世は瑞光より目映し
 大発見です。空気が熱をはらみだした正午、私は家の裏手でとんでもなく素敵なものを見つけてしまいました。
 住み始めの時に周囲の確認はしていたものの、あの時はやや気が張っていたので、全く気に留めていなかったのです。この生活にすっかり慣れてきたからこその発見と言えましょう。
 物珍しいそれをくるくると何度も四方から眺め、しきりにはしゃいでいると、こちらへ向かってくる甚爾くんの姿が見えました。

「あ! 甚爾くん、こっちこっち!!」
「中にいねぇと思ったら、そんな所で何してんだ」
「すごいものを見つけたんです! ほら見てください!」
 大きな身振り手振りで彼をこちらに呼び寄せ、本日の注目の的をお披露目しました。
「井戸です。そしてこちらは手押しポンプと洗い場です!」
「で?」

 なんとも不思議な事にとても薄い反応です。
 きっとこの設備がなんたるかを知らないからに違いありません。
 先ほど呼び水を使って試したところ、揚水の可動確認は済んでいます。準備は万端。甚爾くん、驚くがいい!
 私は自信満々にくすんだ深緑のハンドルを上下させました。すると水口から揚水の音が鳴り出し、勢いよく水が出てきます。

「すごいでしょう!? ほらこうすると、水が、出るんですよ!」
「そこの水道使った方が楽だろ」

 まるで興味なしといった面持ちで、甚爾くんは視線を流して間近の水道を示します。
 違うのです。そうではないのです。確かに蛇口を捻れば容易く延々と水が流れ出るそれは、有難い文明の利器です。
 しかしこの手押しポンプは、かつて井戸にバケツを下ろしてそれを引き上げる作業をしていた当時の人々にとって、叡智の結晶だったのです。
 多少不便な思いをして水を汲み上げる作業をしていると、いかに現代における私たちの普段の生活は、当たり前に利便さを享受できていたのかと実感できるでしょう。
 懐古趣味もなかなか乙なものだという事、是非とも彼にも知って頂きたい。

「楽かどうかではなく、楽しいかどうかを見てください!」
「それの何が楽しいのか訳がわかんねぇ」
 残念です。少しも理解してくれる気はなさそうです。
 しかし、思い返せば仕方がないのかもしれません。彼の気質もさることながら、この家では時代を感じさせる設備など見慣れてしまっているのでしょう。
 この管理小屋は他にも十三軒もあるのですから、各所に同様の設備があってもおかしくはありません。
 禪院家は歴史の古い名家です。きっと本邸の周囲にも、今なお現役の遺構が其処彼処にあるがゆえ、甚爾くんはその価値に気付けていないのだと思います。

「ふむ。では私が実践で教えて差し上げましょう。……せい!」
 私は再びハンドルを動かし、そして流れる冷水を急いで掬うと、甚爾くんに向かって掛けます。ですが軽く横に飛び退いて避けられました。
 めげずに何度も水を投げて辺りに散らしても、悉く躱されるばかりで、一滴も彼に浴びせられません。
「オマエは何がしたいんだよ」
「甚爾くんと遊びたい」
「ガキか」

 それにしても卓越した反射神経です。少し揺動を試みてみたり、避ける先を予想してみても、手で掬って投げる程度では甚爾くんを捉えるのは不可能なようです。

「……では、こんなのはどうでしょう」
 ポンプを漕ぎながら、私は勢いよく流れる水に向かって印を結びました。
 握り拳大の柔らかい円形結界を作り、その中に水を閉じ込めれば、ほら簡単。結界水風船の出来上がりです。
 これを無数に作り、すかさず甚爾くんに向かって飛ばします。足元や腕など、狙いを散らし向かう速度も変えつつ、次々と結界は彼を追いかけます。
 しかし流石甚爾くんです。見事に全て避けられ、作った結界のほとんどはあっけなく地面に落ちて、はぜてしまいました。

 どうやら彼の立ち回りを見る限り、結界が私の意思で自在に動く事、呪力を纏わないものに触れた瞬間弾けるよう施した細工が、一瞬で勘付かれてしまった模様です。
 無数の水風船を避けながら、これ程精度の高い識別が出来るだなんて、正直思っていませんでした。これはちょっと悔しいです。

「これで終わりか?」
「いえいえ。こんなの準備運動ですよ」
 私は新たにバケツほどの水量の水風船を生成し、余裕で笑む甚爾くんを素早く取り囲みました。彼は己の前後左右、四方を囲む四つの結界に意識を向けています。
 この結界がどんな動きをするのか見極めようとしているのですね。ですが、それではちょっと詰めが甘いのです。
 私が甚爾くんの方へ向けた水風船は、実は五つです。一つだけ特殊な術式を付与した小さな結界を、ほかの四つに紛れ込ませ放っていたのです。その位置は、甚爾くんの頭上。

 勘付かれる前に、四方の風船で意識を引き付け、隙を見つけて真上の結界を音もなく静々と解除しました。
 我ながら大人気ないなとは思っています。
 しかし。大人は大人らしく、時には威厳を示すのも努めでしょう。今がその絶好の時機に違いありません。しからば好機逸すべからず。
 そして見事に彼は頭から水を被りました。始めて甚爾くんに勝利した瞬間です。卑怯とでも何とでもおっしゃっていただいて構いません。勝ちは勝ちです。

「やりました! 甚爾くんの負け!」
「はあ? 負けてねぇよ」
「では、第二ラウンドですね。お互いもう少し本気を出してみましょうか」
「やってみろポンコツ術師」

 今度は先程よりも速度を上げ、より追跡の精度を上げてみました。すると彼も徐々に本領を発揮し始めたようで、一層素早く、そして余裕を持ちながら器用に避けるようになってきました。
 更に結界の数を増やせば、何と彼は結界同士が衝突するように敢えて引き付け、巧みに封殺していったのです。
 やはり甚爾くんの才能は間違いありません。遊びの中でさえ成長していく潜在能力。胸が躍って仕方がありません。
 けれども彼はまだまだ対術式への対処に於いては雛鳥同然で、磨き所が沢山あります。
 甚爾くんが避けるのに夢中になっている間、頭上に忍び寄るのは大きな水風船。

「甚爾くん。お忘れですか? 私の結界の特性を」
 私はまたしても上から、今度は樽をひっくり返したのと同じくらいの水をかけてやりました。
 全身ずぶ濡れになりながら、甚爾くんはこちらを無言で睨みつけてきます。
「もう一回……やります?」
「早くしろ」

――とってもムキになっていますね……。可愛い……。

 私が甚爾くんに投げつけている結界は三種類です。
 一つは呪力を帯びていない物に触れた瞬間弾ける結界、もう一つは私が解除しない限り弾けない結界。それから水を包む結界を更に結界で覆う事により、呪力探知を不可にする、私の血を用いた結界。
 三つ目の特性を見抜かない限り、甚爾くんは永遠にずぶ濡れになり続けます。
 上を警戒されれば背後、背後に気が集中すれば正面と、私は彼の隙を自在に操っていると言っても過言ではありません。
 甚爾くんが負けを認めたら、血を含ませた特別な結界の種明かしをしてあげることにしましょう。
 私は余裕で甚爾くんの挑戦を受けて立ちました。

 ですが、開始五分弱で予測不能の事態が起こったのです。

――もう、気付かれている……!

 たった二回。それは、甚爾くんの不意をつき、探知不可能の水風船を当てることが出来た回数です。
 それ以降は全く結界が彼を掠めることも出来なくなり、遂には彼が結界を掻い潜りながら私に近づいてきました。
 しかも避ける軌道も上手い。結界の影に隠れ、私の視界を見辛くしながら、解除で弾ける結界をこちらに向かって投げて撹乱までしてくるという有様。これがまたとんでもない豪速球で、避けるのに苦労するのです。結界を作り過ぎたのが仇となりました。

 そしていよいよ彼との距離が四、五歩となったその時、不意に彼が何かを隠すように後ろ手にしていたその手を掲げました。まさか、と思いそちらに目を向けると、持っていたのは私の合図で水が解放される方の、よりにもよって特大の結界。
 しかも、甚爾くんの頭の上で弾けさせるべく気配断ちの二重結界が施されていたそれは、幾たびもの撹乱に気を取られ、間近に来るまで私自身もその気配に気付けませんでした。恐らく相打ち覚悟で私の目の前で破壊するつもりなのでしょう。

 ですが、問題はありません。この結界は自在に動かすことも可能。甚爾くんの持つ結界を直ちに後方へ下がらせ、後ろにある全ての結界を呼び寄せる。そして甚爾くんの背後で大量の水をぶちまけてやります。私は勝利確信の笑みを浮かべ、掌印を眼前に掲げました。

「あ」

 なんと。
 私は間違えて全結界解除の印を結んでいました。

 この刹那、甚爾くんはもう私の目の前にいて、彼は私の結界を高々掲げています。囲いの無くなった大量の水は、タライをひっくり返すという言葉がふさわしい勢いで私達の上にざぶん、です。

 まさかこんなことになるとは彼も思っていなかったのでしょう。髪から服から水を滴らせながら、甚爾くんは撫然とした面持ちで私をみていました。

「…………。いえ、あの。……掌印を間違えました……」
 すると、彼は片方の口角を上げて、意地悪そうな笑みを浮かべます。その上鼻で笑われました。
「呪術師なんてこんなもんか」

 そういう言われ方をされるのはいささか腹落ちしません。私の作戦は完璧でした。ただ、ちょっとお遊びの感覚が残ってしまっていたがゆえの小さなミスです。
 これが実戦だったのなら私は確実に標的を仕留めていたでしょう。この程度が私の本気だと思わないで頂きたい。

「いやいや、まさか。まだ実力の半分も出していませんよ」
「出し惜しみしてるとまた負けるぞ。さっさと全力で来い。ポンコツ術師」
「望むところです」

 私達はお互いすぶ濡れになりながら飽きもせず、涼しいようでとても熱い勝負をし合うのでした。

澄空と睦まじき白日
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