比翼連理


ヒーリング・ラブ  







  朝、意識の浮上と共にゆっくりと瞼を開ける。のそりとベッドから起き出すと、寝起きのそれとは違う身体の重さと視界が回る感覚に私は思わずその場に座り込んだ。昨日の夜から続くそれらはどうやら一晩寝込んだくらいでは治ってはくれなかったらしい。
 熱――はない。喉や鼻に違和感もない。動悸は昨日は少しあったけど今日は大丈夫。吐き気はないけど、食欲もあまりない。少しの頭痛と目眩と倦怠感。特に最後のそれが一番強烈で少し動くだけで体中に重りを付けられているかのようだった。これはきっと風邪ではない。それなら原因は?それに関して心当たりは、ある。その原因になりそうな事柄に行き着いて、豹馬に移すようなものでなくてよかったと溜息が漏れた。時計を見るとまだ早朝と呼べる時間で、秋の深まるこの季節は日本と比べて窓の外はまだ薄暗い。昨日国内で一番遠いチームとの試合があった豹馬が帰ってくるのは早くてもお昼すぎ頃だろう。ならばそれまでに少しでも回復しておかないと。

「あったかいもの、飲も……」

 一人そう呟いて、鉛のように重い身体に毛布を抱いて緩慢な動作で寝室を後にした。



 ▽



【クリスマスに向けてクリスマスマーケットも賑わいを増してきて――】

 公共放送の朝のニュースではリポーターの女性が楽しそうに昨日のマーケットの様子を伝えている。こちらの番組は出演者がソファに足を組んで座っていたり、飲み物を飲みながら話していたりと日本より幾分か緩い雰囲気に最初見た時は驚いたなぁなんて思い出しながら、手に持っているマグカップに口付ける。紅茶にしようかとも思ったけど、今は蒸らす時間すら億劫でホットミルクにはちみつを垂らしただけ。それでも昨日から何も入れていない胃には十分すぎるほど染み渡るような気がした。

【次は皆さんお待ちかね、スポーツコーナーです!】
 
 ソファに座って毛布にくるまっていると、番組の内容はスポーツの話題へと切り替わる。秋頃がシーズンらしいフィールドホッケーの試合結果に続いてサッカーの昨日の試合結果が表示され、各チームのゴールシーンが流れていく。豹馬のチームは確か勝ってたはずだけどどうだっけ。試合は最初からちゃんと見ていたはずなのに、結果の記憶が曖昧なのはそれだけ試合に集中出来ていなかったという証拠。いつもなら豹馬のあのプレーがすごかったとか殆ど覚えているはずなのにやっぱり頭が上手く働いていなかったらしい。試合結果を見るとチームは勝利しており、そこを間違えていなくて安心した。得点者の欄に豹馬の名前は残念ながら載ってはいないけれど、豹馬は今節の試合でも怪我をせずに最後の笛が鳴るまでピッチに立っていた。正直な話、私としてはそれだけでも十分に嬉しくて幸せなことだと思っている。コンタクトスポーツをしている限り怪我のリスクは付き纏うのは仕方ないことだけれど、もう豹馬にあんな辛い思いはして欲しくないのだから。

【それでは、今シーズンも得点王争いをしているこの方にお話を――】

 スタジオのスポーツプレゼンターの人がそう言って録画の映像に切り替わる。あ、プリンスさんだ。そう言えばさっきの映像でなんだかすごいゴールを決めていたっけ。豹馬の恩師の一人である彼は、みんなからパーフェクトヒーローと呼ばれるだけあってやっぱりすごいんだなぁと頭の働いていない感想が浮かんだ。
 ぼーっとする頭でそんなことを考えていると身体が温まってきたのかまた睡魔が襲ってくる。落としたら危ないとマグカップをローテーブルに置いて、ずるずるとソファに沈み込む私の視界の端に映ったのは綺麗なピンク色。それが豹馬の脱ぎ捨てたカーディガンだと職務怠慢気味な脳が認識するのと、私がそれに指を伸ばすのはほぼ同時だった。豹馬の香りがするカーディガンを抱きしめてすんと鼻を鳴らせば、まるで豹馬の腕の中に居るかのように錯覚する。頭痛も倦怠感も、しんどいもの全てが絵の具が水に溶け出すように少しづつ和らいでいく感覚。あぁ、すごく安心する。豹馬がアウェーで一晩居ないのはよくある事なのに、無意識に寂しさが募っていたのかもしれない。弱ってると人恋しくなるってほんとなんだな。誰でもいいわけじゃなくて豹馬だからそう思うのかもしれないけど。だから少しだけ。豹馬が帰ってくるまでには起きるから、今だけこうしていてもいいですか――


 
 ▽



「豹馬死んじゃうの……?!」

 そう言ってベッドに縋り付くようにして泣きじゃくる女の子。あれは小学生の頃の私だ。その証拠に豹馬のお母さんが慌てて「ナマエちゃん、豹馬はただの風邪だから大丈夫よ」と背中をとんとんと撫でて宥めてくれている。
 あぁ、これは昔の夢を見ているんだ。小学生の冬のある日、豹馬が高熱を出して学校を休んだ日の記憶。レトロ加工されたような映像が流れて行く様子にまるで古い映画を見ているような感覚になっていた。

「朝迎えに来てくれた時、わたしが準備出来るまで寒い中待っててくれたから……」

 豹馬が風邪を引いたのは自分のせいだとボロボロ泣いている私に、熱冷まし用のシートを額に貼った豹馬が布団から手を伸ばして頭を撫でる。

「ナマエのせいじゃない……俺がサッカーの試合見ながらこたつで寝てたせいだって」

 だから泣くなって。な?
 そう言ってしんどいはずなのに無理に笑顔を見せる豹馬。この頃から豹馬はかっこよかったんだよね。更に「風邪に負けるとかマジでかっこわりー……」と自嘲するように笑うから、慌ててぶんぶんとちぎれるんじゃないかと思うほど首を横に振る幼い私。

「豹馬はかっこ悪くなんてない!いつでもかっこいいし、優しいし、足速いし、サッカー上手だし……!豹馬がいつも頑張ってるの、わたし知ってるもん……」
「はは、そっか。さんきゅーな」

 そう言って豹馬はまた泣きそうになっている私の、首を振ったせいで乱れている髪を優しく整えてくれる。それを見て豹馬のお母さんは「あらあら、仲良しね。新しい飲み物持ってくるから待ってて」と笑って部屋を後にした。残された私はごしごしと乱雑に目の涙を拭うと「目赤くなるって」と制止しようと自分に伸びた豹馬の手を両手でぎゅっと握る。

「豹馬に私の――」

 最後に呟いた言葉はふわりと浮上する感覚によって上手く聞き取ることが出来なかったけれど、今でもしっかり覚えている。そして同時にその時の豹馬の手の熱さを私は今でも忘れることは出来ないのだった。


 




「あ、れ……?」
「ん、起きた?」

 ゆるやかに浮上した意識に重たい瞼を開く。その先に見えたのは見慣れた寝室の天井と、床に座ってベッドに背を預けている豹馬の姿だった。でもどうして。私は確かリビングで寝てたはずじゃ――と思ったところでハッとする。慌てて視線を動かし窓の外を見ると陽は傾き始めていて、次に見た部屋の時計は既にお昼を過ぎていることを示していた。

「っ?!」
「あー、こら、そんないきなり動くなって」

 想像よりもだいぶ長く寝ていたと言う事実に弾かれるように体を起こすと、またくらりと視界が揺れる。そしてそれを見た豹馬は読んでいた本を放り投げて私の体をもう一度ベッドへと押し戻した。

「おかえり豹馬。ごめん、ちょっと寝るだけのつもりだったのに……お昼ご飯、」
「ただいま。昼飯はクラブハウスで食ってきたから大丈夫」
「そっか、それならよかった。ごめんね、掃除とかまだ出来てなくて今から、」
「ナマエ」
「っ」

 作るから。
 そう続くはずだった言葉は私をベッドへ押し戻したまま、私の顔の横に手をついて見下ろしている豹馬によって遮られる。じっと見つめられる視線に気まずさを覚えて、思わず泳ぐ視線。最も、気まずくなくても豹馬と見つめ合うと気恥ずかしさからいつも私から視線を逸らしてしまうのだけれど。

「俺が言いたいことわかる?」
「……ごめんなさい、体調管理出来てなくて」
「そうじゃない」
「……」
「どんだけ気を付けてても体調崩すことはあるじゃん。だからそこに対して怒るとかねーから。ただ、体調悪いなら悪いって言って。隠されて無理される方がイヤ。ナマエは俺が怪我してんの黙ってたらどう思う?」
「それはっ……すごく心配するし、悲しい……」
「そう。心配するし悲しいだろ」

 俺もおんなじ。
 そうきっぱりと言われて思わず言葉に詰まる。豹馬に迷惑をかけたくないと言うことばかりが先行して、彼の気持ちを考えられていなかった自分が恥ずかしい。そんな私の気持ちが伝わったのか、豹馬は「はい、マイナス思考にならないでくださーい」とわざと明るい口調でそう言った。

「伝わったならそれでいーよ」
「……ごめんね。ありがとう」

 優しく頭を撫でてくれる豹馬にお礼を伝えると豹馬が満足したように頷く。

「で?どこがしんどい?熱は?」
「熱は無いよ。喉も痛くないし、風邪じゃないと思う。ただ、倦怠感と頭痛があるかな……」
「そっか。それ多分過労だろーな。こっちに来て慣れない環境で気を張ってたのが限界来たってとこ」
「……」
「学校だけでも大変なのに、家事とかも頑張ってくれてたもんな。すげぇ助かってたけど俺もそれに甘えてたとこあるし、ナマエが無理しがちなのも考えればわかることだった。早めに気付けなくてごめん」
「ちが、豹馬は悪くないの……!」

 謝る豹馬を慌てて止める。確かに言語や文化の違う遠く離れたこの国での生活が不安だったわけではない。実際戸惑うところもたくさんあった。それでも豹馬が居るから、豹馬の役に立てるなら、豹馬と一緒だから。私はきっと大丈夫。そう思ってここまで頑張ってきたけれど、どうやら気合いだけではじわじわと溜まっていたらしい疲れを誤魔化せなくなっていたらしい。ダメだな、私。豹馬がサッカーに集中出来るようにって思ってたのに、結局こうして彼に気を遣わせている。さっき豹馬にマイナス思考はダメだと言われたばかりなのに、どうしてもそんな思考に至ってしまう私はやっぱりメンタルまで弱っているのかもしれなかった。

「ごめ、」
「ナマエは悪くねぇよ」
「え……」
「いつでも可愛いし、優しいし、努力家だし、真面目だし。ナマエがいつも頑張ってるの、知ってるから」

 ついまた謝ってしまう私に豹馬が言ったフレーズは聞き覚えがありすぎて、思わず声が零れる。
 
「豹馬、それ……」
「ん?ナマエが俺が熱出した時に言ってくれたやつ。覚えてる?って聞かなくてもその反応は覚えてるか」

 そう言って悪戯が成功した子どものように笑う豹馬と夢で見た小学生の頃の豹馬が重なった。あぁどうして。この人はいつも私の欲しい言葉をくれるんだろう。こころがあたたかい温度で少しづつ満たされていく。そして満たされすぎて溢れ出るそれを表すかのように、じわりと滲む世界。

「はは、泣き虫なところは変わんないな」
「豹馬の、せい……」
「とりあえず回復するまでしっかり休んで。あと、これからも頑張るなとは言わねーけど、俺の心配事を減らすって意味で無理はしないでくれると助かるわ」
「うん。ありがとう、気をつけます」
「ん、いい子。まぁ俺の前で泣く分にはいくらでもどうぞって感じではあるけどな」
「?」
「目の前なら受け止めるのも泣き止ますのも俺が出来るし、なにより知らないところで泣かれる方が辛いんで」

 それにカーディガンより断然役立つと思うんだけど?
 そう言ってニヤリと笑う豹馬。そう言えば聞きそびれていたけれど、ソファに居たはずの私がここに居ると言うことは誰かが運んでくれたに他ならず、そんなことをするのは一人しか居ない。つまり、豹馬が運んでくれたことになるのだけれど、ソファに居た私は寝落ちる前に何を抱きしめていた……?

「〜っ?!」
「お。その反応は思い出した?」
「あ、あれは……」
「いやー、ソファで寝てるナマエが俺のカーディガン抱きしめてるの見つけた時は、マジ可愛すぎてどうにかなりそうだった」
「……今すぐ忘れてくれませんか、豹馬さん」
「無理。なんなら一生忘れられませんね、ナマエさん」
「うう……」

 恥ずかしすぎて熱は無いはずなのに頬どころか耳まで熱い。いたたまれなくなって逃げるように布団を引き上げる私の手を、豹馬がおもむろに引いてその大きな両手で包み込む。え?と思うと同時に、脳がとろけてしまうんじゃないかと思うほどに甘く優しく囁かれた科白。今度こそ私の涙腺を決壊させたのは、あの日幼い私が豹馬に言ったその言葉だった。

「ナマエに俺の元気をわけてあげる」
 
 
 


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