世は瑞光より目映し
 陽光に照らされる外界の景観は、予想通り禪院家の敷地で間違いありませんでした。しかし本邸の付近を彷徨くのは大変危険です。より一層周囲への注意を怠らずに、私達は外れの方へ向かって歩みを進めました。
 外に出られたので、手を繋ぐ少年にそろそろ離せと拒まれるかもと思いましたが、意外にも大人しく着いて来てくれています。傷の手当もしたいと思っていたので幸いです。

 暫くして殆ど森と同化している小ぢんまりとした家屋を見つけました。恐らくこれはかの家が抱える専属部隊が使用する管理小屋のようなものでしょう。
 古き良き日本の田舎を想起させる小さな平家の一軒家といった外観のそれは、頻繁に使っている気配はなく中に人の気配もありません。
 簡易ですが、先ほど自身に纏ったものと同様の術式を家全体に付与し中に入りました。

 家の中は片付いてはいるものの埃臭く、少なくとも一年は放置されている様子です。家の真後ろに森が広がっていますが、日当たりは良好。畳や床板も腐食していない。

「中々良い場所ですね」
 呟きながら部屋を物色していると、目当ての物を見つけたので早々に彼を水場に連れて行きます。
 今の私は天が全力で応援してくれているのか、なんとこの家は水もしっかり通っていました。蛇口を捻ると少々始めの出は悪かったものの、次第に水が流れ出しました。暫く出し続け確認してみると色も問題なし、においも問題なし、です。

「よし。ではまずその傷を洗って、簡易ですが手当てをしましょうか」
 彼の負った口元の怪我は、本来ならば傷口を縫う必要があるにも関わらず、あの短時間で殆ど血は止まり始めていました。
 私が応急処置を施す最中、彼は相変わらず鋭く私を睨みつけています。不審な動きをしたら容赦なく攻撃すると言いたげに。
 但し、私も幾度となく殺意を向けられたり向けたりを繰り返してきた人間なので、真に殺気の篭っていない威嚇では全く怯みません。むしろ黒豹の仔の小さく幼い牙を向けられているような感覚なのです。密かに可愛いと思っているとは口が裂けても言えませんが。

 しかし、彼の眼差しの奥にあるものには、言いようのない遣る瀬なさを覚えています。未成熟の瞳には子供らしい光がないのです。何も信じていない、喜びも悲しみもない。そういう瞳でした。
 きっとこの目は私だけではなく、誰に対しても向ける日常的なものに違いない、そう感じるのです。
 右の口端の裂傷への応急的な処置を終え、私はずっと知りたかった問いを彼に向けました。

「念の為、確認なんですけれど。禪院甚爾……くん。ですね?」
 すると途端に彼は視線を険しくしました。私の見解は正しいと見て間違いないでしょう。眼前の少年が幼い頃の甚爾さんだとすると、にわかに信じ難いですが私は過去の世界に在るという事になります。

「……まだオマエの答えを聞いてない」
「私?」
 何か質問されていたでしょうか。少し記憶を遡ってみると、呪霊に囲まれる寸前、彼に問いかけられていたのを思い出しました。
 そういえば質問に質問で返すだけで私は応答をしていなかったのです。
 ただ、彼が納得する答えを持ち得ない私は、少々迷いました。ありのままを伝えた所で信じてはもらえないでしょうし、それらしい言い訳を考えようにも全く思いつきません。逡巡の果て、ある程度は正直に白状することにしました。

「実は分からないんです」
「は?」
「誰が何の目的で私をあの場所へ遣ったのか、何もかもですよ。……もしかしたら。せめて何かひとつ、私が生きてきた意味を持たせる為に、天が機会を下さったのかも」
「訳わかんねぇ」
「ですよね。でも本当です。出来る事なら貴方の質問に答えたいのですが、この命がここに留まる意味を見つける為にやって来たのかも知れません、としか言いようがないのです」
「…………。家の奴らには言わないでおいてやる。さっさと出てけ」

 私を見る甚爾さんの目は、気狂いには付き合いきれない。と語っています。
「呪霊を払った事と手当ての借りを踏まえて、見逃してやるのがこの不審者に対する最大の譲歩」といった結論に至ったのでしょう。

「言っておきますけど、私は狂人ではありませんよ」
「そういう奴ほど無自覚に狂ってる」
「成る程。では気狂いはこの私だけで、禪院家及びそこに属する貴方の思考は至極正常であると?」
「何が言いたい」
「貴方は何故武器も持たずあんな所に一人でいたのですか」
「…………。さあな。嫌がらせだろ」

 一体あの空間にどれ程いたのかを聞けば、時間など測るだけ無意味なので知らないと彼は無感情に言いました。つまり、数時間に渡って呪霊の群れの中に放置され、解放されるまでただ延々と呪霊の攻撃を受けないよう身一つで凌ぎ続ける日々を幾度も繰り返しているという事でしょう。
 身内の、しかも十も満たない子供に対するものとは思えない酷い仕打ちです。
 狂気の大人達への怒りよりも、私はただ彼の為に何か出来ないものかと脳髄を絞り捻る思いで考え始めていました。
 そしてふと自分の胸元に手を当てた時、固い感触に閃きが走ったのです。

――これなら多少は役に立つかも知れません。

「では、貴方に良いものをあげましょう」
 徐に襟を開き、胸の間に挟んで常に携帯している匕首を取り出して彼に差し出しました。
「何、これ」
「呪具です。きっと貴方のお役に立つと思いますよ」
 訝しげな面持ちで逡巡していた甚爾さんでしたが、渋々といった様子でそれを手に持つと、途端に思い切り顔を顰めて私を見上げます。

「生暖かい」
「文句言わない。それよりどうです? 何か気付きませんか」
「何かって……」
 手の内にある匕首を角度を変えたり刀身を抜いて眺めながら、彼は眉をひそめながら口を開きます。
「これ、本当に呪具か?」
「何故そう思うんです?」
「何も感じない。呪具としての気配も、刀としての気配も」
「さすが甚爾さ……くん。これはそういう呪具なんです」

 言ったら突き返されそうなので秘密にしておきますが、この呪具は特殊な技法で打たせた私の血液と術式が宿る小刀です。
 完璧に呪力を隠している為、気配を覚られる事もなければ、残穢を残すこともない、暗殺には打って付けの私の相棒とも言える代物です。
 彼ならば上手にこの呪具を扱ってくれる事でしょう。一先ず今の私が甚爾さん……くんの為に出来そうな事はこの程度です。

 まだ私の命がこの時代にある内に、他に何か役立てそうな事を模索するにはやはり禪院家に滞在するのが最善でしょう。
 というより単純に彼の近くからまだ離れたくないという我意がなきにしも非ず、というのが本音ですが。

「ふむ。素敵なアイテムを託した事ですし、……ではここをキャンプ地とする!」
「いや何言ってんだオマエ」
「ちなみに私はオマエではなく美緒と申しますので宜しくお願いします。お暇でしたら是非遊びにいらして下さい」
「行かねーよ。死にたくなきゃさっさと出てけ」
 呆れた表情で吐き捨てた彼は、私の方を振り返りもせずに出て行ったのでした。

「あ、でも匕首はしっかり持っていってる」

いとけなき瞳に糾いて
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