したたかな涙
1

 その女の涙は、矮小の世界へ破壊をもたらす凶器である。

 はじめて彼女の涙を見たのは、恐ろしく抒情とは無縁と言える場所……競艇場だった。
 禪院甚爾は観覧席の最後列にて、前席に人がいないのをいいことに背凭れに足を引っ掛け、実に居丈高な座り方で競技を眺めていた。
 しかし横柄な態度とは裏腹に、例にもよってこの日も大枚叩いた舟券がただの紙切れと化した。

 彼は京都にある呪術師の名門、禪院家にて生まれたが、呪術の適性がなかった事を理由に、侮蔑と飼い殺しの日々を送っていた。
 そんな生活に嫌気がさし、半ば強引に家から抜け出した彼は、この地……東京へとやって来た。
 定職にはつかず、住所も不定。気分次第で仕事を受けては一気に金を稼ぎ、賭博などの徒食で無意味に散らす。素寒貧になれば、ほとんど無償で寝床を与えてくれる女の住処に転がり込む。金のアテが見つかれば何も言わずに去る。その繰り返しだ。そんな生活をもう四年くらいは続けている。
 この日常に満足をしてなければ、かと言って苦労や不満もない。
 まあ自分の生涯の頽廃具合などは、この程度が妥当だろう。そんな諦観が彼に堕落を受け入れさせていたのである。

 しかしながら今現在、小さな不服が胸懐にある。
 彼の面持ちをしかめさせるのは、競技があれば連日の如く足を運んでいるというのに、一向に舟券や馬券が小金にすらも化けてくれない事だ。
 甚爾は手の内で紙切れを握りつぶし、舌打ちと共に放り捨てた。

 その時、突如として気色の悪い感覚を捉えた。背後から呪霊の気配がする。しかし強いものではない。
 どうも弱い呪霊が群れているようで、相当数の呪いを受けた人間が近くにいるらしかった。ならば彼の出す結論は至って単純である。通り過ぎるまで無関心を決め込む、それだけだ。

 人の負の感情が呪いを生み、それが澱のように溜まれば呪霊として形を成す。
 呪いの受け皿となるのは大概が土地や建物だが、時折特定の人物へ集まる場合もある。要はいかにマイナスの共通認識を集められるかどうかなのである。
 例えば全国ニュースで顔と名前が晒された犯罪者や不祥事を犯した著名人など、向けられる嫌悪や蔑み、あるいは妬みなどが多ければ、人そのものが呪霊の溜まり場となり得る。
 なので、こうして呪霊を無自覚に引き寄せ連れ歩いている人間は珍しくない。こちらが過度に反応を示さなければ、特に面倒事にはならない。
 しかも今回感じ取った気配は、ほとんど人に害を成すには至らない、呪霊の中では最下級の蠅頭のようだ。
 やたらと数が多いのが気にはなるが、束になっても弱者は弱者。これ以上関心を向ける必要はない。

 そんな事よりも優先して考えるべき事がある。大敗のレース結果を突きつけてくる確定板を眺めながら、ふとそろそろ金が無くなってきたのを思い出した。次はどの女の家に行こうかと、彼の関心は寝床探しに移り変わった。
 だがしかし、彼は身内の思考と向き合うのを阻まれた。
 呪霊を引き連れた人物は、通り過ぎる事なく、むしろ段々と近付いてくると、彼の席の真横で立ち止まったのだ。

「あの、すみません。……禪院さんでいらっしゃいますか」
 女の声だった。
 顔を向ければ、忽ち互いの眼差しは交錯した。……それが全ての終わりで始まりだった。

 女にはやはり蠅頭が何体も背後に纏わりついていた。数は十程で、空中を漂うものや、身体にしがみついているもの、背後にぴったりついてひたすら肩を撫で付けているものもある。一方で本人はそれらの存在に全く気付いていない様子だ。
 無害そうな顔の裏で惨忍な所業を重ねているのか、或いは男の歪んだ情を集めやすい性格の女か。
 まじまじと眺めれば、裕福な家庭で不自由なく育ちましたと言わんばかりの纏う空気と、凡人の娯楽とは無縁そうな上品めかした形振りが、この場において明らかに浮いている風体だ。
 器量を見ても、ある程度知名度のある芸能人という可能性もある。ともすると集まる呪いの大半は妬みか。
 彼女の相貌には凛とした鋭さのようなものが窺えるものの、けれどもどこかあどけなさが残っている。“女“と評するにはいささか幼い年齢に見受けられた。

 相手が男ならばともかく、多少でも関わりを持った女の顔は忘れない性分の彼だ。特にこの女の見目ならば、一度でも視線を交わしさえすれば、そう簡単には記憶から剥落しない。だとすると、この女は至極怪しい。彼の胸中へと懐疑が満ちていく。

「誰だオマエ」
「私は……」
 すると忽ち女は口を噤んで眉尻を下げ、眼一杯に涙を湛え出した。
 特に威嚇めいた目を向けたつもりも、強い語気を使ったつもりもない。訳が分からない。
 更に運悪くと言うべきか、堪えるように彼女が俯いた所為で、落ちるか落ちないかの瀬戸際に止まっていた雫は、たちまち頬を流れ落ちた。

……この女は危険だと悟った。
 女の涙が落ちるのを認めた矢庭、競艇場に鳴り響く喧騒も放送も全てが無音となり、彼女を形どる輪郭以外の俗物の背景が、白んで消失したように感じた。
 己が内に組み立てた人知れぬ断絶の世界、それをこの女が破壊しかねない。そう本能的に理解した。
 最早女が誰だろうとどうでもいい、相手にしない方がいい。何もなかった事にしてこの場を去ってしまおうと、顔を背け立ち上がった。

「待って下さい」
 無視しろ。いいからそのまま歩け。脳内はそう警鐘を鳴らしている。それなのに甚爾の足をこの場に縫い付けて留めるのは、背後の濡れそぼつ声音だ。
「お願い、行かないで」

 すると退路を断つように、見知った男が向こうから歩いて来た。どうにも運は女の見方をしているらしい。
「なんだ。もう依頼人と会ってたのか」
 黒のスーツを着たその男は、甚爾と彼女を見比べやや呆れがちに息を吐いた。
 男は仲介役、孔時雨。甚爾に仕事を斡旋する人物である。彼にとっての仕事とは、闇サイトにて秘密裏に取引される依頼、つまるところ暗殺だ。
 殊に甚爾の場合は呪術界に因果のある暗殺依頼を請け負う事が多く、財源の全てはこの仲介役がもたらすと言っても過言ではない。時雨を経由した客は総じて金払いが良いので、鼻のきく仲介役として最も信用している。
 その彼がたった今「依頼人」と口にした。つまり――

「…………仕事の紹介かよ」
 甚爾は眉根を寄せて仲介役を見た。その視線に乗せた文句は「何でこんな女を連れて来た」である。しかし対面の男は淡々とした態度を崩さない。
「ああ。依頼人は察しの通りそこのお嬢さんだ。オマエでも名前聞きゃすぐ分かるホテルグループの社長令嬢。どうしても直接会って話したいって言うんで連れてきた」
「……で。誰を殺れって?」

 背後の女を視界に入れないまま、ため息を含ませた。
 この女に関わりたくないのが本音だが、多少でも金になるのなら引き受けてやってもいい。さっさと一人二人殺って金を得れば、それで終わるやり取りだ。間に仲介役がいるお陰で、依頼を受諾した後は、必要以上の関わりを持たずに済む。

「今回は殺生無しだ。指定の期間中、依頼人を護衛してくれ。正当防衛もNGだ」
「は? 誰が乗るか、そんな面倒くせぇ話」
 彼にとって、守れという依頼は未だかつて聞いた事も受けた事もない。しかも不殺生の条件付の護衛など面倒極まりない。こんな筋に依頼するくらいだ。人死が伴うレベルのややこしい揉事が既に起こっているに違いない。普段受ける仕事の倍以上手間が掛かるのは確定だろう。
 だが仲介役は甚爾が断るのを見越していたらしい。余裕の笑みを浮かべている。
「報酬も聞かずにか?」

 すると、甚爾の背後で緊迫の声音が発せられる。
「お願いします。どうか、私を守っては頂けませんか」
 幾らだろうと割に合わない。断るに越した事はない。しかし脳内の警告と相反して、彼は女へ向き直った。

「……個人資産がおよそ二千億あります。それを全てお譲り致します」
 思わず甚爾は面食らった。想像の単位を飛び越えすぎている報酬額だ。最早ふざけて夢妄想を語られているとしか思えない。
「個人資産だの億だのって……。なんの冗談だ」
「父が事業家で、それから資産家でもありました。その父が亡くなり、私が全てを引き継いだんです」
「……悪いが、これ以上ぶっ飛んだ妄言に付き合う暇はねぇ」
「妄言……? 私が嘘を言っているとお思いですか」
 真っ向から信じる大馬鹿がいるのなら逆に見てみたい。絵に描いたような不景気を纏う日本において、二千億以上を有する資産家など片手で数えるほどもいないだろう。
 バブル崩壊、金融危機を乗り越え、成長傾向にある有名大企業の代表相手ならまだ信用の余地はある。だが眼前にいるのは大学生程度の年齢と見受けられる女だ。
 嘘をつくなら、呪霊ではなく子綺麗な格好の執事然とした初老の男でも引き連れて来いと言いたい。
 するとにわかに、女は急に何かを思い出した様子で手のひらを合わせ、困ったように甚爾を見上げた。

「……そうでした。仲介手数料を差し引いたら、貴方にお譲りできるのは千六百億程になってしまうんでした……。申し訳ありません」
「マジでこいつイカれてんだろ」と言ってやりたかったが、一旦文句を嚥下して時雨を見遣った。しかし彼は不敵な笑みを向けてくるだけだ。
 認めたくはないが、その表情が示すのはこの取引の信用価値である。金払いは間違いないのだろう。
 数秒の思惑を経て、甚爾は疑心暗鬼ながらもこの話を受けることにしたのだった。

2

 一旦人気のない場所に移り話を聞いてみると、某有名ホテルグループの代表であった依頼人の父親は、つい一週間前に死亡したばかりなのだという。
 彼女……白主澪の言葉をそのまま用いれば「父は何者かに命を奪われたんです」という事だ。
 聞けば父親の死をその目で確と見たのだという。その有様は突発的な病による死ではなく、明らかに何者かの力が働いていたのだと語った。

「…………だからきっと、父の次に命を狙われるのは私だと思うんです」
 つまり、護衛の期間は“父親殺しの犯人を明らかにするまで”である。
「オマエの命を狙う輩の目星は」
「……すみません。調べてはいるのですが、全く分からないんです。でも、独自で調査を進めて、なるべく早く解決させるつもりです」
「そもそも、犯人がいる前提でいいのかよ」
「断定は出来ません。……でも、犯人はいる筈です。そうでなければ、本当に説明がつかないんです」

 根掘り葉掘り聞かずとも、彼女が敢えて警察などの公的機関に全てを委ねず、裏の……しかも呪術に特化した非合法を頼ろうとしたのかを察した。
 本人は詳細を語ろうとしなかったが、父親の死に方は、人ならざるものの存在を認める他ない有様だったのだろう。

 捜査は難航し、当然ながらその場にいた彼女が第一に疑われたそうだ。ややあって疑いは晴れたらしいが、それでもまだ警察は不信を抱いている事だろう。
 彼女は己の完全潔白の証明のために、似たような不審死の事件を調べる内、呪術とそれを扱う人間が現代にも存在している事実を知ったという。
 あの場で父親を殺められるのは呪術師しかいないという結論は、的外れではない。
 しかし、呪いから切って離せない存在には、呪術師以外に呪霊や怨霊が在る。これらによる呪殺の可能性を見落としているのはお粗末だ。しかしながら、彼女にそう指摘しても、今は無意味だろう。

 理解し難い現象を目の当たりにして、それでも呪いの視認ができない非術師が至る結論の大多数は「理解に及ぶ要因と不可解の事象を繋げたい」である。
 要は、父親は何者かに恨みや妬みを買っていて、それが原因で暗殺された。そう納得したいのだろう。
 実に冷静に事情を語った澪の面持ちは、無感情というよりも静かな決断めいた剣呑を窺える。
 その怒りの程や内心の一切は分からないが、今回の依頼にそこはかとない感情が伴っているのは理解出来た。
 敢えて呪術の専門機関ではなくこちらに身を寄せてきたのは、犯人への制裁は自らの手で行いたいが故かも知れない。
 少しばかりは、この取引が偽りではないという真実性が見えてきた。

 さらに聞き進めると、彼女の父親の訃報は既に昨日から全国に飛び交っており、新代表の続報も発信されたらしい。突然の代表取締役交代に世間は騒然としている最中なのだそうだ。
 途端、取引の信用性が、引潮の如く一気に後退した。

「って事は、今ある大層な資産とやらは明日明後日には泡になんじゃねぇのか」
「問題ない。お嬢様が落命しない限りはな」
 仲介役は変わらず平然としている。この男の事だから、女を甚爾と引き合わせる前に下調べは十分取っているとは思う。それでも彼は腑に落ちずにいた。
 そんな甚爾の不信の目を一瞥し、時雨が語ったのは、四年前より会社の運用を取り仕切っているのは澪であるという事だ。父親は若さ故の威厳の無さや現実性を補う為の仮初の代表だという。

 四年前、このホテルグループは経営破綻の危機に陥っていたのだが、それをたちまち打開し、更に大手有名企業まで大躍進させたのは他でもない彼女なのだそうだ。
 取締役や他の幹部連中はこの事実の周知と許容をしており、加えてインターネットや週刊誌の類を調べれば、定期的に話題として取り上げられる程、まことしやかな逸話として世間に浸透しているらしい。
 しかし俗世に興味のない甚爾は、世間が騒いでいる事も噂話の浸透具合も事情の一切を知らない。故に、眼前の彼女が類稀な企業家であると言われても現実味を得られないのであった。

 それでも結局、彼は澪に着いて行く事にした。理由は単純だ。
 この話がなかった事になっても、途中で報奨金が泡となっても、初期であればこちらに損害は一銭たりとも生じないからである。
 女に経営手腕や支払い能力無しと分かれば、直ちに切り捨ててしまえばいい。現在、社内がどの程度混乱に陥っているかを見れば瞭然だろう。

 渋々という感情は拭えないが、依頼を受けると答えれば、彼女は嬉しそうに笑顔を見せて握手を求めて来た。
 そこまでする程の契約相手でもなければ信用もしていない。やんわりと断れば、女は子供のように小さく口を尖らせて「なかなか硬派ですね」と呟いた。

「じゃ、後は頼んだぜ。お嬢様のボディーガード」
「はいはい」
 茶化すような仲介役の物言いに、さっさと行けと意味を込めた手先を振る。時雨は反撃と言わんばかりに「好みだからって依頼人に手を出すなよ」と余計な一言を残し踵を返した。
「出さねーよ」
 彼の背に舌打ちと共に吐き捨てた。
 澪は二人の男のやり取りなど、対して気にしていない様子で、にこやかに喜色を相貌に湛えている。
「では禪院さん。早速本社に行きましょう、と言いたい所ですが。その前に……」
 こちらをじっと眺めながら、澪は勿体ぶるように言葉を区切って微笑む。少々嫌な予感を覚えた。

 仲介役と別れ、高級外車に乗せられてまず向かったのは、銀座の一角にある革靴の専門店とスーツのブランド店だった。
 それぞれ内外装は違えど、双方見るからに高級志向を醸し出しており、中に入ると店員がにこやかに近付いてくる。
 どちらの店舗でも、ふと澪の後ろに着いて来た甚爾を見遣った店員は、一瞬驚愕の眼差しを向けた。しかし、流石と言うべきか、時を交わさずして怪訝の表情を仕舞い込んだ彼らは、微笑を保って恭しく澪の要望を聞き入れた。

 そして、先程の嫌な予感は的中した。
 着なれないスーツや靴を幾つも試着する羽目になったのである。
「流石にその格好で護衛というのは不審がられますので……」との言い分だ。
 確かに澪の意見は尤もではある。上下黒のスウェットに突っ掛けのサンダル姿の男、これを護衛と見受ける人間は、この世のどこにもいない。
 次はこれ次はあれと、甚爾を着せ替え人形にした澪は、最終的に用意された全ての商品を購入した。
 しかし彼女はそれでも納得出来なかったらしい。「既製品では丁度合う大きさがないですね……」と、声を沈ませたかと思えば、すかさず何処かへ連絡を取り、別の店舗へ甚爾を連れて行った。

 そこも由緒正しい高級店ですと言わんばかりの店構えだった。澪は、出迎えに現れた男に対し、挨拶も早々軽く頭を下げた。
「突然無理を言って申し訳ありません」
「とんでもない事です。丁度予約のキャンセルがあったのでお気になさらないで下さい」
 前の二店舗以上に丁重で、そして品の良さを纏う男だった。今回は専用の個室に通された。
 席に着くと、その机の上には生地やボタンなどのサンプルカタログが並んでおり、澪は「禪院さんはどんなデザインや生地がお好みですか?」と問い掛けてくる。しかし、着たこともないものにこだわりなど無い。適当に決めてくれと答えた所、何故か嬉しそうに頷かれた。
 それから彼女は店の男と色や形をどうするだとか、納品日がどうのこうのと話し合い始めた。どうやらオーダーメイドでスーツを作るつもりらしい。しかも数は十だとか言っていた。しかもシャツに至っては二十も頼むつもりのようだ。

 今着用している既製品は、甚爾の体格では多少の窮屈さはあれど、張り裂けそうだとか見苦しい要素は見受けられない。素人目では違和など見分けらないだろう。
 だが澪は、鑑識眼が鋭いのか、妙なこだわりが強いのか、気に食わない部分があるらしい。目が肥えているとでも言おうか、いよいよ彼女の富裕の様が見えてきた。
 それに、一回り以上年嵩の男と話す姿は、確かに経営者足り得る受け答えで、相手も確と彼女を信頼できる太客として至極丁重に扱っているのが、側から見ていてよく分かる。

 そうして打ち合わせが終わると、次は採寸に移ったのだが、この時点で滞在時間は一時間近く掛かっている。
 正直彼は既に飽き飽きしていた。だが、オーダーはこれで終わりではない。どうも一月後に再びこの店舗へ赴き、仮縫い及び微調整打ち合わせをせねばならないらしい。それから一、二ヶ月で納品だという。
 彼女は一体どれだけの時間、甚爾に身辺警護をさせるつもりなのだろうか。辟易を顔に出さずにはいられない。
 かくして注文を終えて店を出ると、いよいよ本社に向かう事となったが、甚爾は引き受けた依頼を降りたくて仕方がなくなっていた。

 普段の依頼ならば自分のやりたいように時間も手段も調整出来た。当然単独行動なので身形なども大して気にしない。それが今回全てが真逆だ。姿形から始まり、時間や行動など全てを澪に合わせねばならない。
 着慣れない服装が窮屈に思うだとかいう話以前に、何かに縛られる事に嫌悪を感じていた。
 その上で、詳細も人数も判然としない敵が判明するまで、女を守らねばならないのである。
 澪の父親を死に追いやった人物が相当尻尾を隠すのが上手く、手掛かりが全く掴めなければ、半年、下手をすれば年単位の仕事になるかも知れない。そんな曖昧な契約期間も煩わしさを募らせた。
 四六時中、他人と共に過ごさねばならないと思うと、一度も凝ったことの無い肩が凝りそうだ。ほんとうに暗殺より厄介な仕事だと思う。

 不幸中の幸いがあるとすればせいぜい一つだ。
 この姿を時雨に見られずに済んでいることである。あの男がいたら、馬子にも衣装とか言われて鼻で笑われるのが容易に想像できる。
 この件を白紙に戻すのなら今しかないかも知れない。ずるずるとこの女に付き合って時間を掛けてしまうと、今度は費やした時間が惜しくなり、やめ時を完全に見失う。見極めが肝心だ。
 賭博においては損得を量る慎重さなど一切ない彼であるが、今回の件はそんな考慮が働く程に億劫となっていた。

したたかな涙