世は瑞光より目映し
 私は懲りずに次の日も甚爾くんの許へやって参りました。鷹揚と廊下を歩く彼の半歩後ろを追いかけながら、まさしく現在もしつこくお誘いしている次第なのですが、一向に見向きもしてもらえません。

「甚爾くん。どうです、一度私と手合わせしませんか」
「しない」
「いいじゃないですか。ね、一回だけ」
「めんどくせぇ」
「ふむ。つまりこの私に負けるのが怖いのですね」
 すると途端に彼はぴたりと歩みを止めて、凛とした目付きを更に鋭くしてこちらに向けたのです。

「は? 誰がんなこと言った」
 これは思いもよらぬ反応です。負けず嫌いな性分なのでしょうか。ならばここを突かない手はありません。
「いえお気になさらず。相手は大人とはいえ、女性に負けたとなれば大層恥ずかしい事でしょう」
「負けてねぇよ」
「勝ってもいませんよ?」
「…………吠え面かくなよ」

 見事に釣られてくれました。やはりまだまだ子供なのですね。可愛らしい限りです。
 彼は私を術式頼りのひ弱だと思っているのでしょうが、暗殺者たるもの迅速な判断と行動が重要となりますので、己の体も鍛えていて当然です。
 場合によってはこの手で標的を仕留めねばならないので、近接戦も対処できて然り。体術は得意どころと言っても過言ではありません。
 ここで上手く彼を唸らせる動きを見せれば、もう少し距離を縮められる可能性も見えてくるでしょう。この機を逃すべからず、です。
「では隠れ家に参りましょう。周囲にも結界を施してあるので、外でお相手します」

………………甚爾くんの姿が逆さまに見えています。
 そうです。私は彼に軽く投げ飛ばされて、その辺りの木の枝に足が引っ掛かり、宙吊り状態になっているのです。途中まで善戦していたつもりでしたが、それはどうも手加減されていた模様です。実に悔しい。

――しかし、おおよそ十は年下にも関わらずこれですか。身体能力のみならず感性も流石としか言いようがありませんね。

 彼の身長はまだ私よりもやや低く、とは言え体付きは同年代の子供に比べたら確かに筋肉量も多く成長も早そうです。ですが、見るからに体格が良いという姿体ではありません。
 だとすると、膂力の未熟さを他の能力が補っているという所でしょう。
 現時点でも術式なしならこの家の人間の大半は彼に敵わないのではないでしょうか。恐らく周りの大人達が彼に大きな顔をしていられるのもあと数年といった所でしょう。
 指導者によってはもっと短期間、一年も満たず強靭に育てられるかも知れない。底知れない潜在能力です。
 逆さになったまま腕を組んで感心していると、呆れた声が下から聞こえてきました。

「めくれてんぞ」
「そんな事より、体術は誰に教わっているのですか」
「うるせぇ。その格好なんとかしろよ」
 子供の彼にそこまで言われる程の事でしょうか。ふと上体を持ち上げ見ると、着物の前合わせは乱れ裾も見事に捲れているので、確かに見苦しい姿ではあります。年下に諭される経験は初めてですから、何だか感慨深いです。

 木の上から降りて着衣を整えながら「お腹空きません? お昼にしましょう」とめげずにしれっとお誘いしてみます。
 すると、あっさり断られるかと思いきや、何と彼は素直に家の中に入って来てくれました。
 どうやら彼も空腹だったようです。やりました、私の作戦勝ちでしょう。

 甚爾くんを呼びに行く前に、ある程度下拵えを済ませていたので、早々に調理に取り掛かりました。
 できたものを居間として使うことにした一番広い部屋に持っていき、手早く机の上に並べます。

「お待たせしました」
 すると、料理を見遣る彼の目は、これは想像していなかったと言わんばかりに丸くなっていたのです。

「食糧はどうやって用意した?」
 甚爾くんの視線が交互に卓上とそれから私に向きました。

 実は。この家に常備されていなかった諸々の必需品は、本邸に忍び込んだ折、使っていなさそうな衣服や物品の棚を探ったり、食材が運び込まれる時間を図ったりして、ちゃっかりと我が物にしたのです。
 勿論食材は選り好みはせず、一、二人分無くなっても気付かれなさそうなものを頂いているので問題はないでしょう。

「禪院家より拝借しました」
「いや盗んだんだろ」
 そういう言われ方をされるとどうにも具合が悪いです。聞こえない振りを通していると、やや剣呑な面持ちで甚爾くんは言葉を続けました。

「本気で住むつもりなのか」
「ええ。行く宛もないですし。ここは隠れ易く、色んな物が手に入り易いですから」
 調べてみた所、この家と同じような家屋が十四件、森と人の住む敷地の境界をなぞる様に均一な距離間で配置されていました。ここ以外に十三の家屋があるのなら、元より持て余している建家が一つ消えても、誰も気に留めないでしょう。
 後は備品等を拝借する際に、人目につかぬよう気をつければ、この結界内にいる限り数年単位で滞在出来るという見立てです。

「やめておけ。その内見つかるぞ」
 私を慮ってくれているのでしょうか。それとも侵入者として捉えられた私が拷問を受けて、彼の名を家の者に出しやしないかと懸念しているのか。しかし、どちらにせよ杞憂に過ぎません。
「平気ですよ。それより冷めちゃいますから、早く食べましょう?」

 食事の間、私が話しかけても甚爾くんは大した反応を見せてはくれませんでした。
 料理への感想は美味しいも不味いも一切なかったのですが、残さず全て食べ切ってくれたので、前向きに及第点だったと判断することにしましょう。
 お箸を置けば、きっと甚爾くんはすぐに立ち去ってしまうに違いありません。二人で過ごすひとときの終わりに名残惜しさを感じながら正視していたのですが、彼はこちらに目を向けようとはせず、黙って俯きがちに机の上に目を落としていました。何かを考え込んでいるようにも見えます。

「……甚爾くん?」
 すると彼ははたと沈思から浮かぶように顔を上げて、視線が交わるやいなや、立ち上がって背を向けました。けれど、立ち去る素振りは何故かありません。
 追って私も横に立ちながら甚爾くんの顔を覗き込みました。

「もう行かれるのですか」
「……訓練だ」
 心底面倒くさそうな表情で、ため息がちに彼は吐き捨てました。
 取組みを億劫にさせるのは訓練そのものではなく、関わる人間が原因なのでしょう。
 引き止めたい心緒に胸が締め付けられそうです。「行きたくない所になんて行かなくていい」そう言って腕を引きたくなる衝動を抑えながら、渋々と歩き出す甚爾くんを表まで送りました。

「気をつけて、行ってらっしゃい」
 そう声を掛けて本邸に向かう背に手を振ると、にわかに振り返った甚爾くんの面持ちは、驚きに染まっていました。
「……何だそれ」
「またご飯を食べに来てくれるといいなと思いまして」
 すると忽ち怪訝そうに眉根を寄せた彼は、前へ向き直り今度は振り返らずにそのまま立ち去っていきました。

「…………。甚爾くん。何が好きなのかな」
 次はもっと美味しいものを作ってあげたい。あり合わせの物ではなく、彼の為の料理を振る舞いたい。
 誰かの為に作る料理は久しぶりでした。無意識ながらどうやら私はこのひとときを心の底から楽しんでいたようです。
 次回こそ甚爾くんに「美味しい」と言わせる為に、何を作ろうか。ただただ愚直に気持ちは浮き足立っていたのでした。

希求を紡ぎて
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