世は瑞光より目映し
 翌日の朝方、驚く事が起こりました。
 それは布団の中で深々眠りをむさぼっている最中の事です。
 突然戸が開く音がして、はたと目を覚ましました。それはそれは驚愕し、飛び起きて冷や汗をかくほど緊迫しました。
 己の結界への自負が油断を生んでいたのも事実ですが、何より音がするまで、誰かが近づいて来ている気配さえ読み取れなかったので、これは気配断ちの達人に侵入された、と思い込んだのです。
 けれども、息を殺して廊下を歩いてくる相手を窺ってみたところ、たちまち緊迫の糸は途絶えました。

「甚爾くん……!」
 ぱっと廊下へ身を出せば、彼は少しばかり目を見張って二、三度瞬きをすると、みるみる内に呆れ顔になりました。

「……相当寝相が悪いんだな」
 何故それを知っているのでしょう。私も目を白黒させて自分の身なりを見下ろせば、なんといつにも増して夜着が乱れていたのです。合わせは上も下も見事に開いてあられもない格好でした。
「あの、これはですね」
「だらしねぇ奴」
 含み笑いをほうった甚爾くんは、すたすたと台所の方へと行ってしまいました。

 これは寝起きで焦っていて……。という弁解の余地はもらえませんでした。
 今更気付きましたが、彼はまだ私の短刀を持っていてくれています。つまりもっと冷静になれば、自身の術式の気配を探り彼を感知出来ていた筈なのです。
 確かに彼の言う通り、だらしない。
「呪詛師としての私」なら、そもそも熟睡するなどあり得ない事です。
 甚爾くんには呪力が一切無いとはいえ、昨日に引き続き、やはり相当気が抜けているのは否めません。

 それはさておき。甚爾くんは一体何をしにここへ来たのでしょうか。
 追いかけて台所へ行くと、そこには肉や野菜がいくつも置き並べられていました。彼は昨日のように袖に食材を隠し持って来てくれたのです。

「わぁ……、ありがとうございます!」
「もうウロウロすんなよ」
 この施しは、間違いなく優しさの表れでしょう。
 激情に支配され衝動的になりかけた自分を省みると恥ずかしい限りです。
 破壊は何も生まない、それよりも成すべき事が他にあるだろうと、諭されている気さえしています。
 ならば、はじめに誓ったままの気概は正しかったのだと、改めて自信を持って前に進めそうです。

 彼は不思議な子です。ただそこに居てくれるだけで、心の汚濁を優しくそそいでくれるのです。

「ねえ甚爾くん。ちょっと抱きしめても良いですか?」
「やめろ触んな」
 軽く伸ばした手は呆気なく弾かれてしまいました。昨日は大人しく腕に抱かれてくれたのに、不意打ちがよくなかったのでしょうか。
 何度か腕を振って甚爾くんを捕まえようとするのですが、ことごとく躱されてしまいます。

「お願いします。一秒だけ。ちょんって感じですから」
「うるさい」
「あっ、そうです。傷の経過を見せてくれませんか」
「必要無い」
「見せてくれないのなら、朝ご飯抜きにしますよ」

 勿論冗談です。けれど甚爾くんは私を避ける身構えを急に解いて、無抵抗になりました。
 しかも、居間へ行って座っているようにと伝えれば、やや不満げな表情を見せながらも、言う通りにしてくれたのです。
 正直、私の朝ご飯程度で聞き入れてくれるとは、夢にも思っていませんでした。
 その素直な行動は、つい叫びながら背後より抱き締めてしまいそうな可愛さです。余程お腹を空かせているのでしょう。
 多少強がっていても根は子供なのですね。本当に可愛い。
 けれども、これ以上しつこく構って嫌われては本末転倒です。気を取り直して真剣な顔を作り、救急箱を抱えて居間へ向かいました。

 襖を開ければ、彼はちゃんと言われた通りに待っています。ついつい気を張った顔が溶けそうになりましたが、必死に堪えて彼の前に腰を下ろしました。
 日毎に衛生材を取り替えるという、最低限の処置だけはしてくれていたようです。だいぶ雑に貼り付けられたガーゼを取り、傷の具合を確認します。

――化膿してはいませんね。それどころか、皮膚もしっかり再生している。……でも、これは跡が残ってしまう治り方だ……。

 あの日、もっと早く甚爾くんのそばに現れていれば、彼は傷付けられずに済んだ。思わず己の無力さに落胆しそうになって、慌てて笑顔を取り繕いました。
 本人が気にしていないものを私が残念がってどうするのかと、内心に叱咤されたのです。
 何事にも無関心な反応は、何事も諦めるしか選択肢が無いと思い込んでいるがゆえなのかも知れない。
 だとしたら私が彼にしてあげられるのは、一つだけでしょう。

「……ふむ。いい感じのチャームポイントになりましたね!」
「……はあ?」
「えっと、シニカル……ニヒル……? ぺ……ぺみ? ぺしみすてぃっく……? うん、つまりダーティでペシミスティックでカッコいい!」

 傷跡を前向きに捉えて欲しい。
 ただその一心で、正直自分でも何を言っているのか意味が分かりませんが、格好良い横文字を並べてみました。
 そもそもこれが良い意味の単語なのかすら知り得ませんが、きっと甚爾くんにも分からないでしょう。
 なんとなく素敵だと伝われば良いのです。この傷跡を諦めて無視するのではなく、受容してもらいたいのです。

「それ褒めてんのか」
「当然です。カッコいいってお伝えしているじゃないですか」
「横文字言いたかっただけだろ」
 あっさり図星をつかれました。本当に賢い子です。
「いえいえ。何を仰います。知性と教養のあるこの私が、取り敢えず適当な横文字を並べて、どや顔する訳が無いじゃないですか」
「そうか。だったら当然、英会話も流暢に出来るんだろうな」
「ええ。言うまでもなく」

 何故か追い込まれている気がしてなりません。薄笑いを浮かべる甚爾くんの口端の傷が僅かに歪むのが、なんだか悪巧みをしているように見えます。

「流石だな。軽く披露してくれよ」
 もしや私は嵌められたのでは。しかしここで引いては何の面白味も無いでしょう。私は脳内にあるありったけの知識を集約させて言葉を紡ぎました。

「…………アイ、アム、ア……ペン…………」

 おでこを弾かれました。
……割と強めに。地味ですがなかなかの痛さです。
 見事に甚爾くんに呆れられてしまいました。けれども、ちらとその表情を伺ってみると、私から視線は逸らしているものの、どうも怒らせたり悲しませてしまったのではなさそうです。胸を撫で下ろしました。

 そうして甚爾くんの様子を窺いつつ、少しばかり向き合ったままでいたのですが、不意に私へと眼差しを向けて来た甚爾くんがどこか不機嫌そうです。
 「あっ、そうだ」と、私は先程の約束と彼の空腹を思い出し、すごすごせっせと朝食作りに取り掛かりました。

 それにしても、今日は朝から素敵なはじまりを迎えられました。
 手早く支度を進める間も、なんだかとても良い日になる予感が溢れてやまないのでした。

 そしてしばらく経ち、少し前に感じた予感が的中しました。
 なんと。食事を終えて一息付き、食器をまとめようとした所、甚爾くんが片付けを進んで手伝ってくれたのです。
 良い事はそれだけにとどまりません。
 片付けも終えて、甚爾くんを外でお見送りする間際です。

「昼になったら戻る。…………あと。夕方も」
「え! お昼も! お夕飯も、ご一緒出来るんですかっ!?」
「そうだよ。材料も持ってきてやるから大人しくしてろ」
「はい! 待っています!」

 嬉しくて嬉しくて、もうどうしようもありませんでした。恥を気にせずそれはもうぐずぐずに相好を崩しました。
 流石にその顔が見苦しかったのでしょうか。甚爾くんに目を逸らされてしまいましたが、その程度では私は全く堪えません。むしろ好機でしかないので、隙につけ込んで彼を抱き締めました。

 しみじみ腕の中の触感を確かめてみると、やはり彼の体は見た目よりずっと逞しいです。
 柔らかい、と感じる部分がほとんどなく、引き締まっています。
 勿論成人の男性に比べたらまだまだ華奢な体付きですが、きっと彼は身体的な成長も早い。数年で驚く程大きく成長する事でしょう。……なんて。既に彼の将来の姿は知っているのですが。それでも、何故か今から楽しみな心持ちなのです。

「オマエ……、また……っ」
 すると引き剥がす勢いで肩を掴まれました。けれど、甚爾くんは私を拒むのを諦めたのか、すぐに手を離してくれました。
 何事も最速の諦観はすべきではありません。でもこのひとときにおける彼の判断は大正解です。
 甚爾くんは長いため息をつくと、もう少しだけ私の腕の中で大人しくしていてくれたのでした。

戯言は暁の言祝と成す
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