床が酷く冷たい。目を開けた時、私は薄暗い場所に横臥していました。起き上がって上下に目を向けると、床も壁もコンクリートで造られているようです。窓などの明かり取りがひとつもない、地下施設らしき場所です。
――死んだ後も意識が残るとは。ここは、地獄?
首を傾げたその時、忽ち知覚したのは呪霊の気配。程度は弱いが四方に無数にいる。特に後方には群れて集っているようです。
速やかに立って身構えながら振り返ると、呪霊達は私には見向きもしておらず、一点の場所に折り重なるように群がっていました。
そしてざわざわと聞こえる呪霊の囁きの中に一瞬、子供の呻き声が聞こえたような気がしました。
「まさか……」
駆け寄ると、一斉にこちらを向いた呪霊達の隙間に、着物姿の男の子が蹲っているのが僅かに見えたのです。
私は足は止めずに即刻印を結んで結界を少年の周囲に展開し、呪霊を弾き飛ばしました。
次いで棒手裏剣を模した小さな結界を数十作り出し、蠢く群れに向かって飛散、呪い達の体に深く突き刺し一斉に拡張。これで排除は完了です。
爆ぜる呪いの残り滓を振り払い少年の傍で屈み込むものの、彼は背を丸めたまま動きません。地面に赤々と鮮血が飛び散っているので恐らく怪我を負っているのでしょう。もしも胸部や首などの急所を傷付けられているのだとしたら、早急な手当が必要です。
「もう大丈夫ですよ。傷を見せて下さい」
そう言って私は肩にそっと触れましたが、思い切り少年の手に弾かれてしまいました。
「……触んな」
警戒心を剥き出しにして私を睨みつけた相貌を目にした途端、驚愕のあまり息を飲みました。
「甚爾、さん……?」
けれども、その姿は私が知る彼にしては余りにも幼いのです。目の前の少年は背丈も相貌も十歳程度に見受けられます。もしや彼の親族なのでしょうか。
それに咄嗟のことで今の今まで深く考えていませんでしたが、私は生前同様術式を使えました。一体何故……。
この場所に居る意味も分かりかねます。薄らと見覚えがある場所のような気はするのですが、行き方は勿論、自ら足を運んだ記憶は全くありません。不可思議な事ばかりです。
何よりそもそも私は死んだのです。何故当然のように生きているのでしょう。
……もしや、先だっての死の直感は錯覚に過ぎず、実は死を免れた私は何らかの実験台としてこの施設に放り込まれた。という可能性も無きにしも非ず。
けれども私を生かすメリットが何も思い当たらない。
混乱の余り愕然としていると、甚爾さんによく似た少年は、血まみれの口元を押さえながら後ろに下がっていきます。
「何なんだ、オマエ。誰に言われて来た」
「誰に、と言われても……」
むしろそれは私の方が知りたい情報です。一体誰が何の目的で私をこの場所に放置したのやら。
ですが少しずつ蘇ってきた記憶と、惑いながら一周回って落ち着いた思考が少しずつ憶測を組み立て始めています。構造からして此処は訓練又は懲罰用に使われる部屋でしょう。そしてこんな異質な部屋を有する敷地にも大方察しがつきます。
冷静に考えてもあり得ない事態ですが、一つ一つ疑惑を紐解いていくしかありません。
「あの。ここはもしかして……禪院家の敷地内、だったりします?」
「だったら何だよ」
その返答は肯定と受け取っても良いでしょう。それだけでも己の状況が読み取れて来ました。そして生まれたのは一つの仮定です。
但しその仮定は余りにも非現実的で信じ難い。思考は新たな惑溺の渦の中に落ちてしまいそうです。
「教えて下さい。今は……」
しかし途端、会話を邪魔するようにまた新たな呪霊が無数に三方の壁の間に空いた空洞から飛び出して来ました。
私は彼に身を寄せて腕の中に引き入れると、全ての敵に結界を打ち込み、先程と同様一斉に霧散させました。
けれども、どうやらまだ奥に怯えて潜んでいる呪霊がいるようです。すかさず空洞全てに幾つもの小さな結界を送り込んで、一気に限界の大きさまで拡張させます。
どうも今日の私は調子が良いようです。思いの外肥大させ過ぎた結界は、私達のいる広間まで壁を破壊しながら轟音と共に広がってしまったのです。亀裂の入った天井が不穏な音を立て始めました。
「あらら……、少しやり過ぎました。崩れるかも知れないので一旦出ましょうか」
尖らせた結界で指先を裂き、血液を使い掌印を結び自身に結界を張る。
これに因って私の呪力や気配の類は一切身の内から漏れなくなりました。この少年以外に視認されない限り、私の存在は誰も感知できない状態にあります。更に先ほど放った術式の残穢もこの能力で隠せます。
今の所間近に人の気配は無いものの、ここが禪院家の敷地内で相違ないとしたら、明らかな不審者たる私などは発見され次第捕縛、拷問の末に排除されてもおかしくはないでしょう。
十も満たない歳であろう子供を呪霊の群れの中に武器も持たせず放置する非道な所業をする連中が、慈悲深い思考を持ち合わせている筈がありません。
一先ずこの施設の外へと出るべきだと判断し、甚爾さんに似た少年の手を取りました。
私への警戒を解いていない彼は、当然その場から動かず振り払おうと力を込めてくるのですが、あまり長居してしまうと、例え辺りが崩れなくとも異音を聞き付けた誰かしらが様子を見に来てしまうでしょう。
私はさて置き、本来無関係な彼も何かしらの難癖をつけられる可能性は否定出来ません。私にとっても彼にとっても立ち去るのが良策に違いないのです。
振り解かれないように握る掌の力を強め、真っ直ぐに目線を合わせました。貴方に害を及ぼすつもりはありません、ただ貴方を守りたいだけ。そう心に込めながら「おいで」とだけ告げました。
すると念が通じたのか、警戒の眼差しは変わらずとも彼は抵抗をやめてくれたのです。私よりも少し小さな手をそっと引き寄せれば、ためらいながらも一歩を踏み出してくれたのです。
そうして私達は駆け足にその場を後にしました。更には本当に運の良いことに、案外容易く建物の外に出ることにも難なく成功したのでした。
手放せなかった和肌
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