世は瑞光より目映し
 六月になりました。
 甚爾くんは欠かさず毎日隠れ家に足を運んでくれますが、日中どこかへ行ってしまう事が増えました。
「明日は朝だけ」だとか「明後日までの二日間は夕方だけ」といった具合に前もって教えて下さるので、特に困ってはいません。
 けれども会える時間が減ってしまい、正直に申しますと寂しいです。

 それに、どこへいくのかも何しに行くのかも教えてはくれません。「ちょっと」とか「野暮用」とか曖昧な言葉で誤魔化すので、もう詮索するのはやめました。
 
 ですが甚爾くんは、私に対して冷たくなったとか、態度が変わった様子はなく、普段と同じです。それでも気になるものは気になりますし、寂しいものは寂しい。
 こうして帰りを待っている時間は、意味もなく悶々としてしまうのです。

 縁側に座ってぼうっとしていると、二羽の雀が追いかけっこをしながら空を駆けていきました。

――まさか……。好きな子が出来た……とか……?

 あり得ます。好きな子どころか、両思いになった子がいてもおかしくはないでしょう。
 彼だって幼いとはいえ、歳は十なのです。
 おませな男児なら女の子の一人や二人に恋を……、いや、甚爾くんはそんなあちこちに目移りするような不誠実な子ではありません。…………。それは置いといて。
 さて、問題です。この世で甚爾くんのことを好きになる女児は一体何人いるでしょう?

 そう、答えはすべての子です。

 下手したら血縁者や大人でさえ、彼の魅力に抗えないでしょう。だってあんなに愛らしくて逞しくて優しい子なのですよ。もしも好きにならないという女性がいたら、私は十時間以上を掛けてその人が正しい判断をできるよう指導、更生をする所存です。…………だからそういうのは置いときまして。
 とにかく、もしかしたら何かのきっかけで歳の近い子と知り合う可能性はゼロではないのです。そして仲良くなっても不思議ではありません。

「そうです……! この前の、タダ働きの時……!」

 思い出しました。先日の傷の治療の代わりに、タダ働きをすることになったという件。甚爾くんは何をさせられたのかというと、御三家の家業の一つである、寺院の巡回祓除に行っていたのでした。
 そしてその日は、初めて仕事をした日でもあり、初めて家の外に出た日でもあったのです。
 
 きっとそこで縁に巡り会えたのでしょう。彼のこれまでの世界は極端に狭かったので、その人との出会いが新鮮で、毎日出掛けるようになったのかも知れません。
 それはそれは、実に喜ばしいことですね。……実に……。

「………………でも、甚爾くんが毎日でも会いたいなんて。どんな子なんだろう……」

 思わず本音を口に出した途端、私の胸の内に黒い影が蠢きました。

――…………ちょっと待ってください。この気持ちは、……嫉妬……?

 途端、私は黒い海に放り出されたような心持ちになりました。私はいま、一体どんな目線で嫉妬をしたのでしょうか? 母の目線? 姉の目線? それとも、女の目線?

――いやいや、女って……。相手はまだ十歳の子供ですよ? これはきっと、親離れを寂しがる母の心です。そうに違いありません。だって、そうじゃなきゃ、……あの子を男性として見ているだなんて、それだけで犯罪と同義でしょう。

 その時、黒海の中から私の足に絡みつく何かが現れました。

――「元はと言えば、私は“甚爾さん“のことを男性として愛していましたよね? 歳は幼いとはいえ、愛していた男そのものではありませんか。好きになるのは必然でしょう?」

「確かに……、いや。でもあの子が甚爾さんと同じ存在だとしても、今は子供。そして私は二十。だからダメなものはダメです」

――「離れている歳はたったの十。私が三十ならばあの子は二十。それのどこがどうダメなんです?」

「論点を擦り替えないでください。歳の差ではなく、成人が、判断能力の未熟な子供を、恋愛対象として見ているのはいかがなものか、という話です」

――「私こそ、論点を理解していませんね? 慕情を抱くことは罪ですか? 罪に値するのは、慕情に身を任せて甚爾くんを誑かすことでしょう? 私は悋気を抱いただけでなんの罪も犯してはいませんが」

「た、……確かに……。でも、…………って。あれ……?」

――……私、甚爾くんに恋してるのを認めちゃってませんか……?

 黒海から生まれた闇の私と答弁しているうちに、なんと私はとんでもないことを認めてしまっていたのです。自覚した途端、みるみるうちに頭が上気していきました。暴走気味の脳内は、堰を切ったように彼のことを考え出す始末です。

――ああ、もう! 気付いてしまったものは仕方がない……! これから先、この気持ちを知られずにどう過ごすかを考えなくては……!!

「あっ……!」
 瞬間、壁掛け時計が目に入り、はたと思い出しました。そろそろ甚爾くんが戻ってくる時間です。
 私は慌てて洗面所に駆け込みます。
 着物の裾をきっちりと直し、髪型の乱れがないか入念に確認、そして髪の一本一本の位置まで調整し、あとは表情を普段通りに整えようと、頬を摘んだり引っ張ったりしました。

――嫉妬深くて醜い女の顔になっていないでしょうか!? それに、甚爾くんの意中の子よりも、綺麗…………。

「ウワー! もー! 何やってるんですか、私はっ」

 その場に崩れ落ちました。
 何をいまさら恋する乙女ぶっているのか。本当に私はどうしようもない人間です。無意識ながら、女を思いっきりアピールしようとしていた自分が恐ろしい……。

――私は! 甚爾くんの前では女を出さないし、彼の恋を全身全霊で! 応援する!

 呪文のように心の中で何度もそう唱え、根性を叩き直すように頬を両掌で叩き、思いっきり頭を左右に振りました。
 そんなことをしているうちに、戸の開く音が聞こえ、私は弾かれたように駆け出します。
 玄関で甚爾くんの姿を認めるやいなや、急に心臓が暴れ出しました。
 今の私が為すべきことは、彼が快くこの家で過ごせるようもてなすこと。帰宅を出迎える言葉を、いつも以上に丁寧に紡ぐことです。
 私は背筋を伸ばし、声を飛ばしました。

「おきゃりまなっし!」
――全部噛んだ……。

「また昼寝してただろ」
 まともな出迎えさえ出来ない私に、甚爾くんは呆れながらも微笑みかけてくれました。相変わらず優しいです。
 ふと視線を落とすと、普段とは違うものが彼の両手にありました。白いビニール袋が二つ。そのどちらも丸々と膨れ、何かがぎっしりと詰め込まれています。

 突き出すように彼は袋を玄関に置きました。
 どうやら見せてくれるようです。早速中を覗き込んでみると、なんと各種洗剤やスポンジ、柔軟剤とといった日用品、お風呂用品、そして化粧水や乳液などの基礎化粧品がいくつも入っています。

「……え……っと? どうしたんですか、これ」
「この前洗剤が無くなってきたって言ってただろ。あと、女はこういうのが要るって聞いて買ってきた」
「買って…………って、え!? 甚爾くん、お金持ってたのですか!?」
「居候で文無しのお前とは違うんだよ」
「うぐ……。でも! 甚爾くんはどうやってこんなに買えるだけのお金を捻出したのですか!」
「そりゃ働いて稼いだに決まってんだろ」
「働いて……?」

 聞けばなんと、禪院家の当主経由で呪霊祓除のお仕事を請けさせてもらえるようになったらしいのです。
 最近不在になることが多かったのは、お仕事に出掛けていたからだという事も判明しました。

 それから。…………私は、彼の努力も配慮も知らず、いるはずのない少女を仕立て上げ、あまつさえ比べようとした、実に愚かな人間だということが判明しました。

「あと、食材も適当に買ってきた」
「そ、そんな事まで……っ」
「毎日食いもんをくすねて二ヶ月。そろそろ採算が合わねえって怪しまれんだろ」
「……はい、仰る通りで……」
「バレたらどうするつもりだったんだ」
「私の術式は完璧なので、この場所に逃げ込めば問題ないかな、と」

 すると、甚爾くんは呆れた顔で息を吐きます。
「言うと思った。オマエらしいけどな」
「ンググ……」
 おかしい……。私の方が十も年嵩なのに。これではまるで無計画を嗜められる子供……!
「今後は必要なもんがあったらすぐ言えよ」
「は、はい! ありがとうございます……!」

 そんなこんなで夕食を終え、宵が近づいて来ると彼は本邸に戻って行きました。
 私は寝支度をしながら沈思していました。恋心を隠すとか歳の差がどうとか、そんな考えはとうにどこかへ吹っ飛びました。私はただただ愚かな自分を恥じています。

 甚爾くんは、私がここで生活し続けられるように一生懸命頑張っていてくれたのに、私はこのままダラダラと何もせず、彼に養われていていいのでしょうか。

――良いはずがありません。大人たる私は甚爾くんの模範となって然るべきなのに、これでは反面教師どころか人間失格。……彼に悪影響を与えかねません。せめてなにか、今の私でも甚爾くんの負担を減らせることはないものか……。

 頭を懸命に捻ってみるものの、なかなか妙案は降りて来ません。少し外に出て広い空間で考えようと私は表に出ました。

 家の裏手は案外土地が広い。けれどもそれだけです。
 雑草だらけの地面があって、その奥は木々の生い茂る裏山です。大した考えは浮かばず、私は家の周りを数周して、すごすごと屋内に戻りました。

 もう今日は寝てしまいましょう。何か案を絞り出さねばと逸れば逸る程、妙案は遠ざかります。一度心を落ち着けて、それからゆっくり己と向き合う事にします。

 私は布団の中に入り込んで目を閉じました。
 しかし深層意識は諦めが悪いようで、ふいに家の裏手の景色が目蓋の裏に映ります。

――広い敷地なのに、雑草ばかりがのびのびと群生して。なんの役にも立たず寄生するだけの、……まるで私みたいです。根と草を伸ばすだけではなく、もっと”み”になる事をしなければ……。……。

「…………あ!」

 その途端、納屋に仕舞われていた鍬や鎌などの畑道具が記憶からこぼれ落ちてきました。

――これは……、畑しかないでしょう!!

 思い立ったが吉日。
 夜中だろうと関係ありません。直ぐにでも行動を起さねばなりません。
 私は布団から飛び出し、着替えもせずに納屋へ一直線です。そこから鍬やスコップ、それからロープなどをいっぺんに引っ掴んで外へ出ます。

 まずは手当たり次第、辺りの雑草たちを引っこ抜いていきました。やっと地面の見える面積が増えてきたところで、私は更に気合を入れます。

「よし。では……! いざ開墾開始!!」
 颯爽とロープで畑の敷地を確保。そうして一心不乱に私は腕を振り回し、表の土を耕していきました。
 夜中にも関わらず汗だくです。でも、それがなんだかとても心地の良いものに思えてからは、時間を忘れ機械の如く開墾に没我していきました。

畳なわる一花
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