世は瑞光より目映し
 随分と甚爾くんが私の元へやって来る機会が増えました。時間は限られているものの、私達はほとんど毎日顔を合わせるようになりました。
 どうやら先日の勝負が気に入ったらしく、彼の方から鍛錬に付き合えとお誘いしてくれるのです。
 ただ、私は体術ではてんで敵いません。ですから私は術式を、甚爾くんは匕首を使い、対術師の訓練を行っています。

 現在はお昼前。朝と合わせて二度目の鍛錬の最中です。
 暖かで過ごしやすい時候ですが、私と甚爾くんとの間で滞留する空気は、緊迫の熱を帯びています。

 水遊びの日からまだ二週程しか経過していませんが、あの日とは比べ物にならないくらい、甚爾くんの成長は加速しています。
 未だ術式開示をしていないのに、彼は段々と自力で結界の性質を理解し始めていて、罠にも掛かってくれなくなりました。
 余裕で兵法などを偉そうに語りながら相手をしていた私ですが、そろそろ真剣に取り組まねば足元を掬われそうです。

「さて。囲まれちゃいましたね。どうしますか」
 大小さまざまな結界で甚爾くんを取り囲み、台詞にも余裕の演出を施したものの、内心は大いに焦っています。
 実は、甚爾くんに破壊された結界の数が想定外で、呪力に余裕がなくなってきているのです。
 しかも彼の洞察力と瞬発力は目を見張るほどで、ことごとく結界は一撃で壊されてしまいます。
 甚爾くんは私を見据えたまま、ピクリとも表情を変えません。獰猛な獣に狙われているようです。

――……今にも襲いかかって来そうです。とはいえ、まだ彼は思考の最中にあるのかも。膠着状態の内に呪力を……。

 そう考えた一瞬でした。微かに甚爾くんの体が揺れたかと思うと、匕首で間近の結界を切り裂きました。
 次いで、彼は間髪入れずに結界の間を縫ってこちらに向かって来ます。迫る双眸を認めた途端、思わず私は後退りしました。
 反射的に私は指先を切り、血の滲む指で印を結びます。つい、身に染みついた奥の手を出してしまったのです。

 発生した赤く大きな結界は甚爾くんの元へ一直線に飛行します。彼が身構えると同時に分裂、素早く手首に体当たりをして匕首を弾き落としました。
 複数となった結界はそれぞれに肥大しながら、手足の関節を結界で覆い、その場に固定。たちまち行動不能にしました。

 私の奥の手というのは、己の身を守る事を最優先とする術です。目的はあくまで相手の動きを完全に封じること。
 ですから、つい本気を出したとて、術式のみの鍛錬では甚爾くんに傷を負わせることはまずあり得ません。
 けれども、奥の手を出さざるを得ないほど気圧された事は、かなりの衝撃で、嬉しさと悔しさが半々といった所感です。

 一方甚爾くんは、驚きに染まった表情をしています。打開策が見つからないのでしょう。幼い眉間が次第に歪んでいきます。
 彼に施した結界は、私の血を用いて硬度を高めていますから、肉体の力による破壊は困難です。
 仮に呪術を扱えたとしても、この結界は呪力の流れを遮断しますので、術式をも封じ込めるのです。
 よって、二段階の対策を持つこの結界が打ち破られた事は、未だかつて一度もありません。
 つまり今の甚爾くんには攻略不可能。

 鍛錬はここまで、と勝ち越しても良いのですが、よぎったのは我欲でした。
「つい焦って本気を出してしまった」と気付かれたくない。なんなら折角なので甚爾くんから「この人はすごい」と思われたい。

 その感情に従った私は、すぐには術式を解かず、新たに直方体の結界を成形しました。

 本当に攻撃するつもりはありません。甚爾くんの間近で停止させるつもりです。
 それでちょっとだけでも甚爾くんが私の強さを認めてくれたら、第三ラウンドに移りましょう。
 そんな呑気なことを考えていると、分厚いガラスが割れるような音が響きました。

「……嘘……」
 彼は左腕の束縛を力ずくで破り、向かってくる結界を真横から殴りつけて静止させたのです。

 背中から全身の血液が抜かれたようなひどい気分が全身を駆けました。
 慌てて結界を消すと、地面に赤々としたものが散らばりました。それが何かは明白です。
 結界の強度は金属に引けを取らない硬度で生成しており、加えて私の結界は、術式を解かない限り叩き割っても破片は鋭利に残ります。
 幾つもの先端が彼の腕を傷つけたのです。

 私はすぐさま彼の元へ駆け寄りました。彼の腕には、皮膚を抉る痛々しい線が無数に走っています。そこから溢れ出る血で、地面の染みは広がる一方です。

「何故……こんな無茶をしたんですか!!」
「無茶じゃない」
「どこが! こんなに出血しているんですよ!?」

 口を開くごとに、声は震えて粗雑になっていきます。
 けれどそんな事よりも、まず。すぐに出来る限りの処置を施さねばと、怪我のない腕を掴んで強く引こうとしますが、彼はそこから動きません。
 急かそうと振り返れば、驚きと困惑が露わになった瞳がそこにありました。

 息が止まりました。
 そこでようやく私は己を省みて、興奮を鎮めるように声を落とします。

「…………中へ。すぐに手当てをしましょう」
 すると彼は少しぎこちなく頷き、手を引かれるままに歩き出します。けれども私の胸中は、黒い靄に蝕まれる感覚に支配されていました。

――傷つけてしまった……。私が向けるべきだったのは、感情に任せた叱咤ではなかったのに。

 居間に上がって傷の手当てをする最中、お互い無言でした。
 どちらが言葉を発するべきか、それは十分理解しています。でも、なんと言葉を掛けたら良いのか……、……本当に情けない事に何も浮かびません。
 彼の表情をそっと窺うと、俯く瞳は寂しげに己の傷を見詰めていました。

――……迷っている場合じゃない。まずは、ちゃんと話さなければ。

 傷口から流血が止まっているのを確認し、私は一旦手を止めて、居直します。

「さっきは怒鳴ってしまってごめんなさい。……私、甚爾くんの気迫に怯えて、思わず本気を出してしまったんです。それで、貴方を傷つけた。……本当に、ごめんなさい」
「……別に気にしてないし、これくらい何ともない」
「甚爾くん、嘘を付かないで」

……これは、愉しなどではなく、私の弱音でした。

「……お願い。もうあんな無茶はしないで下さい。自分の身体を……自分をもっと大切にして。貴方が傷付いて、それで、もしも」

 勝手に、口唇が震え出しました。想像することはおろか、口に出すことさえも躊躇う恐怖。それを彼に吐露していいのか、迷ったのです。
 けれど、弱気になってしまった心はもう止まれませんでした。乞うように、救いを求めるように、言葉が溢れてしまいました。

「あなたが命を落とす事になったら……。もう、私は耐えられない」

 私の声はどんどん情けなく、そして小さくなっていきます。こんな怪我を負わせたのは誰の責任かと問われれば、何も返す言葉がありません。

 何より、人の命を奪って生きてきた人間が命の重みを説くとは、なんと滑稽な事でしょう。
 結局、私は戦い方は教えられても、最も肝心なことは伝えられないのだと痛感しました。
 何よりも彼に望んだことを。願ったことを。
……伝える権利なんて、私にありはしないのです。

 それきり甚爾くんが黙ってしまったので、私は考えるのもこれ以上何かを言うのも諦めて、手元を動かしました。
 彼の肉体の再生能力は人並外れて高いので、創傷は治るでしょう。けれど、このままでは跡が残ってしまう。
 医療の技術も用品も持ち得ない私に出来るのは、応急手当てまで。己の無力まで思い知らされます。
 この家の誰が付けたものより大きく醜い痕。それを私がつけてしまった。その事実に身が引きちぎれそうでした。

「…………美緒」
 包帯に巻かれる痛々しい腕に目を落としていると、ふと温かい何かが頬に触れました。

 顔を上げれば、甚爾くんがこちらに手を伸ばしているのが分かりました。私に触れるものは掌のようです。
 まるで私を慰めるように、私の心を探るように、温かな温度はぎこちなく頬を撫でました。
 これは、肯定なのか受容なのか、それとも疑問なのか。私には、彼の思考が何ひとつ推量れません。

――……どんな言葉を返せばいい? どんな表情を作ればいい? どう反応したらいい?

 私がしどろもどろしている間も、甚爾くんのまなざしは、温かい手のひらは、そばにあるまま。
 このままでは、私の弱さ、愚かさ、迷い……過去。何もかもが見透かされてしまいそうでした。

「え、あ、あのっ……さっき、さっきの! 私の言ったことですけど! わ、……わかって頂けましたか!?」
「わかった」

 もはや自分でも何を言ってるのか分かっていません。それなのに、彼は微かな首肯を返してくれます。
 それでいて、どこか興味深そうに揺れる眼差しは、一向に私を解放してくれません。
 居た堪れなくなった私はすくと立ち上がりました。

「それは何より! ではお昼の支度をします!」

 はやる鼓動を鎮めながら台所へ向かい、ゆっくりと心を落ち着かせながら、食事の支度を進めました。
 手を動かしながらも、浮かんでくるのは彼のことばかり。
「わかった」と返してくれたあの瞳は、何を感じ取って、何を思ったのか。今まで通りに接することを許してくれるのか。ぐるぐると、胸中の渦は期待を巻き上げてきます。

……ですが、料理を持って居間へ戻ると、そこに甚爾くんの姿はありませんでした。

誰が為の玉の緒
BACK