世は瑞光より目映し
 今日は朝から雨催いです。次第に風が湿り出してきて朝食を終える頃にはさらさらと雨が降り注ぎ始めました。

「今日の鍛錬はお休みですねぇ」
「仕方ねぇな」
 いつの間に持ち込んでいたのか、甚爾くんは戸棚から教科書とノートを取り出し、机に並べ始めました。
 私は軽く手を叩き、立ち上がります。

「よし! することも無いですし。お昼寝しましょう」
「これが見えてねぇのか」
「甚爾くんは賢いので、一日くらい何にもせずにさぼっても大丈夫です」
「つくづく修学の指導に向いてない奴だな」
「何事も習慣化は大事ですが、休息だって重要です。毎日気を張ってばかりでは返って長続きしませんよ。最近の貴方は少し頑張りすぎです」
「それっぽいこと言って、自分が昼寝したいだけだろ」
「違いますよ! 私は甚爾くんの疲労を心配してるんです! あ、そうだ」

 妙案を思いつきました。私は縁側の方を向いて正座を崩し、手招きします。
「ほら、こっちにおいで」

 訝しみながらも甚爾くんが立ち上がったので、畳を軽く叩いて示し、真横に座らせました。
「それから……、こうですっ」
 やや強引に腕を引っ張って、横になるように示します。そして面倒くさそうに身体を倒す彼の頭が、私の膝の上に乗るように、自分の座る位置を調整。これで完璧です。

「…………なんだこれ」
「膝枕ですが?」
「そんなのは分かってる。なんでこんな事しなきゃなんねーんだよ」

 甚爾くんの顔はガラス戸の方を向いているので、表情は見えません。でも全く起き上がろうとする様子がないので、きっとそんなに悪くはないと思っているのではないでしょうか。

「まあまあ。目を閉じてみたら案外すぐに慣れちゃいますよ」
 返事は返ってきません。
 さりげなく頭に手のひらを置いてみても無反応です。

 屋根から落ちる雫の音だけが、あちこちで響いています。私の心持ちは跳ねる雨粒よりも軽く、薄暗い空とは打って変わって明朗としていました。
 私はそっと指通りの良い髪を撫でながら、自然と歌を口ずさんでいました。
 幼い頃に好きだった童謡です。母を亡くしてから、歌うことも思い出すこともしなかった歌。そんな昔の歌なのに、よく覚えているものです。
……そういえば、亡くした母もよくこうして歌ってくれたと、郷愁までもが蘇ってきました。

「変な歌」
 甚爾くんはおかしそうに声を弾ませ、身動いで仰向けになりました。その相貌には、初めて見る屈託ない笑みが浮かんでいます。
 ああ、この子は笑うとこんなにも可愛らしいんだ。と思えば、自然と笑みが溢れました。
「一緒に歌いませんか」
「歌わねぇ」

 口元を笑みにかたどったまま、甚爾くんは満足そうに目を閉じ、しばらく経つと呼吸が穏やかになって、眠ってしまいました。

 その寝顔の可愛い事ったらありません。
 世界中にこの愛らしさを叫び知らせたいくらいです。
 時折大人びた様子を見せる彼ですが、無防備になるとその歳の幼さがありありと面持ちに現れるのです。
 そんな甚爾くんの寝顔のみならず、穏やかに水を打つ音を聞き続けている内に、私も段々眠くなってきました。
 自分の歌なのに、まるで母にあやされているように、体がふわふわと軽くなっていきます。

…………雨上がりの空を二人で眺める夢を見ました。
 太陽の周りを囲う丸い虹が浮かんでいて、私がそれを撃ち落とせば、砕けた虹が七色の宝石になって降り注ぎました。
 甚爾くんに褒めてもらって調子に乗った私は、誤って太陽まで撃ち落としてしまうのですが、それが宇宙の組織に知られて私達は追われるのです。
 でも追っては全て甚爾くんが返り討ちにしてくれたので、私達は笑いながら夜の中を走って逃げていきました。
 太陽は爆散してしまったのに、月は煌々と輝いて、私達と一緒に笑うのです。まったく変な夢です。
 でも、なんだか楽しい夢でした。

 ふと目を開けば、あたりは雀色時に染まり切っていました。
 いつの間にやら身体が横になっています。腕を動かしてみると、どうやら薄手の上掛けに全身が覆われているようです。
 むくりと起き上がって部屋を目探ししましたが、甚爾くんはいません。そういえば、今日が約束のタダ働きの日だと聞いていたのでした。
 きっとお昼寝をしている間に時間が来て、行ってしまったのでしょう。
 まさか私の方が寝入ってしまったとは、迂闊でした。甚爾くんはちゃんと間に合ったのでしょうか。そんな心配をしている内にも、差し込む陽光はどんどん暗闇に飲み込まれていき、私は茫漠とした寂しさを覚えました。

 縁側のガラス戸を開け、外に顔を出せば、湿った土と草の匂いを乗せた涼しい風が通り抜けます。まだ梅雨も始まっていない時期なので、陽が落ちると途端に当たりが冷え込むのです。なんだかそれが物悲しいのです。
 座り込んで夜風を頬に受けながら、時間を忘れ電気もつけずにじっとしていました。

 なんだか、このまま緩い風に溶けてしまいそうな心地です。わずかに目蓋を伏せたその時、にわかに後ろが明るくなりました。
 振り向けば蛍光灯の光に目が眩みます。視界が真っ白で何も見えません。

「オマエ、今起きただろ」
 少し笑いを含んだ優しげな声。それが誰なのかは、見えなくてもすぐにわかりました。
 次第に目が慣れれば、腕に野菜などの食材を抱え込んだ甚爾くんの姿がはっきりと見えました。
 呆れたように、それでいて穏やかに、彼はこちらに笑いかけています。
 するとなんだか夜風が急に怖くなってきて、私は急いでガラス戸を閉めました。よろけながらも立ち上がり、甚爾くんのところに駆け寄って抱きつきます。

「……寝ぼけてんのか」
 情けないので「甚爾くんがいなくて寂しかった」なんて言えません。そういうことにしてくれると助かります。
 抱きしめた彼の体温は、私がここにいることをはっきりと教えてくれていて、ひどく安心しました。

 背中に手を回したまま二、三度頷きを返せば「ぼさっとして手を切りそうだから」と、甚爾くんはいつものように夕食の支度を手伝ってくれました。

白雨去り天弓遍く
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