「あれ、無い……」
授業が終わって待ち合わせの場所に向かっていた私はその途中でバッグに入れていたはずの手袋が無いことに気付いた。朝家を出る時には付けていたから、教室か自習室に置き忘れたのかもしれない。12月に入ったこの時期、最高でも二桁に乗ることがない気温だと流石にこたえるものがあるけれど約束の時間はもうすぐそこまで来ている。忘れたのは自分のせいだし、と諦めてせめて少しでも外気に触れる面積が減るようにとコートの袖を握りこむと待ち合わせ場所に走るのだった。
▽
【今日の授業後終わったらクリスマスマーケット行かね?】
お昼頃に豹馬から来たそんなメッセージに考える間もなく行きたい!と返した私。それならばと、大体の時間と待ち合わせ場所を決めている最中から私の心は浮き足立っていた。同じ家に住むようになって一緒に出掛ける機会は増えているけれど、こうやって外で待ち合わせをするのはデートのようでなんだか特別感がある。そしてそれはどうやら顔に出ていたらしく、隣に居た友人に「幸せそうな顔しちゃって」と笑われるほどだった。
そして待ち合わせ場所のサンタクロースのモニュメントがある図書館へ着いた私は、目の前に見えた姿に思わず足を止めて息を飲んだ。
柱に背を預けるようにしてスマホを眺めている人物は私がよく知っている人、幼馴染みであり恋人である千切豹馬に違いない。身に付けているコートもマフラーも手袋も全部今朝送り出した時のものだから、そんなことで足を止めることにはならない――いや、やっぱり一旦足は止まるかもしれない。だって豹馬は立ってるだけで絵になるし。というのは置いておいて、私が思わず息を飲んだ理由。それは豹馬の髪型のせいだった。
朝出る時はいつもの見慣れたダウンスタイルだったはず。なのに目の前に見える豹馬の髪型はと言えばその長い髪を三つ編みにしてゆるく片側に流している。その上、前髪もサイドに流しているせいで彼の大きな目元がより強調されていた。豹馬は普段からヘアアレンジをよくするから三つ編みもたくさん見たことはあるけど、今日はデート気分で浮ついているからなのか、余計その姿にドキドキしているのかもしれない。そう自己分析してドキドキと煩い心臓をなんとか落ち着かせる。顔や耳が赤いのは寒いからってことで誤魔化せないかな。緩む口元はマフラーで隠してしまえばきっと大丈夫。よし、行こう。
「豹馬おつかれさま。ごめんね、寒いのに待たせちゃった」
「おー、ナマエもおつかれ。今来たところだからそんなに待ってねぇよ」
「ドラマみたいなセリフだ」
「俳優よりカッコよくね?」
「うん、かっこいい」
「ふは、素直じゃん。まぁでも見惚れて足止めるくらいだもんなー」
「?!」
「どう?この髪型似合ってる?」
面白そうに笑って私に顔を近付けてくる豹馬。どうやらバレバレだったらしい。
「……似合いすぎてどうしようかなって思ってる」
「俺はそんなナマエが可愛すぎてどうしようかなって思ってる」
「どうしよう……」
「どうしたい?」
「……手を繋いで一緒に歩きたい、です」
「なにそれマジで可愛すぎんだけど。じゃあ、改めて――」
俺とデートしてください。
そう言って手を差し出してくれる豹馬に、しっかり頷いて自分の手を重ねる。豹馬の手袋って肌触りいいんだよね。なんてことを思っていると、私が手袋をしていないことに気付いた豹馬は顔を顰めた。
「手袋は?」
「えっと、学校忘れちゃったみたい」
「白くなってんじゃん。あ、ちょっと待って」
そう言って自分のバッグを漁ってなにやら取り出したのは新品なのかまだ箱に入っているなにか。クリーム色の箱から取り出したチューブの中身を手袋を外した自分の手に取り出した豹馬は、私の手を取って自分の手についているそれを優しく塗り込んだ。
「ハンドクリーム……?」
「そ。今日は雑誌の撮影だったんだけど、帰りにくれたやつ。ん、いい感じ」
「良い香りがするね」
「どこのだったかは忘れたけど、貰っといて正解だったな」
「ありがとう、温かくなった気がする」
豹馬に塗り込んで貰ったおかげで血流が良くなったのか、指先に感覚が戻ってくるような気がする。それに香りもいいし、と鼻元に近付けた手の甲をすんっと嗅いでみればフルーティな香りがふんわりと鼻腔をくすぐった。ベタつきもないしいいな、後でちゃんと見せてもらおうと思っていると、ハンドクリームの残りを自分の手に擦り込んでいた豹馬が私の目の前に自分の手袋を差し出してくる。
「え、大丈夫だよ。豹馬が使って」
「片方つけて。もう片方は――」
これでいいよな。
そう言って手袋をしていない方で握った私の手を自分のコートのポケットへとしまい込んで笑う豹馬。これまでこうして並んで出掛けることも、手を繋ぐことも、それ以上のこともたくさんしてきているけれど、どれだけ過ごす時間が増えたとしてもやっぱり私はこの人のことが大好きなのだと実感させられる。
「豹馬、だいすき」
「ん、知ってる」
――きっと私は彼に永遠の恋をしている。
▽
「わ、可愛い」
綺麗なクリスマスのデコレーション、良い香りの食べ物、カラフルなお菓子。こっちに来て初めてのクリスマスマーケットは通りに並ぶ屋台を見て歩くだけでも十分に楽しめるな。そう思いながら歩いていた私は、その中でも特に目にとまったハンドメイドのオーナメントが並ぶ店先を眺めている。小さなものなら一つくらい買って帰っても邪魔にならないよね。これ可愛い。ツリーの下で黒猫が眠っているスノードームは手のひらに乗る程度の大きさで、サイズ感的にも丁度いいなと思った。うん、買っちゃおう。
「ありがとうございます」
「ナマエ、なんかいいのあった?」
私がちょうど品物を受け取ったところで、飲み物を買ってくると言っていた豹馬が戻ってきたようで背中から聞きなれた声が掛かる。
「うん、可愛いスノードーム見つけたよ」
「へぇ。リビング飾る?」
「そうしようと思ってます」
「いいじゃん。はいこれ、美味そうなのあったから買ってきた」
「ありがとう……あ!」
「前に欲しいって言ってたくせに忘れてんだろうなって」
目の前に差し出されたのは可愛らしいクリスマスカラーのスーベニアマグ。そうだ、テレビで見て可愛いと思ったそれを今日は買って帰るつもりで豹馬に「行く時は買おうね!」と言っていたのにいろんなことに浮かれすぎてすっかり頭から抜けていた。テレビで見ていた時にはあんまり興味無さそうな反応をしていた豹馬だけど、こうしてちゃんと覚えてくれてるんだからずるいなぁと思う。でもスーベニアマグは早めに姫さ売り切れてしまうことも多いと聞くので、豹馬のおかげで手に入れられたことはとてもありがたかった。もう一度お礼を言ってマグを受け取ると、じんわりと指先に温かさが灯る。赤い色味が豹馬の髪や瞳みたいで綺麗だなと思いながら口を近付けて――寸前で止めた。スパイスとフルーツの芳醇な香りとこの色味。まさか……
「……豹馬、これホットワインじゃない?」
英語ではマルドワイン。本場のドイツではグリューワインと呼ばれるそれは「燃える」「熱を帯びる」と言う名前の通り、冷えた体を温めてくれるためにクリスマスマーケットの定番ドリンクとなっている。
「お、当たり。クリスマスマーケットって言えばこれじゃん?」
「それはそうなんだけど、そうじゃなくて……」
「ホットワイン嫌いじゃないだろ」
「でも豹馬、」
シーズン中だからお酒飲まないよね。
そんな意図を込めた視線を送ってみても、豹馬は私のものと対になっているマグを傾けて素知らぬ顔をしている。どうしよう。彼の言うとおり、ストレートのワインよりも甘めなホットワインはどちらかと言うと好きな部類。一度はホットワインを飲みながらクリスマスマーケットを歩きたいなと思っていたのも本当だけど、お酒好きな豹馬がシーズン中は飲まないと決めているのに私だけが飲むなんてことは出来ないし。かと言って折角豹馬が買ってきてくれたものを無下にするわけには……。そんな感情に板挟みになっている私がマグと豹馬を交互に見ていると、サラリと「飲まないなら捨てて別の買ってくる?」なんて言う豹馬。そう言われて「はいそうします」と私が言えないのをわかった上での発言に、私は観念してマグを口元へ運ぶのだった。
「ごめんね」
「そこはありがとうの方が嬉しいんだけど」
「ありがとう、いただきます。シーズン終わったら豹馬の好きなもの飲もうね」
「焼酎飲みてぇな。向こうで熱燗は売ってたんだよな」
「夏にやってたハイパージャパンで日本酒コーナーあったらしいし、人気出てるのかなぁ」
毎年ロンドンで開催されている日本の文化イベントでは日本食や日本酒、アニメや漫画などのブースがたくさん出ていると聞いた。私は残念ながら予定が合わずに行けてないけれど、学校の友人たちが日本の有名アニメのコスプレイヤーと写真を撮っていたり、日本酒カクテルを片手に日本食の試食を楽しんでいたりしていたのを後から見せてもらったことを思い出す。
他にもドイツソーセージを買った豹馬がいたく気に入って「潔?今度ソーセージ食いに行くわ」と相変わらず用件のみな連絡をしていたりする間に、マグの中身は気付けばあと一口になっていた。
「美味かった?」
「うん、ありがと――」
全てを言い切る前に繋ぐ手を優しく引かれて重なった唇。
残るワインの味を楽しむかのように舌を吸われ、最後はちゅっと軽くリップ音を響かせて離れるまで数秒。「甘いな」と笑う豹馬に私はホットワインのせいではなく顔が火照るのを感じるのだった。
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