世は瑞光より目映し
1

 家の中を探しても、外を目探ししても、甚爾くんは見つかりません。
 支度に掛かったのは一時間ほどです。その間、不穏な物音などはありませんでした。彼が何かに巻き込まれて姿を消したという可能性は極めて低いです。
 だとすれば、彼は自らの足で去った、ということになります。

……先ほど私が逃げるように立ってしまったからでしょうか。それとも、本当は私と一緒にいたくなかったのでしょうか。
 支度の最中に生まれた淡い期待の渦は消え、忘れかけていた靄が段々と濃さを増していきました。

――……きっと……ここには、もう戻って来ない。

 それが正解かも知れません。私と関わったところで、彼の未来は何も変わりはしないでしょう。私は、人の人生を変えられるような人格者ではないのだから。

――……そんなことは分かってる。でも、これで終わりなんて、あまりにも悲しい。私が彼に与えられたものが、大きな傷跡だけなんて……。

 今更悔いても仕方がありません。
 分相応。人を殺める事しかしてこなかった私は、自尊心や命の重みの教えを施すに足る人間ではなかった。
 少しずつ自分が変わっていくような気がしていたけれど、ただ舞い上がっていただけ。それだけのことです。

 泥の中へ沈んでいくように、情けない足取りで家に入りました。食事を摂る気も起きません。
 勿体無いけれど捨ててしまおう。
 そう思いながら廊下を歩いていると、背後で慌てたように玄関の戸が開きました。

 振り返ってすぐ、私は目を見開きました。
 入り口に立っていたのは、もう会えないと思っていた甚爾くんだったから。

……何が起きたのか分からない。憮然としたまま突っ立っていると、彼はこころもち嬉しそうな表情で、こちらに負傷したほうの腕を突き出します。

「治った」

――……治った? 何が、……傷が?……どういうことだろう。何故帰って来てくれたのだろう。どうして、私に笑いかけてくれるの……。


 頭の中では目まぐるしく言葉が溢れますが、何一つ声には出来ませんでした。
 彼は家に上がって来て、私の目の前でもう一度腕をかざしました。
 目を疑いました。あれだけ大きく深かった傷が跡形もないのです。どんなに目を凝らしてみても、かすり傷さえ見つけられません。

「うそ……。傷が……、跡も、なくなってる……」
 何かの間違いかと彼の腕を両手で掴んだ途端、痛みを訴えるような小さな呻き声が聞こえてきました。

「あ……ごめんなさい!」
 すぐに手を離しましたが、甚爾くんは少し苦しげに眉根を寄せています。
「気にすんな。急いで治療してきたから、完治しきってないだけだ」
「治療、してきた?」
 甚爾くんは少し誇らしそうに頷きました。
「あんな家でも、多少なら話の通じる奴がいたってことさ。代わりに、今度タダ働きする事になったけどな」

 まっすぐにこちらを見つめる目が細められた途端、私は一瞬にして視線をそらせなくなりました。

「でも、安いもんだろ」
 その声があまりにも優しくて、押し込めていた思いの箍が外れてしまいました。目元に熱いものが込み上げてきて、安堵と共に、ほろほろと溢れ出しました。

「…………。なんで泣くんだよ」

 私の言葉を、思いを、受け止めてくれた。
 私の澱んだ心の声を、心を覆う靄を一瞬で払ってくれた。
 そんな風に思えたから。だから嬉しくて仕方がないのです。
 けれど、どんな理由があっても人前で泣くなんて、年上のくせに情けない。それに、彼が私の為に行動してくれただなんて、都合の良い勘違いかも知れない。
 だから私は顔を覆って、出来るだけ声調を落ち着かせようと努めました。

「すごく嬉しいからです……。甚爾くん、ありがとう」
「訳わかんねぇ」
 そう言った声音はとても優しく響いてきて、それがなんだかひどく心地よくて、しばらく私の涙は止みませんでした。

2

 普段は机を挟んで向き合って食事をする私達ですが、本日のお昼は隣り合って座っています。
 泣き止んだ私はすっかり元気ですが、対する甚爾くんは先ほどから顔をしかめて渋い顔です。

「もういい。普通に食う」
「ダメです。治ったとは言っても、今日一日は安静にと言われたのでしょう?」
「指しか使わねぇんだぞ。この程度なら問題ない」
「いいですか、甚爾くん。神経や筋肉は全身に繋がっているのですよ。ですから利き手を使うのだけは絶対ダメです」
「じゃあ右手で食う」
「たった今、それでお肉落としちゃったじゃないですか」
「……。そのうち慣れる」

 かれこれ五分はこんな攻防を繰り返しています。
 そうです。私は甚爾くんにご飯を食べさせてあげたいのですが、彼はなんとしてでも自力で食べると駄々をこねているのです。

……禪院家程の名家となると、お抱えの反転術式使いが何名かいるのだと聞いた事があります。
 甚爾くんは、この家の権力者に交渉し、反転術式を施してもらえたようなのですが、治したと言ってもそれは表面だけ。
 内側の損傷まで治癒するには、本来数時間を掛けなければいけないところを、三十分で傷痕が残らないようにしろと無理を言ったようなのです。

 お昼の時間に間に合わせたかったのでしょう。
 きっと私が怒鳴ってしまった所為です。食事の時間に遅れたら、また私が怒ると思ってしまったのかも……。
 本当に甚爾くんには悪いことをしてしまいました。
 だからこそ、誠心誠意、治療に役立つことをしたいのです。

 傷は治りかけの時こそ気を遣うべき。痛みが和らいできたから、見える傷が薄くなったからといって、普段通りに扱ってはなりません。快癒が遠のいてしまいます。
 彼が負傷したのは利き手。お箸だろうとスプーンだろうと安易に使って良い訳がありません。

 よって「私が甚爾くんにご飯を食べさせてあげる」という最適解を提示したのですが、即刻断られてしまいました。
 人に食事を手伝わせるくらいならと、彼は右手で辿々しくお箸を持ち、ふらふらした手付きで生姜焼きを持ち上げましたが、お肉はすとんと机の上に落ちてしまったのがつい五分前の事。
 見かねた私は甚爾くんの横に移動し、お箸を奪い取ろうとしたところ、くだんの攻防戦が始まったという次第です。

「そんなに私が嫌ですか」
「……オマエが嫌だなんて言ってねぇだろ」
「では何が嫌なんです?」
 すると、甚爾くんは逡巡しながら口を開きました。
「ガキみたいでみっともない」

 彼にとってのガキというのは、一体何歳から何歳までなのかよく分かりませんが、要約するならば「赤ちゃん扱いされているみたいで恥ずかしい」と言ったところでしょうか。
 背伸びをしたいお年頃なのですね。本当に彼の可愛らしさは天井知らずです。

「……これは歴とした取引ですよ。今回は私が甚爾くんに力を貸します。その代わり、私が不調の時には助けてくれませんか?」

 勿論、十も年下の子に頼る事態なんて有り得ません。これは方便です。でもこう言っておけば、彼はきっと納得してくれる思ったのです。
 すると予想通り、彼はむっとしつつ、まんざらでもなさそうな機微を見せました。

「はい。どうぞ」
 甚爾くんのお箸を借りて、お肉を口元へと差し出せば、口唇がぎこちなく開きます。
 ゆっくりと、そしてほんの少しだけお箸を中に入れ、舌の上にお肉を乗せてあげると、甚爾くんはゆっくりとそれを噛み始めました。
「美味しいですか?」
 甚爾くんはそっぽを向いてしまいました。ですが、顔は背けていても、確かな頷きははっきりと見せてくれたのです。

水心の雁行
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