世は瑞光より目映し
 次の日、私は給仕の格好をして食材置き場を物色……。もとい、拝見していました。
 最良の方法は、術式で身を隠したまま目についた食材を数種類袖口にしまって早々に撤退なのですが、今日は作ってみたいものが決まっているので、必要な食材を探し当てる必要があったのです。

 改めて考えれば、料理には自信がある方で良かったです。
 呪詛師というあさましい身であった反面、家庭的な技量を手放さずにいたのは、姉の存在が大きかったと言えましょう。
 両親を亡くしたばかりの一時期、姉と二人で暮らしていた時分の事でした。母の存在が恋しくて、わすかでも母のいた残滓を味わいたかった私は、母が作ってくれた料理を何か一つでも再現することで、寂しさを埋めようとしていました。
 下手なりに食材を準備して、隣で手伝いをした記憶を懸命に掘り返して、そうして出来上がった料理を姉と共に食べました。
 台所はめちゃくちゃに汚れてしまい、野菜には火が通っていなくて固かったです。味付けもはっきりせず、母の味の面影など一切感じられない、それはそれは悲惨な結果でした。
 それでも姉は「おいしい」と笑ってくれたのです。

 私は嬉しくて、嬉しくて、姉の笑顔のために手料理を作り続け、呪詛師の男に引き取られてからも毎日欠かさず姉の為にと続けました。
 けれど私は、男の目が極力姉に向かぬようにと必死になるあまり、どれ程姉が寂しい思いをしていたのかを省みませんでした。
 男に連れられて仕事をこなし、血に濡れながら生き抜く日々を過ごしていました。家事以外の理由で住処には戻らず、当然ながら次第に姉との会話は無くなっていきました。
 人の殺め方を身につけてしまった私は、清廉な姉と自分の違いを認めてしまうのが怖かったのです。
 それでも繋がりは失いたくない。唯一の肉親を手放したくないという我儘で、料理を作り続けることだけはやめませんでした。
 元より好きが講じて習慣づいていたのも理由の一つですが、やはり心の底では、こんなにも汚れてしまった私でも「おいしい」と言ってもらえるものを作れる。そう証明して欲しいと、姉に甘えていたとだと思います。

 けれど、時が経つにつれて姉は住処に居つかなくなり、私の料理に一切手をつけなくなりました。
 当然でしょう。姉は私が日夜何をしていたのかを知っていたに違いありません。人を殺めた手が作ったものをどうして口にできるでしょう。見栄えや味でどれだけ誤魔化しても、人殺しの振る舞うものを誰が喜んでくれるでしょう。
 姉が一切笑ってくれなくなってしまったのも、姿を消してしまったのも、堕罪した私への罰だったのです。

…………それだけではありません。
 姉が私とあの人の関係や、私の想いなどは知る由も無かったはずですが、本当に信じ難い事に、姉は。私に追い討ちをかけるように、あの人と…………。

――……やめましょう。こんな気持ちでいてはいけない。

――けれど。私は本当にこのまま甚爾くんの側にいてもいいのでしょうか。一度死んだとて、この手に付いた幾重もの罪は消えない。それでいて手料理を彼に食べて欲しいだなんて、都合が良すぎるのではないでしょうか……。

「おい、女」
 台所で食料を頂戴している最中、突然現れた声は知らぬ男のものでした。振り返ると中年の男が一人、入り口で立ちはだかるように私を見下ろしています。
「はい。いかがなさいましたか」
 それとなく袂に隠した食材を戻し、立ち上がって腰低く答えれば、男は私をじろじろと眺めました。どうも不審者を怪しむ目とはいささか異なるように感じます。流石に私が侵入者だとはまだ気付かれていない筈ですが、何事でしょう。

「先週はいなかった顔だな」
 私もこの男には見覚えがない。昨日まで一、二週間程不在にしていたようです。
 念には念をという事で、私は丁度昨夜逃げるように辞めて出て行った新入のつもりで返します。
「はい。一昨日より給仕としてご奉仕に参りました」

 何故かは分かりませんが、ここは給仕の……特に女性の入れ替わりが激しい。故に辞めた人間の顔など、この家の者達は大して覚えてはいないでしょう。ほんの一時、他人に成りすますくらいなら、十中八九問題にはなりません。

 一通り私を眺めた男は、短く何かを呟いてゆっくりと頷きました。
 途端、本能的というのでしょうか。一瞬にして背を駆けた悪寒で、ようやく男が声を掛けてきた意味を覚りました。
 男は視線で私の全身を舐め回し、品定めをしていたようです。大股に近づいて来ると、私の腕を掴んで強く引き寄せました。
「奉仕の用なら別にある。来い」

……なるほど。新人の給仕が早々に辞めた理由、それから入っては早々に出て行く外部の女の多い所以が分かった気がします。
 不覚でした。この程度の術師が背後から近付いているのを全く感知できずにいたとは、情けない。
 自覚している以上に私は過去の思慕に傾倒しているのです。全く、潜入中に我を忘れて物思いに耽るとは、恥ずかしい限りです。

 こうなっては、もうどうする事も出来ないでしょう。
 こんな時は畏怖も焦りも怒りも、全ての反応は相手を興奮させる材料にしかなりません。
 黙って無反応を貫き凌ぐしかない。幸い一人で楽しみたいらしいこの男は、忍ぶように人気のない部屋へ私を通しました。
 本人が満足さえすれば、私の事などどうでもよくなるでしょう。きっと大事には至りません。命さえ奪われなければ問題ない。この程度、何でもないものだと思って耐えればいいのです。

――…………ああ、そうか。ここでは、虐げられる者は侮辱や恥辱、そして暴力に過度な反応をせず、ただ耐えなければ生きていけないのか。

 だときたら、私は随分ましでしょう。逃げようと思えば逃げ出す選択が出来ますし、思考も自由なのです。
 まだここに残っていたいから、だから体を汚されても乗り切る。そう決めたのは私自身の責任です。この男の強要ではありません。
 けれど。行動や思考、全てを強制され縛られている彼は。

――あの幼さで人の世の不条理を覚らざるを得なかった。

 あの人が何人をも凌ぐ超人的な才を持ち得ながら大業を何一つ成さずにいたのは、数多の選択肢を奪われた末に、行動を起こす理由さえも見出せなくなったからではないか。
 呪術界の常識を覆す力を誇示したとて何になる。悪習の染み付いた時代遅れの家系を滅ぼして何になる。下らない世界であがいて何を得られようか。懸命になるだけ無駄だろうと。
 消えない傷跡を付けられ、理不尽な侮蔑を向けられ、心にまで刻まれた傷はどれ程深いのだろう。

 呪霊に襲われている最中、幼い彼が痛みや恐怖に声を上げなかったのは。受けた傷を気に留めていないように振る舞っていた理由が、今解けた。

 あの幼い心には、保身的で時代錯誤の価値観が植え付られ、重い軛を打ち込まれているのだ。
 大人達の利己が、彼を諦観の思考に至らしめてしまったのだと。
 そう思った途端、無性に悔しくて、目の前の男が彼を侮辱した訳でもないのに、言いようのない低い怒りが胸の底で沸き立った。

――果てて終わった瞬間に必ず仕留める。呻吟の間も無く一瞬で縊る。

――この男の次は当主を狙おうか。それから血縁の近い術師から順番に殺す。有力な人間を十程仕留められれば御三家としての地位と機能はかなり揺らぐ。命を捨てれば出来ない事もない。

 殺気を決して表に出さず細く息をつけば、着物の合わせが強引に開かれ、男が覆い被さってきました。卑しい顔を視界に入れたくないので、横に顔を背け、全てが終わるのを待つだけ。極力己の意識を現実から遠ざけようと無心に努めるのみ。

 しかし。男はそこから何をするでもなく動きを止め、次いで覆い被さる気持ちの悪い体温と重みが忽然と失せました。
 正面に向き直り見上げると、亡失とした表情で停止した男の顔が浮いています。
 そして、更に後方へ目を向ければ、男の襟首を掴んで軽々引き上げる彼と、視線が交わったのです。

「…………甚爾くん。どうして、ここに……」

魂の回顧
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