「こいつと歩いてんの見かけたから」
甚爾くんは気を失った男を床に放りながら、私の問い掛けに衒いもなく返しました。
「……何故、助けてくれたんです」
返ってきたのは無言でした。
私は素性を怪しまれて捕まっていたのではありません。拷問されそうになっていた訳でもありません。
色欲に纏わる知識が無くとも、彼にだってそれくらいは理解出来たでしょう。ですから、知らぬふりをしておけば良かったのです。
給仕の女を手篭めにしようとしたが気付けば意識を失い逃げられた、など、この男は口が裂けても言えないでしょう。けれど男にとって、誰かに害された事実は不動。
陰険が顔にありありと滲み出ている男でしたから、水面下で犯人探しを行っても不思議ではありません。
もしくは手短な人間へ理不尽な嫌がらせをし、憂さを晴らそうとする可能性の方が高い。
つまり甚爾くんには私を助ける義理も利益もこれっぽっちも無いのです。
だからこそ、ひとえに甚爾くんが何を思っているのかを知りたかったのですが、彼は気まずそうにふいと目を逸らしてしまうのでした。
けれど少しの沈黙を経て、俯きがちの眼差しはこちらへと向き直りました。向き合う瞳は軽蔑も疑心もなく、澄んだ疑問を孕み揺らいでいるように見えます。
「オマエ、何者なんだ」
「どういう意味でしょう」
「何十……何百も殺してるだろ」
「ええ、なにせ呪いを扱っていますからね。不本意ながらやむを得ず……という場合は多々あります」
「…………。ここの連中を手当たり次第殺すのも、やむを得ずなのか?」
「……目敏いですね」
「そういう目をしてた」
憤りも殺気も面に出したつもりはありませんでしたが、流石です。そこで無様に伸びている男よりも遥かに鋭い観察眼です。
……けれど、その察しの良さは芳しくありません。私の情緒を容易く読み取れるということは、少なからず彼も私の感性に共感できるからという意味に思えてならないからです。
「そんなに知りたいですか。私の事を」
「……。別に」
「それなら安心です。どうしても知りたいと言われたら、どう諦めさせようか心配だったので」
「なんで」
「貴方にとって何の財産にもならない情報だからです」
あたかも彼を案じているかのような台詞を軽々吐ける自分に嫌気が刺します。
私という存在……呪詛師という堕落を一時的に伏せたとて、なんの意味もないというのに。
彼はこの家に居る限り、きっといつかこの薄汚い存在を知り、こちらの世界に踏み入ってしまう。落魄の未来は避けられないでしょう。
結局のところ、私はただ、己の醜さを知られたくないだけなのです。
甚爾さんに出逢い、十年の時を経ても、なにひとつ私は成長していません。
彼に向けた未来への願いに対して、己の切望に対して、この穢れた姿を隠す事くらいしか出来ないのです。
――……苦しい。真っ直ぐに、見ていられない。
あどけない純真が垣間見える眼は、私をひどく情けない心持ちにしていきます。深く淀みに溺れいくようで、ついに耐えきれずに私は顔を伏せました。
呪詛師として生きてきた私が出来るのは、やはり呪殺というあさましい手段だけです。
彼を案じ、彼を想うのなら。やはり、禪院家から……甚爾くんの前から去るべきなのでしょうか。
身内で問い掛けても、自嘲めいた諦めの声だけが反響するばかりです。
「美緒」
その刹那、あまりに突然の事で思考は止まり、耳を疑いました。
名を呼ばれたのは初めてだったのです。本当に、初めてです。
この時代に遡る前だって、私は甚爾さんにこの名を呼ばれた事など一度もありませんでした。
もしや幻聴か、はたまた夢ではないかと少々頭が混乱し、陰鬱とした思考は彼方に飛んでいってしまいました。そんな衝撃なのです。
面食らって瞬きも忘れた顔を向ける私を気にもせず、甚爾くんは言葉を続けます。
「腹減った」
「…………はら……?」
「オマエが言ったんだろ。また飯食いに来いって」
拗ねているような、あるいは照れを隠しているような、不機嫌そうな面持ちで彼はふいと顔を背けました。
「不味いんだよ、ここの飯。オマエが作った方がまだ食える」
「……そう、なのですね」
なるほど、初めて知りました。甚爾くんはばつが悪いとこういう仕草をするようです。
忽ち嬉しさが身体の中から染み出して、我ながら分かりやすいくらいに私は上機嫌になって立ち上がりました。
「……では早速戻りましょう! 甚爾くん、好きな食べ物は何ですか?」
「特にない。とりあえず着物直せ」
「では今後色々作ってみますから、これから沢山見つけていきましょうね!」
すっかり気分は高まる一方ですが、ふと重大な問題に気がつき、襖を開けようとする手を止めました。
そうです。肝心な材料を何一つ調達出来ていないのです。お腹を空かせた甚爾くんをお待たせしてしまうのは申し訳ないですが、食料調達を仕切直しせねばなりません。
「すみませんが、少し時間を下さい。一度厨房に戻って……」
すると、おもむろに甚爾くんが竹皮に包まれた肉を私の眼前に差し出しました。
よくよく見れば、袖や懐の中に他にも何かを入れているらしく、布が重々しく垂れていたのです。
もしかすると甚爾くんは、私が厨房へやってくるよりも先に、あの場にいたのかも知れません。
きっと「行ってらっしゃい」と伝えた意味を甚爾くんは素直に受け止めていてくれたのだと、そう思うのです。
「ふふ……。おやおや、甚爾くんもちゃっかり盗んでるじゃないですか」
「うるせぇな。いいからオマエはそれ直せよ」
「あらら」
私は二つの意味で彼に救われました。己の操だけではなく、命も……心までも。
そう思うと、私を冷静な思考に引き戻してくれた彼の事が、どうにもこれまで以上に愛おしくて仕方がなくなっていました。
隠れ家に戻り、台所に食材を置く甚爾くんの隣に立つ今も、温かな感情の溢れは止みそうにありません。
「甚爾くん」と呼び掛けると、彼は素っ気なく横目で反応を返します。
少し素直じゃないだけで、とても優しい子なのだと分かってしまった今、そんな仕草さえも頬を緩ませる愛しい要素です。
いよいよ抑えが効かなくなり、私は彼に向かって両腕を伸ばし、背にそっと回しながら緩く抱き寄せました。すると抵抗もなく、その体は私の胸の内に寄り添ったのです。
「甚爾くん。ありがとう」
「…………なに、してんだよ」
「分かりませんか? 感謝の抱擁です」
「……バカか」
悪態をつく割には、彼は身動ぎも突き飛ばしもしません。もう少しこの温かさを味わっていたい所ですが、邪念が湧く前にゆっくり腕を広げて解放すると、甚爾くんは私に一切顔を見せず、踵を返して居間へと引っ込んでしまいました。
けれども、それは不快に思った訳ではないのを私はちゃんと分かっています。
甚爾くんの頬が濃く赤らんでいるのが、去り際にほんの少し見えたから。
豁然たる恵愛
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