし本来もって生まれてくる筈だった呪術の能力を代償に、先天的に身体機能が常人よりも卓抜している。
 呪術師でなければ持ち得ない、呪いの視認や耐性さえも身に付けた、天与の肉体だ。
 人の許容範囲を超えた五感は、常人には知覚出来ない数多の痕跡をも認識可能なのである。
 彼女は父親の死を目の当たりにしたと言っていたので、事件はこの部屋で起きたと見ていいだろう。そんな甚爾の沈思をつゆ知らず、澪は応接用のソファーを見遣って、和やかな表情で振り返る。

「会議まで時間があるので、少しここで仕事をします。禪院さんは寛いでいただいて結構ですよ」
「悠長に座って仕事するボディーガードがどこにいんだよ」
 その矢庭、物凄い形相で澪の側近に睨まれた。「代表に向かってなんて口の聞き方をするんだ」という目だ。
 しかし背後の社員二人の剣幕に気付いていない呑気な代表は「それもそうでしたね」と温和に頬を緩ませていた。どこか抜けているというか、独自の空気感を持った女である。部下達のため息が聞こえてきそうだった。

「代表」と呼ばれる彼女は、改めて見れば見るほど、二重の意味で異質だった。
 豪奢ではない落ち着いた内装ながら、デスクや本棚等にこだわりが伺える統一感のある空間。二十そこそこの女が主というには不釣り合いの部屋だ。父親の趣味だと言われれば納得のいくような意匠なのに、しかし不思議とこの場所に澪が馴染んでいるように甚爾の目には映っている。

 もう一つの異質は、澪に纏わり付く呪霊達を意に介していない事だ。広い室内の大きなデスクの背面には、景色を一望できる大きなガラス張りが施されているというのに、蠅頭達が群れてほとんど見えやしない。しかもこの移動の最中で、また新たに一匹雑魚が増えている。
 腰から肩、首にかけて長い胴体を巻きつけた蠅頭が、甚爾の方を向きながら異様に大きな四つの目を細めていた。実に目障りだ。
 それにしても、弱小とはいえこれだけの呪いを非術師が受けていて、何の支障もきたさない筈がなかろう。まして彼女は深窓の令嬢を体現したようにその肌は生っ白く、体力も見るからに無さそうである。心身の疲弊をおくびにも出さないでいられるのが不思議でならない。

「オマエ、何も感じないのか」
「どういう事ですか?」
「体が重い怠い、寝付きが悪い、常に視線を感じる」
「ん? いえ、……全く?」

 肩を回したり首を捻ったりするも、彼女は何も感じない様子で不思議そうに首を傾げる。
 余程鈍感なのだろうか。それとも実は呪いの耐性があるのか。しかしそんな些細な事はどうでもいい。
 視界が鬱陶しいのはさることながら、蠅頭は負の感情が集まるにつれて人体に害を及ぼし始めるものもいる。人でありながら心霊スポットさながらの呪いの溜まり場である澪の傍では、呪霊の成長も早いだろう。
 迂闊にも彼女の体調の急変が発端となって会社が傾こうものなら本末転倒だ。これも護衛の内であると割り切って、早々に祓っておくのが賢明かも知れない。

 だが、ここで仰々しい呪具を取り出そうものならお付きの二人が大騒ぎしそうだ。
 呪具を使うには武器庫として腹の中に飼っている呪霊を体外に出さねばならない。彼らには甚爾が何を吐いたかなど見えないとはいえ、奇行と思われる行動は極力避けておきたい。
 仕方なく、使い捨ての呪具として内ポケットに隠し持っている短刀を瞬時に鞘から抜き出す。一薙ぎの風圧だけで蠅頭を全て蹴散らした。当然ながら刀身を鞘に収めるのも瞬きよりも早い。
 この場の三人は、拳を真横に振る動作はおろか、何故澪の目の前で風が起こったのかさえ見えていなかっただろう。
 当人はというと、風で乱れた前髪をそのままに、ただ目を丸くして甚爾を見上げていた。
 すると、凄まじい怒りの形相で秘書が間に割り込んで、澪を守るように後ろに下がらせた。

「今のは何!? 貴方の仕業!?」
「安心しろ。別に危害を加えるつもりじゃねぇよ」
 だが女の目は濃い疑念に染まっている。
 やや険悪な空気が漂う中、秘書の背から澪が顔をさっと覗かせた。その目は見開かれ口はわなついている。
「な、……なにが起きたのですかっ!?」
 そして彼女は忽ち目を輝かせて甚爾に詰め寄った。
「整体の一種ですか? 貴方がやったのですよね? 施術方法を教えて頂けますか!?」
 体が触れ合いそうな程に近づきながら、無邪気な表情でこちらを仰ぎ見る。子供の如き好奇心旺盛な目とそのはしゃぎようにたじろいだ。
 しかし甚爾の返答を待たず、彼女ははたとして一歩下がると、急に真剣な顔をして口元に手を当てた。
「案外こういう施術の効果は侮れませんね……。新規事業として参入しようかな……、それともホテル事業に新サービスとして取り入れて他社との差別化を図った方が。……それにしても、私の体ってこんなに軽かったんだ……?」
 澪は真剣な顔付きで呟きながら、急に黙って考え込み始めたかと思うと、なにやら新たな発想が浮かんだらしく、ぱっと顔を上げて秘書に会議日程の調整を指示し始めた。
 それが終えたかと思うと、回転に髪がついてこられない勢いで彼の方へ向き直り、相変わらずきらきらとした眼差しを向けてくる。
「禪院さん! とっても元気が出ました! ありがとうございます!」
 そう言ってやや強引に彼の手を取ると、喜びを表すかのようにぶんぶんと大きく振り回した。

……人に感謝された事など、これまでにあっただろうか。記憶のどこを漁っても「穀潰し」だの「猿」だのという、蔑視の言葉や見下す眼差ししか彼の内には見当たらなかった。
 それどころか、幼い頃は侮辱や暴言を吐いて構ってきた連中は、時が経つにつれ次第に甚爾をいないものとして扱うようになった。もはや彼らにとって甚爾は人間でもなければ、畜生でもなくなっていた。存在すら認められないものに声を掛ける必要などないという事だろう。

 そして人ならざる扱いの程は、東京に来てからも変わらなかった。
 寝床を与えてくれる女達は、彼の事を腹が減ればふらっとやってくる野良猫の類だと思っているので、人に求めるような期待など始めから持ち得ていない。だからこそ勝手に去って、また勝手に現れても文句を言わない。唯一猫との違いがあるとしたら、身体的な奉仕の有無くらいだろう。
 それが当たり前であったが故に、甚爾はただ呆気に取られていた。大それた事をした訳でもなければ、あまつさえこの女は何をされたのかさえ分かっていない。その癖こんなにも無邪気に喜べる思考回路が理解出来なかった。けれど、何故か不快感はなかった。
 未だかつて掛けられたことのない「ありがとう」という言葉の所為か、握られた手の平がやけに温かく感じた。

魔境ゆらめく