禪院家潜伏を決意し、三日後。人気のない廊下を進み行く甚爾さん……、もとい甚爾くんを待ち伏せて部屋の中に潜んでいた私は、彼が通り行く間際、障子越しに声を掛けました。
「甚爾……、くん」
すると無視せず立ち止まってくれたらしく、単調な声が返って来ます。
「……。まだいたのか」
「あの小屋をこっそり借りて、しばらく滞在することにしたのですよ」
途端に目の前の障子が空き、対面したのは驚きを湛えた甚爾くんの双眸です。
「は? 正気か」
「勿論。この三日で大体の構造や人手は把握しましたから」
胸を張って堂々としてみせますが、甚爾くんの視線は訝しげです。
……私の本業は術式を生かした暗殺でした。警備が厳重であればある程、その自負と余裕に付け込み隙を掻い潜るのです。
故に、慎重に時間を掛けて身を潜められる場所を調べ上げ、家の護衛にあたる人員の数や動き、その他の人の数や屋敷全体の動線等々、潜入してからも実際に目で見たり報告の声を盗み聞いたりと、常に最新の情報を迅速に掴むという作業こそが生業と言っても過言ではありません。
とは言っても、この家を三日で……というのは実は真っ赤な嘘です。三日掛けて行ったのは主に拠点の大掃除でした。
彼には伝えられませんが、私はかつてこの家に侵入し、とある人物を暗殺する依頼を受けた事があったのです。
その為、おおよその位置関係等の情報が記憶に残っていました。そのお陰で、脳内の地図の相違や人の動きの確認程度であちこち動き回れるという訳です。
……
――ああ、そういえば。あの依頼を受けた時、私は丁度彼くらいの年頃でしたね。
引き受けた依頼は禪院家次期当主として最有力である子息の暗殺。私は自身の術式に自信はあっても過信は決してしません。
常駐する術師は勿論、この家と密接な繋がりのある者の情報や、本邸別邸隣接する山及び地形など、綿密に下調べをし、何通りもの潜入経路と退路を確認し、満を持して暗殺にいどみました。
標的である少年を発見した私は、無防備で楽しそうに駆けていく姿を密かに追っていました。誰にも気付かれていない確証がありましたし、幸運なことに少年が向かって行くのは警備の手薄な方面でした。
急いで何処へ行くのかは知りませんが、もう少し進んだ場所で仕留めようと思った、その矢先です。
足音が止んだ為、潜んでいた屋根裏の板の隙間からそっと廊下を覗き込みました。すると、標的の少年の目の前で立ち止まる男が一人。そして男は私の方へ視線を向けていました。
ひと睨みで思考も身体も完全に停止させる程の威圧感。
有り得ない。気付く筈がない。私は物音ひとつ立てずに少年を追っていたのに。
禪院家にて組織された集団、躯惧留隊や灯、上位に位置する炳にも私は気取られてはいない。
それどころか、未だ嘗て一級術師にでさえこの遁術を見抜かれた事は無かった。
それなのに、名も知らぬ彼は私の存在を確とその目に映していました。
彼がその気になれば一瞬で縊られる。圧倒的な力の差を肌の粟立ちで感じていました。
御三家がひとつと謳われ恐れられるこの家さえ造作もなく潰せる程の力が、彼の肉体には秘められていると理解しました。
あれ程時間を割き苦労して調べ上げた御家が取るに足らないと思える程の恐怖。視線を交えている最中、ずっとそれだけが私を支配していました。
――知らない。こんな人がいたなんて。
――……でも。どうしてこの人はこんな場所で大人しくしているのだろう。
畏怖と羨望と、それから言いようのない感情を渦巻かせた体は、逃げる事もできずに硬直したままでした。
けれど不意に彼は私から視線を外し、踵を返して行きました。
理由は分かりませんが、結果として彼は侵入者を見逃してくれたのです。恐らくは完全に私が戦意を喪失していたからかも知れません。
彼の牽制を素直に受け、私は直ちに依頼を降りました。
依頼者の望みを叶えられなかったのは、それが最初で最後でした。
なんてませた子供だろうと、我ながら恥ずかしい限りですが実の所、あの刹那の時に畏れと同時に私は彼に思慕を抱いていたと、後になって気付きました。
ですが、大人しく引き下がったのは彼に恋をしたが故の服従ではありません。私という存在、呪詛師の存在を知られたくなかった、薄汚れた私をあれ以上見られたくなかったからです。
昏くも研ぎ澄まされた鋭く猛々しいあの瞳を、穢れた世界に向かわせたくない。そう強く願ったのです。
幼い彼を見ていると、そんな純粋な思いを抱いていた頃の自分が沸々と蘇ってきて、何だか少々気恥ずかしく思えてきます。
「……ところで甚爾くん。匕首、役に立ちました?」
「気持ち悪いから捨てた」
彼は私から目を逸らしました。
「そうですか……」
私はあからさまに残念がって肩を落として見せましたが、本当は知っているのです。甚爾くんは嘘をついているのだと。
あれには私の血を媒体として術式が付与されている訳ですが、自分の術式及び体の一部の気配を読み取れない術師がいましょうか。
渡した小刀は、今もしっかり甚爾くんの懐でここにいるぞ、と私に存在を示していました。
少々彼の気質を理解した気がします。口も悪く素気ないですが、ただ素直になれない子なのかも知れません。
それがなんだか愛らしく思えて来て、危うく口元が浮つきそうになるのを物思いに耽るが如く拳を添えて隠しました。
「オマエ、今まで何してたんだ」
「ん? 何、というと?」
「妙な呪具に怪しい術式。胡散臭い事ばっかしてそうだな」
「胡散臭いどころか。実に下らないことばかりです。まあそれは良いとして……甚爾くん。もしかしなくとも傷の治療はしていませんね?」
彼の口端を見ると、私が昨日応急処置を施した状態から少しも変わっていませんでした。
「こんなもん放っとけば勝手に治る」
「傷跡は残りますよ」
そう告げると、彼はどこか機嫌が悪そうに黙ってしまいました。
当たり前の事を言っただけだと思ったのですが、何が彼の気に障ったのか。そもそも彼が怒っているのかどうかさえ私には分かりませんでした。何故か私は居た堪れなくなり、苦し紛れに口を開きました。
「何度も言いますけど、一人は暇なので遊びに来てくれませんか」
「嫌だ」
彼は短く突っぱねて歩き出します。
「安心して下さい。ちゃんとお掃除しましたから綺麗ですよ」
めげずに着いて行こうとした矢庭、残念ながら彼の向かう先に人の気配を感じたので「またお誘いに伺います」とだけ告げて物陰に身を潜めました。
「……もう来んな」
そう呟きを残した甚爾くんの表情は、果たして飽き飽きしていたのか、それとも冷淡で無感動であったのかは分かりませんでした。
慕情の上澄み
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