世は瑞光より目映し
 半月ほど前からでしょうか。甚爾くんと過ごす毎日に、大きな変化が訪いました。
 今までは、朝食を終えると甚爾くんは躯惧留隊の訓練へ行き、それからお昼頃にこちらへ戻ってきて食事を摂って一、二時間をゆっくり過ごします。それから次に午後の訓練に行き、それが終わるとまたこちらに来て、二人きりの鍛錬に励み、夕食を共にする……。大体はこんな流れです。
 ですが最近の甚爾くんは、朝から夕方までずっと私の許にいてくれるのです。

 ただし彼は私とは違い、グダグダのんびりと過ごす事は多くありません。表で自主的に筋力と体力作りに打ち込んだり、私との鍛錬に取り組んだりすることがほとんどです。
 その上なんとも勤勉なことに、食事の支度まで手伝ってくれるのです。
 二人暮らしをしているかのような生活は、私としては二重にも三重にも嬉しいです。ですが、彼の過ごすべき禪院家での生活には何の支障もないのでしょうか?

「ねえ甚爾くん。今日は躯倶留隊の訓練はやっていないのですか?」
 私がもっとも気掛かりなのがこれです。躯倶留隊の規律違反者として彼が罰を受けないか。これが心配で仕方がありません。

「ああ。丁度今やってんじゃねぇかな」
 その口ぶりは、今の今までその存在を忘れてたと言わんばかりに無関心です。
 やはり心配していた通り、甚爾くんは訓練を放棄している模様です。

「だ、大丈夫なのですか。まさか、無断でサボっているわけじゃ……」
「サボってるといえばサボってんな」
「……! も、もしも誰かに気付かれたら……」
 罰を受けるのでは、と言い掛けた口を彼の指先が制止しました。
「問題ない。サボりはほぼ公認だ」
「……んん……?」

 甚爾くんは意味深に笑っていますが、納得も安心もまだ出来ません。
 とにかく食い下がって理由を聞けば「一日すっぽかしたら、やたら態度のデカい奴が文句言いに来たけど返り討ちにした」とのこと。
 以降、誰も甚爾くんの行動に口を挟まなくなったそうです。……おそらく、甚爾くんに制裁を加えようとしたのは躯倶留隊の隊長格でしょう。ならば返り討ちは当然のことです。
 今の彼なら、灯相手だろうと圧倒するのは造作もないと断言できます。傍で成長を見てきた私がそう思うのですから間違いありません。
 なんなら躯倶留隊と灯、二組織の全員が掛かってきても甚爾くんが勝ちます。

 彼は武芸の洗練のみならず、対呪術戦における状況の分析や判断能力も目まぐるしい速さで伸びています。「やたら態度のデカい奴」をあっさりと倒した事で、並の呪術師でも歯が立たないという認識が禪院家に広まったのでしょう。
 彼の力をどう受け止めればいいのか、どう接すればいいのか、誰も答えを出せずに持て余し始めた兆候です。

 しかも破竹の成長は全く頂点が見えません。この調子ならば、いずれは炳、そして当主さえも超えるのではないでしょうか。領域対策となる呪具や戦術を得れば、最強を冠する事だって……。

 そんな思考を巡らせれば、自己研鑽に意欲的な彼の役に立ちたいと、気分はたちまち高揚してきます。
 けれど高揚は突然低飛行となりました。また新たに疑問が生じたからです。

「あの……。サボりといえば。甚爾くんって、まさか学校もおサボり中なのですか?」

 躯倶留隊の訓練なんてどれだけすっぽかしても構いません。しかし学校教育に関しては、一概にやらなくても良いとは言い辛いものです。
 なるべく甚爾くんの気持ちに添いながら、学校に顔を出すくらいからは始めさせないといけません。
 それも嫌なら、せめてランドセルを背負った愛くるしい姿をここに見せに来てほしいです。正直それだけでもいい。いえ、よくない。

「学校? サボりも何も。そもそも行ってねぇよ」
「なるほど、そうですか。でしたら…………ん?……んん!? い、行った事が……、って、一度も!?」

 甚爾くんは不思議そうに首肯を返します。
 彼の愛くるしいランドセル姿を見られないのが残念とかいう話以前に、私は驚きの余り口を開けたまま呆けてしまっていました。

「文字の読み書きや算数、社会理科などなど、お勉強はどうしているのですか」
「そんなもん教科書読めばわかるだろ」
「まさかそれって、一人で学んでいるという事ですか!?」

 甚爾くんはさも当然のように頷きました。
 一世紀以上を遡っても、庶民向けの教育施設が確立されていたというのに、この家は一体どれだけ時代錯誤を貫いているのか……。この家の子供達は全員独学で教養を学んでいるのでしょうか。ほとほと理解が出来ません。
 思わず頭を抱えそうになると、甚爾くんが続けました。

「一応うちに教師みたいなのが来てるけどな。他の奴らは個別だったり、デカい部屋に集まって勉強させられてる」

 あとは彼に言わせる必要はないと覚りました。
 彼が自力で勉学に励むしかないのは、学ぶ環境を与えられていないからだったのです。
 孤独であろうと学ぶ姿勢を保ち続けている甚爾くんの健気な心を思うと、沸々と拳に向かって怒りが湧いてきました。

――こんなのは虐待だ。……いや、この家では今に始まったことじゃない。…………それでも、……ああ。駄目だ。許せない。

 彼に憂う様子が見受けられないから、つい忘れてしまっていた。
 この家の人間は、彼を人として扱っていないことを。
 先日の傷の治療は、聡い彼が話が通じそうな相手、それも権力のある者に彼が懸命に働きかけ、説得した結果に過ぎない。
 この家が優しさを見せたわけではないのだ。
 生きる為の寝床や食事は与えても、人として最低限のほどこしは与えずに放置しているだけ。それは変わらない。

 ぎりぎりと握りしめた手のひらが悲鳴をあげはじめている。けれどこの子の痛みはこんな程度ではないのだ。

……その折柄、おもむろに甚爾くんが私の方に手を伸ばしてきました。そうかと思うと、むに、と私の頬をいきなりつまんだのです。

「ふぉあっ!?」
「怒んなよ」
 困ったような、呆れたような甚爾くんの眼差し。それは丸々膨れ上がった餅を萎ませる澄んだ水でした。

「ほっとかれてる方が気楽だ。……この家にも来やすいし」
「ん……。はい……」
「それとも、オマエが勉強教えてくれんのか?」

 その言葉に、私は跳ね返るくらいに背筋を伸ばしました。甚爾くんと学校ごっこ。しかも本人の申し出で。そんなの最高以外の何ものでもないでしょう。

「そうか! そうですね! その手がありました! 訓練だけではなく、勉学も、大船に乗ったつもりでこの私にお任せ下さい!!」

 声高々に申し出を受けた翌日。
 甚爾くんが何処かからくすねてきたらしい教科書(何気なく裏を見たら、別の方の名前が書かれていました)の内容をもとに、早速私は先生ごっこを始めます。
 甚爾くんは算数について随分独学を進めていたらしく、持ち寄って来たのは六年生用の教科書でした。
 しかも開いたページは後半部分です。勤勉もさることながら、彼の理解力の高さには感動するばかりです。この子は天才です。もっともっと彼の才能をこの私が伸ばしてあげなければと、使命感が燃え上がります。

 しかし、ぱっと開かれたページに広がる数字の群れを見た途端、若干の目眩を覚えました。

 いえ、大丈夫です。勉強ができないわけではありません。小学六年生の、しかも算数なんて、社会に出ればそうそう使う機会なんてないですから。ちょっと忘れかけているだけなんです。そう。ド忘れ程度の些細な問題です。

…………いざ勉学を開始し、はや二分。分数の割り算につまずきました。
 そうです。甚爾くんではなく、私が。です。
 だって本当にわからなかったんですもん……。

 泣く泣く私は甚爾くんに解き方を何度も説明してもらいましたがそれでも全く理解できず。
 やっとのことで分数の足し算と引き算が解けるようになった時、彼の瞳から私への期待がまるっと消え失せていました。
 午後になると、もう甚爾くんは学校ごっこへの興味を完全に無くしてしまい、私を外に連れ出して鍛錬をせがむのでした。

賢しらな空蝉
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