「……寝過ごした。」



掠れた声でぽつりと呟く。目が覚めれば、辺りは真っ暗で、公園にある柱時計の針は夜の7時を指していた。少し昼寝するつもりが、まさかこんなに爆睡してしまうなんて。
なまえは些か呆気にとられた様子で、マナーモードのまま制服のポケットに入れっぱなしにしていたスマホを取り出す。ーー着信40件、メール37件。

思わず「うわぁ」と声が出る。画面に表示されたその数字の殆どが歌川からのもので、これは間違いなくお冠だ、となまえは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。

メールや留守電を確認せず、またスマホをポケットに仕舞いこむ。明日会うのが怖いな、となまえは白い息を吐き出しながら思った。
空を見上げれば、たくさんの星が瞬いている。人が住んでいないここ警戒区域は、明かりがないためか星がいつもよりよく見える気がした。



「あーぁ、帰りたくないなぁ。」



家に帰ったら、また引っ越しの準備や進路の話をさせられる。なまえはまだ引っ越しの件を認めていないというのに、両親は『もう決まったことだから』『これもお前のためなんだ』とそればかりで、少しも取り合ってくれやしない。
きっと相手が子供だから、無理を通せば簡単に丸め込めるとでも思っているのだろう。そんな手には乗るか、とずっと反抗し続けていたなまえだが、それももう何だか疲れてしまった。

起き上がった彼女は家に帰ろうとせず、再びベンチの背凭れに背中を預ける。どうやら、昨日の訓練でのミスが余程堪えたらしい。
なまえは、はーと息を吹きかけて冷えた両手を温めた。恐ろしいほど静かだった公園に、だんだん何者かの足音が近づいてくる。
一瞬隠れようとも思ったが、その足音がなまえのよく知っているものであったため、彼女はベンチに座ったまま動かずに、その足音の主がやってくるのを待ち続けた。気怠げな目が公園近くの、ある民家の屋根へと向けられる。

そして、なまえは呆れ顔でゆっくりと口を開いた。



「何しにきたわけ?」

「……お前を迎えに来たんだよ。」



彼は非常に疲れきった顔でそう返した。





菊地原に転生した女の子19





「帰るぞ」と歌川に腕を引っ張られ、ベンチから立ち上がる。まさか彼が警戒区域こんなところまで探しにくるとはなまえも予想外だったらしい。なまえは少し拍子抜けした顔で、前を歩く歌川の背中を見つめた。



「ちょっと、なんで迎えなんか…。」

「お前が急に学校休むから、心配して家まで行ったんだよ。けど、家にお前はいなくて……。それで、お前のお母さんから話は全部聞かせてもらった。お前、三門市から引っ越すかもしれないんだって?」

「っ、」 

「最近、様子がおかしいと思ってたんだ。昨日の訓練でのミスだってお前らしくなかった。ずっと、一人で悩んでいたんだろ?」



歌川は足を止めて、なまえの方へ振り返った。その真剣な瞳に、トクリと鼓動が早まる。まるで全て見透かされいるみたいだ。なまえは慌てて視線を地面へ移すと、できるだけ平常を保ちながら「別に、」と口を開いた。



「別に悩んでなんかない。私は引っ越すつもりなんかないし、一度やるって決めたからにはボーダーだって続けてみせる。……あんなの、親が勝手に言ってるだけなんだから。」



自分の気持ちは揺らいでいないのだと、拳を震わせながらそう訴えるなまえを見て、歌川は目元を和らげ、微笑をこぼした。
なまえがその顔を見たら、こんな状況で笑うなんて空気読めないの?と文句を言いだしそうなものだが、彼女は今下を向いているため気が付いていない。

歌川は「ああ、そうだな」と、なまえの味方をするような口振りで言った。



「いくら両親でも、お前の気持ちを無視して勝手に引っ越しを決めるのは酷いよな。」

「……そ、うだよ。ろくに家に帰ってこないくせに、こういうときだけ親ぶっちゃってさ。お前のためだ、とか意味わかんないし。ボーダーだって、簡単にやめろとか言ってくるし…。」 

「そんなこと言われても困るよな。やっとA級に上がれたのに、風間隊にはお前が必要なのに、何も知らない人にそんなこと言われたら、ちょっとムカつくよな。」

「うん、ムカつく…。私のサイドエフェクトは地味だけど、お前の力が必要だって言ってもらえて、嬉しかったのに。……それなのにあの人達、近界民と戦うなんて危険だとか言って、私のやりたいこと奪おうとして……。っ、それに風間さんも、来なくていいとか言うし、」

「ああ、あれは風間さんも言い過ぎだったよな。」

「っ、うう…」



視界がぐにゃりと歪む。小刻みに震えるなまえの身体を抱きよせて、歌川は安心させるように言った。「大丈夫だ。あれが風間さんの本心じゃないって、お前もわかってるだろ?」と。
彼の背中を撫でるその手つきはとても優しくて、暖かくて、なまえの涙腺をさらに刺激する。

ポロッとひと粒の涙が溢れた。それからは、まるで堰を切ったように次から次へと涙が溢れ落ちていく。もう止めらない。



(泣くつもりなかったのに、弱音吐くつもりだって、なかったのに…!)


「う、」

「ん?」

「歌川のばかあああ。」

「え、俺?」

「おま、お前がっ、優しくするから…!ちょっと弱ってるときに、こうやって現れるからぁ!……うっ、こんなつもり、なかったのに……、涙とまんな、っ」



歌川はなまえの後頭部に手を回し、自分の胸元へと押し付けた。隊服がどんどん涙で色を変えていく。慌てて離れようとしたなまえだったが、歌川の手は頑なに動いてはくれなかった。
静まりきった夜道で、なまえのすすり泣きだけが痛ましく聞こえる。「もう我慢するなよ」と歌川は言った。



「好きなだけ泣けばいい。全部、俺のせいにしても構わないから。それで、枯れるまで泣き終えたら一緒に家へ帰ろう。ちゃんとご両親に、なまえの気持ちを伝えるんだ。」

「……私の気持ち、」 

「必要とされて嬉しかったんだろ?ボーダー続けたいんだろ?大好きなことを見つけたんだって言えよ。」



歌川がそう言うと、なまえは顔を歌川の胸元に埋めたまま、ボソッと呟いた。「別に、大好きだなんて言ってない。」それを聞いて、歌川は全く素直じゃないと呆れつつも、微笑を一層深くさせた。







「?風間さんの声がする…。」

「は?」



あれから暫くしてなまえが落ち着きを取り戻すと、二人は口数も少なめになまえの家へ帰ることにした。こんな時間に警戒区域にいたら、いくら二人がボーダー隊員だとしてもさすがにまずい。歌川は警戒区域を出ると、すかさずトリガーを解除し、なまえの腕を引いてまた歩き出した。

そして、漸く家に着き、玄関のドアを開けようとしたそのとき、聞こえてきた覚えのある声に、なまえは首を横に傾げた。確かに家の中から風間の声が聞こえるのだ。
歌川もそれに関しては何も知らないようで、そんなまさかと狼狽する。目を合わせた二人は、困惑しながらも家の中へとゆっくり足を踏み入れた。



「お願いします、娘さんをください。」


「!?な、」

「シッ、ちょっと黙って…!」



なまえが反射的に歌川の口元を手で覆う。ドアの隙間からそっとリビングを覗くと、そこにはなまえの両親と対面してソファに座る風間がいた。
しかし、一体なんだこの空気は。まるで彼女と結婚させてくださいと懇願する彼氏みたいじゃないかと、歌川は冷汗を流す。

そんな二人を他所に、風間となまえの母親は会話を続けた。



「自分達のチームには彼女が必要なんです。娘さんには才能があります。彼女なら多くの人の命を救うことができる。」

「でも、やっぱり危ないじゃない。近界民と戦うなんて…。あの子はあれでも女の子なんだし、」

「大事な娘さんに危険なことをさせたくない気持ちはよくわかります。ですが、機密事項なので詳しくはご説明できませんが、ボーダー隊員の戦闘時は戦闘体になるので怪我をすることはありませんし、もしものときは緊急脱出機能もついています。むしろ、戦う術を持たない一般市民より安全かもしれません。」

「……そうなの?でも、もしものことがあったらと思うと、ねえ…?私も主人も多忙で、傍にいてあげられないし。」

「不安なお気持ちになるのも仕方ないと思います。ですが、お願いします。ボーダーと、そして彼女の仲間である自分達を信じてください。」



そう言って、風間は深く頭を下げた。ゴクリ、と固唾を呑む。風間が自分の家を訪ね、今両親に頭を下げているのは、全て自分のためなのだ。
なんだよ、昨日は『来なくていい』なんて言ったくせに。なまえはつい嬉しくてニヤけそうになる口をかたく結んだ。

口ではあんなことを言っても、本当は自分のことをすごく大切に思ってくれている。冷静だけど意外と熱くて、厳しいようで結構優しい。そんな男なのだ。なまえが唯一尊敬している風間蒼也という男は。



「なまえ…、俺達も行こう。」

「……え?」

「お前のことなんだから、お前がちゃんと話さなきゃ駄目だろ。」

「は、わっ、ちょっと…?!」



歌川に腕を引っ張られ、なまえは戸惑いながらもリビングへと入る。なまえ達の存在に気がついた両親が目を丸くしたのに対し、風間は特に表情を変えぬまま、此方へやってくる二人を見上げた。
風間達が座っているソファの傍で、二人は漸く足を止める。母親が「あなた達、」と何か言おうとしたが、その言葉を遮ったのは歌川だった。



「俺からもお願いします。なまえをボーダーに居させてやってください。」

「っ、歌川、」

「大事な仲間なんです。ずっと一緒に頑張ってきたんです。俺が責任を持って彼女の面倒を見ますから、お願いします…!」



そうして、歌川もなまえの両親に頭を下げる。なんとも見事な90度だった。呆然とする両親を目の前にし、なまえは自分も何か言うべきではないのかと考える。
チームメイトが自分のためにここまでしてくれたのだ。自分を必要としてくれる二人のためにも、ここは絶対に両親を説得させなければいけない。しかし、一体何を言えば…。

ふと頭に浮かんだのは、歌川が先程言っていた言葉だった。『好きなことを見つけたんだって言えよ。』
ギュッと拳を握る。なまえはとても緊張した面持ちで、「あのさ、」と口を開いた。皆の視線が今度はなまえへと集まる。なまえは言いたいことを脳内で整理しながら、ぽつりぽつりと話し始めた。



「私…、今までずっと仲間なんかいらないって思ってたんだよね。一人の方が静かで楽だし、誰に嫌われようが別にどうでも良いと思ってた。」



“気味が悪い”、“調子に乗ってる”、“あの子嫌い”。いつも聞こえてくるのは、自分を否定する声、耳障りな嘲笑、どれも悪意のある感情ばかりで。
けれど、なまえはそんなの聞こえてないですって顔をして、今まで平然と生きてきた。それが当たり前だったから。嫌われることにはすっかり慣れていたから。



「……でも、ボーダーに入隊してから、そう思わなくなった。仲間に必要とされて嬉しかったし、自分のこの地味な力も初めて好きになることができた。」



迅に勧められて、歌川と共にボーダーに入って、時枝や佐鳥と友達になって、嵐山という先輩と知り合って、それから風間や宇佐美とも出会った。
狭くて静かで何もなかったなまえの世界が少しずつ広がっていく。少しずつ賑やかになっていく。けれど、それは決して耳障りなものではなくて、心地の良い優しい音ばかりが彼女の耳に届くのだ。

これまでにいろいろなことがあった。たくさんの人達と出会って、漸くなまえは自分の居場所を見つけることができた。だから、



「私、このチームが好き。だから、まだボーダーを続けていたい。」



なまえは迷いのない瞳でそう告げる。すると、ずっと黙っていた父親がはーっと深い溜息を着いてから言った。「好きにしなさい」と、柔らかな笑みを浮かべて。そして、その隣りに座る母親も同じく微笑みながら「娘をよろしくお願いしますね」と風間と歌川に向かって頭を下げた。

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